あれからどれくらい経ったのだろうか?
今は平穏に暮らしている。
日曜日は日頃できないことをやっている。
心が穏やかだ。
平和の尊さをかみしめながら
半世紀を生きている。
本当の神様とともに。
もう精神的な苦痛も献金もない
穏やかな日々に・・・
あれからどれくらい経ったのだろうか?
今は平穏に暮らしている。
日曜日は日頃できないことをやっている。
心が穏やかだ。
平和の尊さをかみしめながら
半世紀を生きている。
本当の神様とともに。
もう精神的な苦痛も献金もない
穏やかな日々に・・・
神様を知っていますかと聞かれたことがあるだろうか?
組織に所属していても知らないと判断されるひとは多いものである。
でもそれは組織の判断であって神様の判断ではない。
組織に神様を知っていると言われるひとが
必ずしも神様を知っているとは限らない。
神様はすべてのひとを知っておられ、愛しておられる。
しかし、組織の考え方と相反している。
そんなところで信仰生活を送るのは難しい。
目に見えない、耳に聞こえない神様のお姿と御声を
どうやって証明すれば良いのだろう?
十月は八百万の神様が出雲大社に集まられるので
神無月と言われている。
出雲では神有月らしい。
いつも神様がそばにいてくださるので
十月でも神有月だ。
そんなことを思いながらゆっくりしている。
何の神様もそうであるが、ある一定の時間や期間が過ぎると
神様は関係なくなることが多い。
初詣は神社、葬式はお寺、クリスマスは教会。
結婚式は信者でなくても教会で挙げるひともいる。
また集会が終わった後は食事をしたり、お茶を飲んだり・・・
その後は来週またねとそれぞれの場所に帰る。
まあ、それは生活があるので仕方がないとしても、
殆どのひとが次の集会まで神様を忘れている。
しかし神様は忘れられない。
片時も忘れずに愛してくださるのである。
神様を信じないと地獄に行きますよ。
こんな言葉を聞いたことがあるだろうか。
また一度信じて信じないようになると
神様の裁きがありますよ。
なんて語られたことはないだろうか。
まるで脅迫されるように信仰されている方が
いらっしゃるのならそうではないと言いたい。
それは組織の裏事情であって神様はそんなお方ではない。
わたしたちがどんなものであっても神様は愛して
救ってくださるのである。