十勝みのる教会

教会堂、献金、奉仕、集会がない教会。しかし、神様があなたを愛してくれていることだけを伝える教会。

神様は味方

2022-06-29 19:11:00 | 日記

神様の存在をどう思うだろうか。

神々しいお方で、言うことを聞かないと裁かれる方ではない。

旦那はそんな神様に長い間苦しめられたという。

そう思うひとは多いのではないだろうか。

神様はいつも味方で、さりげなくそばにいてくださるお方。

やさしく寄り添ってくださるお方である。


夢を追う

2022-06-26 18:24:30 | 日記

教会に行っていると夢を追うことを忘れてしまう。

すべてが神様になってしまうからで、

そうでなくても大人になるからだ。

それが何になるわけではないけれど、

そんなことをやるのもおもしろい。

神様は微笑みながら見守ってくださる。

もう一度夢を追ってみよう。

教会がなくなって夢を追っている旦那を見て

そんなことを考えていた。


救いの瞬間

2022-06-10 18:20:23 | 日記

救われる瞬間というのはどういうものか。

教会の教えによると、罪を悔い改めて神様を信じて

従っていき、なおかつクリスチャンとして生活を送る。

最低でも日曜日には礼拝出席し、奉仕をし、

与えられたものの十分の一をささげること。

まあお決まりのことである。

しかし世の中にはそれができないひとも暮らしている。

そのひとたちのところに行き・・・。

というのが常であろうが、それだけでは救われない。

本当にひとを救おうと思うのなら、相手を認めて理解する。

つまり隣人になることである。

正しさだけでは救われない。

そうしているといつかは救いの瞬間が訪れるのである。

あの日、あのときイエスがなされたように・・・。


本当の意味での救い

2022-06-09 16:09:11 | 日記

長い間人間をやっていると、それなりに黒歴史というのが出来てくるものだが、

それにどう向き合ってよいのかわからなくなるときがある。

わたしは前にいた教会の牧師と別れるときに、今度会ったら刺すと言った。

それくらい言わないと決別出来ないと思ったからだ。

やさしいときと、ひどい言葉を発するときとよくわからないひとだった。

自分の両親がそうだったため、もうこれ以上ひどい目にあいたくない一心だった。

わたしが懸命に努めてなれなかった聖職者に、牧師のふたりの息子はなっていて

何事もなかったかのように普通に牧会しているらしい。

おそらくわたしの受けた訓練とは違うものだと思われる。

ひとであればあの訓練では倒れないわけがないからである。

さあそれではどのようにして救いにもっていくかだが、

何事も神様のご計画であり、すべてが益となるということだ。

わたしもこれを受け入れるまでに長い時間がかかったし、

いまも思い出すと腹が立つことが多い。

しかし、やさしい旦那と子どもたち、またこの十勝みのる教会の開設。

いろいろなものが与えられている。

一番良いようにしてくださる神様を見つめながら、

いまを生きている。

本当の救いだと信じながら・・・。


相対的信仰とそうでない信仰

2022-06-04 15:18:29 | 日記

物事は相対的に考えるほうが周りも自分も楽である。

もちろんひとつの考え方である。

絶対を置いてしまうと周りも合わせるのに苦労するし、

自分もその絶対的な価値観を守ろうと必死になるからだ。

信仰も例外ではないが、唯一絶対神を信じているひと、

または聖職者には通用しないらしい。

特に聖職者の場合、ひとの話を聞くのが仕事なのに

出来ないひとが多いのが大変である。

自分が一番偉いと思っているので何を言っても無駄である。

神様は心の広いお方なので、いつもよく聞いてくださる。

そんな神様に仕えているのに...というところだろうか。

信仰の論理にはまるのは勝手だが、ひとが救われるかどうかは

また別の話だからである。