釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

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及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:『白骨』(蓮如の御文=おふみ)

2012-06-15 07:16:11 | その他の雑談
私はちょっと覚えておきたい言葉などをメモしている。以下はそのメモだ。蓮如の言葉(御文=おふみ)だそうだ。( 以下の言葉は詠みやすいように私が勝手に空白行を入れた。)
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夫(それ)人間の浮生(ふしょう)なる相をつらつら観ずるに、おほよそはかなきものは、この世の始中終まぼろしのごとくなる一期なり。

さればいまだ万歳(まんざい)の人身(じんしん)をうけたりといふ事をきかず、一生すぎやすし。いまにいたりてたれか百年の形体(ぎょうたい)をたもつべきや。

我やさき、人やさき、けふともしらず、あすともしらず、おくれさきだつ人は、もとのしづく、すゑの露よりもしげしといへり。されば朝(あした)に紅顔ありて夕べには白骨となれる身なり。

すでに無常の風きたりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちにとぢ、ひとつのいきながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて桃李(とうり)のよそほひをうしなひぬるときは、六親眷属(ろくしんけんぞく)あつまりてなげきかなしめども、更にその甲斐あるべからず。

さてしもあるべき事ならねばとて、野外(やがい)におくりて夜半(よわ)のけふとなしはてぬれば、ただ白骨(はっこつ)のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。

されば人間のはかなきことは老少(ろうしょう)不定(ふじょう)のさかひなれば、たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏まうすべきものなり。

あなかしこ。あなかしこ。
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『読み解き 般若心経』(伊藤比呂美著、朝日新聞社版)という本があって、著者がこの後文(おふみ)「白骨」を以下のように現代語訳している。この訳が私はおもしろいと思うので、それを引用しよう。
(この文章も私が勝手に空白行をいれた。)
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つまりこういうことでございます。

ただよっているような人の生きざまを、つらつら観察しておりまして、はかないなぁと感じるのは人のいのち。はじまるときもその途中でも終わるときも、まぼろしのような人のいのちです。
そういうわけで、

一万年生きた人の話は聞いたことはございません。
一生はすぐ終わります。百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。

自分が先か、人が先か、今日かも知れない、明日かも知れない、滴が、木の根元に落ちたり葉末にひっかかったりするよりも、せわしく、人は、死に後れたり生き急いだりしてゆきます。

そういうわけで、朝のうちにあかいほっぺをかがやかせておっても夕方には白骨となってしまうかもしれない身の上です。

今にも無常の風が吹いてくれば二つの目はたちまち閉じる。一つの息はたちまち絶える。笑顔がむなしく死に顔となり、花のようだった美しさが消えてなくなる。そのとき、親類縁者が集まって嘆き悲しんだところで、もう、どうしようもない。

ほっとくわけにもいきませんから、野辺の送りをして夜のうちに煙となる。そして、白骨だけが残るのであります。あわれというだけでは、とうてい言い足りませぬ。

おわかりいただけましたか。

人間のはかないことは、老いも若きもありませんから、どなたもお若いうちから、いつかは死ぬのだということを心がけ、阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえすべきなんであります。

失礼しました。
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現代は、
『百年間、老いずに生きた人が、これまでにおりますか。』
には訂正しなければならない時代になるかも知れないが、恐らく二百年生きる人は流石に将来でもあるまい。

また、かっては信長が愛好したといわれる幸若・敦盛では、
『人間五十年、化転の中をくらぶれば夢まぼろしのごとくなり。一たび生を受けて滅せぬ者のあるべきか。』
と謡われた。五十年にしろ二百年にしろ我われは無常であることには変わりはない。 
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中世の今様に以下のようなものがある。

昨日見し人今日はなし
今日見る人も明日はあらじ
明日とは知らぬ我なれど
今日は人こそかなしけれ
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ところで『今日は人こそかなしけれ』の『かなしみ』とはなんだろう。
勿論、「悲しみ」ではない。「哀れ」とも違う気がする。強いて言えば、「懐かしみ」に近い情感だろうか。

『明日とは知らぬ我なれど』だが私は今日も病院通いを続けている。
思えば、結局は無駄な努力ではあるのだが、『阿弥陀仏におまかせして、念仏をおとなえすべきなんであります。』からは私は全く遠いところに居る。
つまりは、私は縁なき衆生の一人だが、『まぁ、明日は死なないだろう』と思っている嗤うべき存在というところだろう。

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