東北本線,東海道本線沿線 全線全駅歩き旅のブログ

旧東北本線と田沢湖線,花輪線,釜石線,八戸線,山田線、北上線、東海道本線、奈良線、大船渡線沿線歩き旅の記録。

東海道本線全線全駅歩き旅 続編(77) 茨木駅 ―> 千里丘駅

2022年08月20日 | 東海道本線 京都駅から神戸駅
東海道本線全線全駅歩き旅 続編(77)

2022年(R4)5月30日(月) 茨木駅 ―> 千里丘駅 JR営業キロ2.9Km

茨木駅から続く道は「エキスポロード」という名だ。





いやー、思い出すなあ、大阪万博。
当時の大阪は岩手県からはかなり遠い所だったが、会社ぐるみで見学に行ったものだった。
岡本太郎さんの「太陽の塔」を見たときは、なんじゃこれはという印象だったっけ。
わたしのような俗物人に芸術は理解するのがむずかしい。
興味があったのはやはり「月の石」だったな、ずいぶんと並んで見た記憶がある。
数年前だが乗り物好きのわたしは大阪まで来たついでにモノレールに乗ったのだった。
万博記念公園駅で降りて太陽の塔を見に行った、50年以上も経っているから汚れも目立つけどなかなかの迫力だった。



歩いていくと道の向こうにピエロの人形が見えた。



ああ、先ほど公園で見たピエロのシーソー、駅にあった人形。ということはこの町はピエロをモチーフにしているのか。
イオンモールのほうへと歩いていくと歩道に「徒歩帰宅者支援ルート」のシールを見つけた。





阪神淡路大震災の記憶も東日本大震災の記憶でさえも忘れされようとしているが大災害はいつ襲ってくるかわからない。
わたしの住む田舎町ならともかく大阪のような大都会で鉄道、バスが動かなくなったら大変だ。
徒歩で帰宅するしかないというとき何かと支援してくれれば助かるのだ。
そのような時の備えとして会社のロッカーにスニーカーを置いている人もいるという。
ここでもイオンモールを見に行く。





頭上をモノレールが走っている。ここから太陽の塔まで直線距離で2.5キロメートルだがわたしの歩く方向とは違っている。



日世会社の前を通る、会社の壁には見慣れたアイスクリームの絵がある。





おお、ここで作っていたのか。

このラーメン屋さんは人気なんだな、昼食時間帯は過ぎたが店の外まで行列ができていた。



歩いていくと大きな門があった。



近寄ってみると幼稚園の門だった。



大きく造ってあるのは偉そうに見せるため? まさかね、子供たちが入りやすいようにとの気持ちを込めたんだろうな。



おお、ここにも業務スーパーがあった。



買い物はしないがちょっとだけ見ていこう。



野菜が充実しているね。



お、なんと中央に太陽の塔が、さすが万博の街だ。





駅にほど近いこのレストランはメニューに工夫を凝らしている。





ローストビーフユッケバーガーなどなかなかユニーク、一度食べてみようかなという気にさせることが重要。







千里丘駅まで来た。







「せんりがおか」ではなくて「せんりおか」だったのか、知らなかった。







なんと駅構内の広いこと。





東海道本線全線全駅歩き旅 続編(76) 総持寺駅 ―> 茨木駅

2022年08月20日 | 東海道本線 京都駅から神戸駅
東海道本線全線全駅歩き旅 続編(76)

2022年(R4)5月30日(月) 総持寺駅 ―> 茨木駅 JR営業キロ3.7Km

終戦の日で思い出したことを。
わたしが最初に勤めた会社の社長は太平洋戦争中は予科練生だったそうだ。
かれはわたしに「オレは予科練だったんだ。ところが卒業する直前に終戦になってしまったんだ。ああ、あのときオレが戦場へ行けたならばあの戦争に勝てたはずなのだが、、、」と話してくれたものだ。
わたしは「あなたひとりが戦場へ出て行ったところで戦況は全く変わらなかったはずですよ」と言いたかったがぐっとこらえた。

かれの家庭は根っからの軍国主義者だったらしく兄弟の名前も戦争に関する勇ましいものばかりだった。
いまの平和な日本では考えられないが太平洋戦争当時の若者は戦場にいくことを誇りに思い楽しみにしていたんだろうと思う。
軍人、政治家だけでなく日本全体が完全に軍国主義、戦争遂行に向かっていた時代だ。
最近の小説、映画で「僕は愛する家族を守るために戦場へ行く」というよう表現をすることがあるが、当時は家族より「お国のため」というのが多かったんだろうと思う。

前線から遠く離れ、戦場の悲惨さも伝わらないところでは戦争はかっこよく見えてしまう。
とくに若い人たちは「ああ、おれも敵と戦いたい」と考えるだろう。
もし戦場から無事帰ってきても「戦場は恐ろしかった、もう二度と戦争は嫌だ」とは言い出せない。
周りから意気地なしだとかお前は逃げ回っていたんだろうと叩かれるのがオチだ。
グアム島で生き延びた横井正一さんがそのよい例だ。
彼は「恥ずかしながら帰ってまいりました」と言ったのだった。生還するのが恥ずかしいと言わなければならないなんて、あまりにも情けないではないか。
政府や独裁者は自分たちに都合の良い情報しか国民に伝えないはずだし。

戦争の無い社会のほうがどの国も繁栄すると思うのだが、いまの世界を見ると難しそうだなあ。

総持寺駅から歩いて行き安威川を渡る。



そうして住宅地の狭い道を進んでいく。



この公園には滑り台と、、、えええ?





見ればシーソーだとわかるのだが、このデザインは、、
ユニークではあるな。





道端で立ち話をしているふたりのお婆さんがいた。



ふたりともそこに立ったままじっと動かず、話を続けている。
このように路上で立ち話をしているお婆さんというのはときどき見かける。
特徴的なのはどちらもその位置から動かないということだ。
なにしろ「動いたら負け」という暗黙のルールがあるのだ(笑)



わたしがじーっと見ているあいだ、このふたりも全く動かなかった。
なかなか勝負がつかない、ときには1時間以上もその場を動かずに話続けることがあるくらいだからなあ。
とうとう見ているわたしのほうが根負けして歩き出してしまった。



お店の前に人形が置いてある。





関西の「粉もん文化」を担う若者の姿だ、なかなか凛々しい。



時刻は12時を回ってしまった。
どこかで昼食をときょろきょろしながら歩いていくと「やよい軒」があった。



迷わず入店したものの券売機の前でなにを食べようかとさんざん迷う。わたしは優柔不断な迷惑客だな。



店内は満席、店員さんは大忙しのようだ。
味のほうは無難なファミレスの味という感じだが十分においしい。



食べ終えてから駅へと行く。



大都会の駅だからこの時間でも大勢の人がいる。







駅の東口には時計と人形がある、おもちゃの国を表しているんだろうな。





夜はイルミネーションでライトアップされるらしい。
で、西口はというといたって地味だった。