神様の存在をどう思うだろうか。
神々しいお方で、言うことを聞かないと裁かれる方ではない。
旦那はそんな神様に長い間苦しめられたという。
そう思うひとは多いのではないだろうか。
神様はいつも味方で、さりげなくそばにいてくださるお方。
やさしく寄り添ってくださるお方である。
神様の存在をどう思うだろうか。
神々しいお方で、言うことを聞かないと裁かれる方ではない。
旦那はそんな神様に長い間苦しめられたという。
そう思うひとは多いのではないだろうか。
神様はいつも味方で、さりげなくそばにいてくださるお方。
やさしく寄り添ってくださるお方である。
教会に行っていると夢を追うことを忘れてしまう。
すべてが神様になってしまうからで、
そうでなくても大人になるからだ。
それが何になるわけではないけれど、
そんなことをやるのもおもしろい。
神様は微笑みながら見守ってくださる。
もう一度夢を追ってみよう。
教会がなくなって夢を追っている旦那を見て
そんなことを考えていた。
救われる瞬間というのはどういうものか。
教会の教えによると、罪を悔い改めて神様を信じて
従っていき、なおかつクリスチャンとして生活を送る。
最低でも日曜日には礼拝出席し、奉仕をし、
与えられたものの十分の一をささげること。
まあお決まりのことである。
しかし世の中にはそれができないひとも暮らしている。
そのひとたちのところに行き・・・。
というのが常であろうが、それだけでは救われない。
本当にひとを救おうと思うのなら、相手を認めて理解する。
つまり隣人になることである。
正しさだけでは救われない。
そうしているといつかは救いの瞬間が訪れるのである。
あの日、あのときイエスがなされたように・・・。
長い間人間をやっていると、それなりに黒歴史というのが出来てくるものだが、
それにどう向き合ってよいのかわからなくなるときがある。
わたしは前にいた教会の牧師と別れるときに、今度会ったら刺すと言った。
それくらい言わないと決別出来ないと思ったからだ。
やさしいときと、ひどい言葉を発するときとよくわからないひとだった。
自分の両親がそうだったため、もうこれ以上ひどい目にあいたくない一心だった。
わたしが懸命に努めてなれなかった聖職者に、牧師のふたりの息子はなっていて
何事もなかったかのように普通に牧会しているらしい。
おそらくわたしの受けた訓練とは違うものだと思われる。
ひとであればあの訓練では倒れないわけがないからである。
さあそれではどのようにして救いにもっていくかだが、
何事も神様のご計画であり、すべてが益となるということだ。
わたしもこれを受け入れるまでに長い時間がかかったし、
いまも思い出すと腹が立つことが多い。
しかし、やさしい旦那と子どもたち、またこの十勝みのる教会の開設。
いろいろなものが与えられている。
一番良いようにしてくださる神様を見つめながら、
いまを生きている。
本当の救いだと信じながら・・・。
物事は相対的に考えるほうが周りも自分も楽である。
もちろんひとつの考え方である。
絶対を置いてしまうと周りも合わせるのに苦労するし、
自分もその絶対的な価値観を守ろうと必死になるからだ。
信仰も例外ではないが、唯一絶対神を信じているひと、
または聖職者には通用しないらしい。
特に聖職者の場合、ひとの話を聞くのが仕事なのに
出来ないひとが多いのが大変である。
自分が一番偉いと思っているので何を言っても無駄である。
神様は心の広いお方なので、いつもよく聞いてくださる。
そんな神様に仕えているのに...というところだろうか。
信仰の論理にはまるのは勝手だが、ひとが救われるかどうかは
また別の話だからである。