釋超空のうた (もと電子回路技術者による独断的感想)

文系とは無縁の、独断と偏見による感想と連想と迷想!!

及び釋超空のうたとは無縁の無駄話

雑談:死生観 (能楽について)

2013-09-19 11:24:26 | その他の雑談
私は以前『能の表現・その逆説の美学』(増田正造著、中公新書)という本の感想を書いた。
この感想にも書いたように私は能楽は全くの素人であるが、此の本は私にとって『目からウロコ』の驚くべき内容の本であった。

http://blog.goo.ne.jp/admin/editentry?eid=d54de776661e360723d55eca107adb4b

能楽の完成者と言われる世阿弥は14世紀の人である。
能楽は世阿弥以後の人たちによっても更に此の詩劇の完成度を高めていったのだろうが、14世紀に完成された詩劇が21世紀の今日において、極めて今日的な詩劇であることが上記の本で鋭く指摘している。

***
パラダイムという科学用語がある。

これは私の独断だが、死生観においても、特に死について、我々は、此のパラダイムの変換が今日早急な課題ではないかと私は思う。

具体的に分かり易く言おう。

上記の本の冒頭にも書かれていることだが、『花は散るからこそ美しい』という発想の転換が今日早急な必須課題ではないか?

能楽の立脚点の一つの『花は散るからこそ美しい』という、今日からみれば「逆説」が、今日の先鋭的な課題に光を投げかけていると思われる。

この本の著者も指摘しているように、この本では、今日の先鋭的な課題・・・具体的に言えば孤立死に象徴されるように超高齢化社会の諸々の課題・・・に対する「逆説的」な光を能楽は与えている。

即ち、能楽における、

・死と老いの重視。特に死や老いの時点・視点から生や若さを見つめるという発想。

・特に老女の重視(『桧垣』など)

***
中世の世界はどのような社会であったのだろうか。
歴史に疎い私は其の点も知らない。しかし、恐らく、死が今日よりも、より身近な出来事であったのだろう。

能楽の死生観は其の状況を土台としているのかも知れない。

織田信長は「人生、五十年」と謡う幸若舞を好んだという。

たかだか、人生五十年という状況においてだからこそ、能楽は「死と老いの重視」をせざるを得なかったのかも知れない。

***
ところが今日の日本国では、人生は八十年どころか九十年になろうとしている。

人類の発達史上此れは異常な出来事だろう。異常と言う意味は肉体の年齢に、精神(心)の年齢が、その対応に追い付かないという意味だ。

この事態は当然、諸々の問題が派生してくる。
一つは社会制度上の問題。 一つは死生観の問題。

死生観の問題とは、これも具体的に分かり易く言えば、これまでの既成の死生観は畢竟『花は散らさないように努める』ことであったと私は思う。この死生観に破綻がきているのではないかと私は思うのだ。

***
好むと好まざるとに関らず、日本国の超高齢化は今後も進む。その歪は否応なく、より先鋭化していくはずである。孤立死、孤独死、尊厳死のあり方等等。

これまでの既成の死生観は、いずれはパラダイム・シフトせざるを得ないと私は思う。

これを少し挑戦的に言えば例えば以下のようになる。

・漱石の言うように、「死は生よりも尊い」のではないか?

・鴎外が晩年に感じていたと思われるように、所詮、死とは『人生の下り坂の果て』ではないか?

・果たして、今までの『生かせるための医療』だけで良いのか?  死への医療を根本的に見直すべきではないか。
即ち、尊厳死の積極的な肯定と其の為の手段の開発等。

・一般社会の人々の死生観の転換が必要ではないか? 即ち、生の楽天的肯定と死の悲観的否定という考え方のパラダイムの変換が必要ではないか?
                               等等
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ここで、上記した本に書かれた本での、能の立脚点が、我々の既成の死生観のパラダイム・シフトの極めて重要なヒントとなると私は思う。

「人生五十年」の時の能の美学が「人生は八十年どころか九十年」の時の美学になるのは、確かに逆説ではあるが、今日以降の日本国の状況は、中世とは別の文脈で、死が我々にとって、いろいろな意味で、ぬきさしならぬ問題となりつつあると私は思う。

***
余談だが三島由紀夫が自身の老いを極端に厭い、彼が、確か四十歳になったらペンネームを三島幽鬼夫にするとかの冗談を私は何かで読んだことがある。

この三島由紀夫の「老いの怖れ」は恐らく誰もが多かれ少なかれ持っているはずである。

だからこそ既成の死生観の変換が必要だと私は思うのだ。

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