ふたり、三人とわたしの名のもとに・・・。
先日遠方から子どもたちが帰ってきた。
全員が揃うのは何年振りだろう。
一緒にご飯を食べるのも久しぶりで
それぞれの話を聞いているのも楽しい。
イエスもそのなかにいてくださる。
子どもたちは特に信仰をしている訳ではないが、
神様はひとりひとりを祝福してくださる。
ふたり、三人とわたしの名のもとに・・・。
先日遠方から子どもたちが帰ってきた。
全員が揃うのは何年振りだろう。
一緒にご飯を食べるのも久しぶりで
それぞれの話を聞いているのも楽しい。
イエスもそのなかにいてくださる。
子どもたちは特に信仰をしている訳ではないが、
神様はひとりひとりを祝福してくださる。
神様はすべてのひとにタラントを与えている。
それなのに教会は日曜日の礼拝に出席できる
仕事をしなさいという。
しかしながら日曜日休みの仕事ばかりではない。
せっかくのタラントを使わなければもったいない。
そういうと神様を大切にしていないといわれる。
神様はそうはおっしゃらない。
神様のためにあなたがあるわけではない。
あなたのために神様があるからである。
神様から与えられたタラントを大切にして、
あなたが幸せになることを神様は望んであるので、
何も心配しなくてもよいのである。
献身者はそうではないといわれるが、
献身者も例外ではない。
なぜならば教会に献身するのではなく、
神様に献身しているからである。
神様のことを伝えるときに、救いたい一心で
神様のことを信じなさい、悔い改めて従いなさいと
いう伝えかたがあるが、かえって逆効果になることがある。
正しいと思っていることを伝えればよいというわけではない。
ひとにはそれぞれ今まで歩んできた人生があるので
すぐに信じることができるかというとそうではない。
何の疑いもなく信じることができれば恵みであろうし、
神様が働いてくださることで信じることができる。
無条件に救い、愛してくださる神様であるので
そこで初めて救われるのである。
ひとにはそれぞれに大切にしていることがある。
しかし救いと引き換えに失ってしまうものも多い。
ひとつの概念、つまり教会で語られている救われる方法は
多くの大切にしていることやものを捨てなくてはならない。
それで教会を離れたら神様のことを知る前よりも罪が重くなると。
こんな救いを受けたいだろうか。
また継続したいだろうか。
神様はそうではないのに、教会はそう教える。
救われるために失うものは何もない。
悔い改めを促す霊がいるならば、
相手にしないことがよいだろう。
霊はとても巧妙で、
神様のような顔をして近ついてくる。
例えば聖書に書いてあるとか、
偉い先生がこう言っているとか、
あらゆる手段でくるので、
わかっていたほうがいい。
神様は悔い改めるよりも、
幸せになるほうがいいといってくださるのだから。