昨日に引き続き、河合隼雄さんの『日本人の心』から。
心理的に一番原初的な段階の父性として、ウロボロス父性、という聞きなれない言葉が何度も出てきます。
ウロボロスとは一般に“自らの尾を呑みこんで円状をなしている蛇で表され”る象徴の事。
古代においては世界中で用いられ、“死と再生”“無限性”“完全性”などの多様な意味を表してきました。
ユング心理学では、根源的な、まだ意識が分離されない状態の、混沌とした無意識を示すものとして扱われているようです。
そこから、“ウロボロス父性”とは、“父性と母性が未分化なままである混沌”、すなわちウロボロスの状態にある父性であると。
象徴としては、
“父性と母性の両方をプリミティブ(原初的)な形で持ちつつ、父性の方に重点がおかれている存在”
すなわちギリシャ神話における冥界の王・ハデスや、“母の住む根の国に行きたい”と泣き喚いた日本神話におけるスサノオの姿と重なるようです。
河合隼雄さんは、ウロボロス父性のイメージを示すものとして、旧日本軍をあげています。
“馬車馬のように突進する姿は想像を絶するが、自らの方向を定める力は持っていない。
それは父性とはいうものの背後に存在する母性を常に感じさせるものである”
確かに、いわゆる日本的な“男らしさ”は、
女性に対する甘えを裏に秘めながら威張っていることによって成立しているように感じます。
***
わたしは、はたと考え込んでしまいました。
河合さんご自身は、“ウロボロス的父性そのものは善でも悪でもない”と書いていらっしゃいます。
でも、“自らの方向を定める力を持たない”事が、現在の価値観の中で…また、民主主義社会に生きる責任を果たす上で、マイナスでないと言えるのでしょうか?
西洋の近代的な意識は、無意識からの分離と自立を志向し、ひいては無意識さえ支配しようとする傾向の強いものだと言われています。
欧米の民主主義は、そうした意識の中から生まれ、成熟してきました。
ところが、日本の伝統的な仏教に基づく価値観においては、西洋的な意識のあり方は、むしろ“分別智”として否定される傾向があるのです。
例えば禅においては、意識が無意識から分離することを否定し、意識・無意識を含んだ全体を感じとることを尊重します。
では、無意識を含んだ全体性は、すなわち混沌なのでしょうか。
日本的な伝統は、混沌を肯んじて、心理的な成熟を否定するものでしょうか?
意思決定をしない“ウロボロス的父性”をよしとするのでしょうか?
(実際には、ユング心理学においては、よしとする・しないの価値判断をしません。
こころの自然な成熟志向性を信じ、寄り添う事で、自然に解決が図られるとするのですが…
ここでは、ユングの理論を用いて、社会構造について考えていると捉えていただければ幸いです)
“日本の民主主義は仏教集団で行われていた意思決定の方法に裏付けられている”
というような事をどこかで読んだ記憶があるのですが。
***
仏教でいう“光明”。すなわち仏の発する光は、いわば仏の智慧が発する光です。
“無明”という“衆生”の無知を、くまなく照らす。
この“くまなく照らす”というのが、敬われるべき仏の性質とされました。
つまり、闇を残さないということ。
西洋的な精神において、“無意識”はいわば闇、“意識”は光である、と考えられます。
ギリシャ神話では、プロメテウスが人間に火をもたらし。
そこから闇を克服する文明が始まります。
光を求める、ということでは同じですが、多分、日本と西洋では行き方が違うのかもしれません。
日本では智慧が照らし、西洋では意識が照らす。
では、智慧とは何でしょう。
それは、日本的な“ウロボロス父性”に変化をもたらしうるでしょうか?
それは、西洋とは違った行き方で意志決定する人格を生み出しうるのでしょうか?
それを知るには、わたしには、
まだ、仏教の知識と経験が足りないように思えるのですが。
心理的に一番原初的な段階の父性として、ウロボロス父性、という聞きなれない言葉が何度も出てきます。
ウロボロスとは一般に“自らの尾を呑みこんで円状をなしている蛇で表され”る象徴の事。
古代においては世界中で用いられ、“死と再生”“無限性”“完全性”などの多様な意味を表してきました。
ユング心理学では、根源的な、まだ意識が分離されない状態の、混沌とした無意識を示すものとして扱われているようです。
そこから、“ウロボロス父性”とは、“父性と母性が未分化なままである混沌”、すなわちウロボロスの状態にある父性であると。
象徴としては、
“父性と母性の両方をプリミティブ(原初的)な形で持ちつつ、父性の方に重点がおかれている存在”
すなわちギリシャ神話における冥界の王・ハデスや、“母の住む根の国に行きたい”と泣き喚いた日本神話におけるスサノオの姿と重なるようです。
河合隼雄さんは、ウロボロス父性のイメージを示すものとして、旧日本軍をあげています。
“馬車馬のように突進する姿は想像を絶するが、自らの方向を定める力は持っていない。
それは父性とはいうものの背後に存在する母性を常に感じさせるものである”
確かに、いわゆる日本的な“男らしさ”は、
女性に対する甘えを裏に秘めながら威張っていることによって成立しているように感じます。
***
わたしは、はたと考え込んでしまいました。
河合さんご自身は、“ウロボロス的父性そのものは善でも悪でもない”と書いていらっしゃいます。
でも、“自らの方向を定める力を持たない”事が、現在の価値観の中で…また、民主主義社会に生きる責任を果たす上で、マイナスでないと言えるのでしょうか?
西洋の近代的な意識は、無意識からの分離と自立を志向し、ひいては無意識さえ支配しようとする傾向の強いものだと言われています。
欧米の民主主義は、そうした意識の中から生まれ、成熟してきました。
ところが、日本の伝統的な仏教に基づく価値観においては、西洋的な意識のあり方は、むしろ“分別智”として否定される傾向があるのです。
例えば禅においては、意識が無意識から分離することを否定し、意識・無意識を含んだ全体を感じとることを尊重します。
では、無意識を含んだ全体性は、すなわち混沌なのでしょうか。
日本的な伝統は、混沌を肯んじて、心理的な成熟を否定するものでしょうか?
意思決定をしない“ウロボロス的父性”をよしとするのでしょうか?
(実際には、ユング心理学においては、よしとする・しないの価値判断をしません。
こころの自然な成熟志向性を信じ、寄り添う事で、自然に解決が図られるとするのですが…
ここでは、ユングの理論を用いて、社会構造について考えていると捉えていただければ幸いです)
“日本の民主主義は仏教集団で行われていた意思決定の方法に裏付けられている”
というような事をどこかで読んだ記憶があるのですが。
***
仏教でいう“光明”。すなわち仏の発する光は、いわば仏の智慧が発する光です。
“無明”という“衆生”の無知を、くまなく照らす。
この“くまなく照らす”というのが、敬われるべき仏の性質とされました。
つまり、闇を残さないということ。
西洋的な精神において、“無意識”はいわば闇、“意識”は光である、と考えられます。
ギリシャ神話では、プロメテウスが人間に火をもたらし。
そこから闇を克服する文明が始まります。
光を求める、ということでは同じですが、多分、日本と西洋では行き方が違うのかもしれません。
日本では智慧が照らし、西洋では意識が照らす。
では、智慧とは何でしょう。
それは、日本的な“ウロボロス父性”に変化をもたらしうるでしょうか?
それは、西洋とは違った行き方で意志決定する人格を生み出しうるのでしょうか?
それを知るには、わたしには、
まだ、仏教の知識と経験が足りないように思えるのですが。
「決断力」って事ですか?
与えられた二者択一なら、決められるんじゃないかなぁ。