碧空の下で

人生の第四コーナーをまわって

タイ7

2015-06-25 09:46:00 | タイ紀行
スコタイというとタイの歴史のあけぼの、日本でいえばヤマトとかヤマタイコクのようなイメージを持っておりました。歴史的な話をすると、ちょっと長くなるのですが、もともとタイ族というのは中国の南部の雲南あたりに住んでいた人々が南下した言われている。タイ族の段思平という王が937年に「大理国」を起こしたのが最初のタイ族の国であった。現在の昆明の西500kmにあった。その後1254年元朝のフビライハーンによって滅ぼされ、それ以後タイ族の国はスコタイ王国の出現までタイ族南下の歴史は不明である。当時のスコタイ地方はクメール人のアンコール帝国の支配下にあったが、スコタイ地方の太守であった「バーン・クラン・ハーオ」とムアン・ラート土候国の「パームアン」が反乱を起こし、「バーン・クラン・ハーオ」がスコタイ国の初代の王となった。そして3代目の王ラーム・カムヘン王の時代に現在のタイ国の全土を勢力下に収めた。したがってタイ国の基礎はこの王によって作られたとされている。そしてスコタイはタイ国の発祥の地であり、最古の都である。とりわけ文化的には特筆すべき多くの事柄があった。陶器に関して言えば、大いなる発展があり、その製品は、東南アジアのみならず、遠く日本でも「宋胡録」スンコロク焼きとして輸入されていた。スンコロクという呼び名は、スコタイの近くスワンカロークの船着き場から陶器が出荷されたので、その名が付いたと言われている。有田で焼かれても伊万里焼きというのと同じです。本来ならスコタイ焼というべきものである。ここからやっと本題に入るわけですが、スコタイで焼き物が生産される以前から、クメール時代から焼き物はあった。スコタイの近くのシーサッチャーナーライの遺跡の北にあるバーン・コ・ノーイで「チャリエン焼き」として作られていいた。これは暗褐色の上薬をかけて焼いたものです。その後ラーム・カムヘン王の時代になると中国(元)の磁州から陶工を招いた。なぜ磁州の陶工であったのかはよくわかりませんが、このあたりの事情が分かればときっと面白いと想像しております。その話はまたの機会にして、そのような事情から、当然中国の陶器の影響を受けたわけです。というより中国の陶器のコピーを作ったというほうが正確だろうと思います。当時の中国の陶磁器製造は世界的に見て先端的な産業であったと思いますが、その産業を導入した先見性は今でもタイ人の伝統というか体質に受け継がれているような気がします。中国陶磁器の中にタイの陶磁器と同じようなパターンがあるのはそういことなのです。産業の分野では分家が本家を食ってしますのは昔から変わらない、技術的な優位より価格的優位も変わらない。スコタイの陶器に描かれている魚紋はスコタイ陶器のトレードマークみたいな絵柄として有名ですが、中国の磁州窯にそのルーツがあると思います。写真で比べてください

スコタイ窯





以上がスコタイ窯現代のものです。以下は中国磁州窯の古いものです。





磁州窯の物とくらべると、スコタイのほうがパターン化されている、同じものを何回も繰り返すうちにだんだんパターン化していくのは手仕事の良さというか、悪さというか、工芸品には価格という制約がある以上しょうがないのかもしれません。

この魚紋はアジアに広がりまして、日本では、沖縄の伝統的な焼き物のパターンとして人間国宝の金城次郎さんなどが描いているのはよく知られています。





このように焼き物はルーツがあって、それが現代にも受け継がれているのをみるのは興味深い。近現代になって、個性が尊重されるようになり、陶芸の世界でも、個人の発想が第一に重要視されるのですが、その作品で1000年残るのはあるのかというと疑問符が付く。そしてこの魚紋のように千年以上続いているのは何故なのだろうと考えるわけです。一言で伝統というけれど、その時代その時代に受け入れられてきたから残っているわけで、そういう意味では、人間の見方があまり変わらないのか、その作品にそれぞれの時代に受け入れられる多様性があったというべきか、いずれにしても、その本質はなんだろうか。文化的刷り込みがあるにしても、美の本質はなんだろうかと考えるわけです。
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