讃美歌を聞いていると、嫌味で耐えられなくなるというひとがいる。
神様をたたえる歌なので神様に出会っていないと大変である。
なかには組織に認められたいので出会っていたようにして疲れたひともいる。
そのままの状態で良しとされないことはつらいことである。
組織である以上仕方のないことだが、できればおもいっきり、
誰に強制されることなく神様と出会い、たたえたいものである。
そうできないのならしなくてもいい。
そのままの状態でよいのである。
讃美歌を聞いていると、嫌味で耐えられなくなるというひとがいる。
神様をたたえる歌なので神様に出会っていないと大変である。
なかには組織に認められたいので出会っていたようにして疲れたひともいる。
そのままの状態で良しとされないことはつらいことである。
組織である以上仕方のないことだが、できればおもいっきり、
誰に強制されることなく神様と出会い、たたえたいものである。
そうできないのならしなくてもいい。
そのままの状態でよいのである。
今年の雪は遅かった。
ある意味ありがたいのだが、
それでもまだかと思ってしまう。
初雪はすぐに大地を覆う。
白くなった大地も美しい。
汚れたところが清くなるという
表現をしているひともいるが、
ありのままの姿が良い。
神様もそうだから。
旦那がよく会うそうだが、わたしにはどうしてもわからない。
それはとても暗い表情をしたキリストで、とても怖いらしい。
見ようによっては牧師の顔をしていることもあるらしい。
いばらの冠をかぶって血を流しているらしい。
多くのひとが礼拝しているのはそんなキリストかもしれない。
しかし、イエスのみ衣はとても輝いている白である。
イエスの表情は光に包まれていてとても眩しい。
とてもやさしい感じがする。
祈っていたときにそばに来られて、わたしになにをしてほしいのですかと
聞いてくださったときのことをいまでも忘れてはいない。
長い間やっていると信仰に限らず疲れることがある。
信仰は組織が絡んでくるのが厄介かもしれない。
表向きは神様がというが、本当は何なのだろう。
まあそれはよいとして、疲れたときはどうすればよいのだろう。
信仰が疲れる原因になっているのならそこから出たらいい。
といっても難しいので解決にはならないが、
とにかく考えないのが一番だろう。
いままで日曜日の時間に出来なかったことをするのもいい。
たとえば趣味をしたり、仲のよい良い友人に会ったり、
そんなことをして礼拝に出席しないのは罪だということを
言われたらそこには二度と行かないほうがいい。
そこには神様はいないからだ。
不思議なもので、やめた後に本当の神様に会うこともある。
神様の救いはどこにあるのかわからない。
一般的なキリスト教会では当然のことだが、
わたしは聖書を使ったメッセージが出来ない。
神学生のときは授業のなかでやっていたが
どうしても神様を伝えるうえでは難しかった。
はっきり言うと、聖書を読んでいる以上
神様はわからなくなる。
何故ならば政府によって改ざんされているからである。
政府が自分たちの政治に都合の良いように、
またそうでない箇所は焼き捨てて聖書を作り上げたからである。
聖書をありがたがって読んでいる場合ではない。
わたしもありがたいことに、メッセージを頼まれたり
したこともあるが、上記の通り引き受けることが出来ず悩んだことがある。
しかし聖書を使わなくても本当の神様を伝えることが出来ると
思っているこの気持ちはいままでの、そしてこれからのわたしを支えている。
それはわたしにとってもただひとつの救いである。