十勝みのる教会

教会堂、献金、奉仕、集会がない教会。しかし、神様があなたを愛してくれていることだけを伝える教会。

ひとを信じること

2022-04-30 15:52:50 | 日記

神様を信じるのも難しいが、

ひとを信じるのは難しいものである。

一般論ではそういわれている。

何故ならば裏切られる可能性があるからだ。

愛なる神様を信じていても、行いだと言われる。

親友だと思っていても、伴侶や恋人だと思っていても・・・

ということであろう。

しかしながらわたしは信じることをお勧めする。

本当の神様や、親友や伴侶に出会えたほうがいいと思う。

不思議なもので、自らひとを信じているひとには

本物の相手が現われるからである。

時間はかかっても本当の相手を探すほうがよい。

ひとはそうであるが、神様は本当の神様に出会わない限り

後々大変なことになってしまうのでこちらのほうが根が深い。


教会堂を守ること

2022-04-22 21:18:58 | 日記

何処の教会でも経費が不足していると聞く。

ほとんどが教会員の数に比例し、

都会ではない、田舎の教会はどうしても不利だと

いうのが常だと言われている。

特に運営組織の無い教会は、

会堂維持や牧師の謝礼すべてを教会員の

献金で賄わなければならない。

そんな教会の献金を依頼すると、

うちも大変とか、知らないしとか、

そんな答えが返ってくる。

都会でたくさんの教会員がいて豊かなはずなのに。

しかしここで注意しておかなくてはならないことは、

そんな豊かな教会でも、田舎の教会のようにならないとは

限らないということである。

神様が祝福してくだされば大丈夫だと豊かな教会は言うが、

初めからリスクのないところにいるだけである。

神様がどんな方法で田舎の教会を導いてくださるのかたのしみである。

それと同時に本当の教会として広く用いられる御心の大きさを

感じることができることがよい。

何故ならばその教会にはイエスがおられるからである。

 


救われるということ

2022-04-20 17:33:50 | 日記

救われるということはどういうことだろう。

宗教組織に行って神様を信じることとかではない。

では一体何だろうか。

神様を信じる信じないに関らず、

神様は愛してくださるし、そばにいてくださる。

そして抱いていてくださる。

そのことをありがたがらないひとにも救いは平等にある。

つまり何もしなくてもすでに救われている。

神様ではなくても救われるものがあれば良い。

それは神様の喜ばれることだからである。

 


墓のなかから

2022-04-17 13:19:40 | 日記

今日はイースターということで、

よみがえられたイエスのことを考えてみたい。

イエスは十字架で息絶え、3日目によみがえられた。

誰もあけてないのに墓があいていて、

イエスはよみがえり、人々に会われた。

そのひとに合わせてイエスは会ってくださる。

イエスを信じるひとにも、そうでないひとにも、

墓のなかからよみがえり、今もそばにいてくださる

イエスを喜ぼう。


カルバリの丘で

2022-04-15 19:25:15 | 日記

イエスは十字架につかれた。

今日は受難日ということで、

イエスの十字架をおぼえたいものである。

イエスの十字架は敗北ではなく、

勝利、恵み、癒しである。

イエスの十字架での苦しみは、

すべてのひとを救うためである。

信じる、信じないに関らず、

こだわることのない救いこそが

イエスの命そのものだと、

カルバリの丘でそっとおしえられた。

今日もイエスの命にあずかりたいものである。