釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

83 『光る淵の 其処につどはす三世(みよ)の仏(ほとけ)・・・

2013-06-07 09:57:31 | 釋超空の短歌
『光る淵の 其処につどはす三世(みよ)の仏(ほとけ)
   まじらひがたき、現(うつしみ)。われは
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死んだら、どうなるだろうか?
あるいは『何処へ行く』だろうか?
というのは恐らく誰もが子供の頃から思う漠然とした感覚だろう。

それについて、いろいろな人が、いろいろなことを言ったり書いたりしている。
しかし、つまるところ、結局は、誰も分からない・・・に相違ない。
べつに分からなくたっても私如き凡人は何の不自由もない。

しかし確実なことは (世の中に、これほど確実なことはないが) 誰も例外なく、いつかは其の『体験』をする。
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私は或る病気で全身麻酔をしたことがある。そのとき、口にマスクさせられた時、ほぼ同時に私の意識はなくなっていった。
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遠くのほうから、***さん、***さん、という声が聞こえてきた。そして無事、手術は終わったことを告げられた。私は始め何のことか理解できなかった。が、『あ~、手術をしたんだと』と少しずつ意識が戻ってきた。私はマスクさせられたときから、声をかけられるまで全く何も覚えていない。
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生から死に至るまでの人間の体内臓器の死滅は、おそらく電気用語で言うところの同期はしていないだろう。各臓器が順不動で死滅していき、その死滅の順序に従い、固有の苦痛と意識の乱れが錯綜していき、最終的なご臨終となるのだろう。そのご臨終の後が死と呼ばれる状態に至る。 (死についての恐怖は、私個人としては此の生→死の過渡現象期間の肉体的苦痛にある。
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過渡現象と言う言葉も電気用語だが、全ての臓器が機能を失ったとき (医学的には死の定義はそんな単純なものではないだろう。事実、臓器移植が現実に行われているのだから) ともあれ、死後の『私の意識』は察するに全身麻酔時の『私の意識』と同様ではなかろうか、と私は思う。ただ、永遠に、***さんと呼ばれないだけである。
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私たちは時間は砂時計のイメージが固着している。しかし、永遠とは砂時計の砂が止まらないことでなく、おそらく或る異次元への跳躍 (曖昧な言葉だが) を意味しているように私には思われる。 上の釋超空の歌の「まじらひがたき」とは私はそのように独断する。
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『死んだらどうなるか』。
此のイメージの私の最も好きなものは宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』である。