釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:映画『キャスト・アウェイ(Cast Away)』(2000年、ロバート・ゼメキス監督)

2013-06-18 11:19:26 | その他の雑談
BS放送で録画しておいたのを観た。
その昔、私は『ロビンソン クルーソー』という本を読んだことがある。
フライデイという人物も登場したことも覚えている。 ところが、この映画にはサンデイもマンデイも登場しない。
***
実際のところ、私達は、一見何事もない生活しているように見えるが、それは実は錯覚であって (私を含め、錯覚のまま此の世を通り過ぎる人がほとんどだろうが) この人生という名の舞台が暗転すれば、我々はその錯覚を無残にも思い知らされることになる。

人生の暗転? その一つが最近、盛んに言われる超自然災害であったり、政治的・経済的システムの大崩壊であったり、また我々の全く予期せぬカタストロフィーの到来であったり・・・
ともかく、我々は気づこうが気づかまいが、人生という名の険しい山の崖っ淵を歩いているのは確かである。

此れは『それを知らない』ということの幸いの良き例である。もし知っていたら、通常の人ならば昔の言葉で神経衰弱になっているだろう。しかし、これまた、『それを知ろうが知るまい』が、人生の暗転は何人の例外もなく、来るときは必ず来る。
そういう意味で我々は其のような己の人生の暗転の覚悟が日頃から必要である。
***
我々の多くは、例えばマッチという火付け道具が如何に貴重なものか、水というものが如何に貴重なものか、又我々の身の周りにある『がらくた』が如何に貴重なものか・・・それに気づく機会が圧倒的に少ない。

文明という幻影に私達は眼が眩んでいるのである。明日は今日の、何の変哲もない連続だと信じきっている。

無理もない話である。明日が我が身の暗転の日だと思っていたら、事実上、精神がまいってしまうからだ。明日は明日の風が吹く。これは良き人生訓である。但し、我が身には暗転の日が来ない、という前提があってのことだ。 
ところが困ったことに此の前提が怪しくなってきていると思うのは私だけだろうか。
***
昔、横井庄一さんという人がいた。ご存じの方も多いだろう。

掲題の映画の主人公は、横井さんに比べれば、生存のための条件は良いだろうと思うのは私の詰まらぬ邪推だが、それはともかくとして、この映画のラストで主人公の顔がクローズアップされる。この場面での彼の困惑した表情は印象的だった。

彼が生還した世界とは何だろうか。
恐らく、昔の彼の『日常の世界』とは別ものになっているに違いない。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。