先月末からこの大きなパックが売ってない(涙)
焼きそばパンが消えて(涙)
7月15日の時点で書いてるんだけれども、車内で気分が悪くなった女子高生がいて、みんな見て見ぬふりをしたという、まぁありそうで作話な気もしないでもないが、記事があった。
コメントには、電車が遅れるから乗るなとか、まぁそんな人でなしは論外として(人でなし、つまり人間ではない。)、これが身体の栄養と心の栄養があった戦前とは違い、戦後は身体の栄養だけになり、自分さえ良ければいい、弱肉強食だ!となった、人間として劣化した結果なのだろう。
2つ目の画像の日、老人用の手押し車でパン屋に来た老婆に出会った。
真っ直ぐは進めるが、狭い店内であの重さを持ち上げて方向を変えるのは至難の技、それとなく寄り添う。
すると妙齢の奥様が、声をかけ、このパンか?とか手となり足となり、お世話する。
自分は配線を乗り越えられない手押し車を倒れないように引き上げただけ。
予定までに時間があるから、食べ終わるのを待っていた。
その前に声を掛けて、妙齢の女性は退店する。
これでパックして出れる?いや前の通路からは椅子があって出にくいだろう。
そして何よりもゴミを捨てると言っても、袋をゴミ箱の場所に持って行き、飲み残しのあるコーヒーの中身を捨ててゴミ箱に入れるのは困難。
恐らく立つタイミングがあろうにも、なかなか立ち上がれないのは、ゴミを捨てることの困難さもあっての事か。
なのでこちらから声を掛けた。自分のゴミを持って。
捨てましょうか?と一声掛けると、ゴミをギュッと抱いて、そんなんエエよってまぁ可愛らしい顔で言うんだわ。
それでゴミを捨てて、次はカップ。
飲みますか?これで良いですか?と。
さっと捨てて次は椅子を退けて、その手押し車の通れるスペースをさっと作る。
倒れないように、転けないように、見守り店の外に。
あそこにも食べる店あるんかいな?
ワインバーって書いてるんで、そうでしょうと。
何度もお礼を言われるも、周りは誰も見て見ぬフリ、ワンオペの店員に手が回るはずもない。
40代のサラリーマンだという方よ、他人が何もしないと嘆いても仕方がない。
誰もが出来ることが出来ない後ろめたさすら感じず、自分の迷惑になりそうだという、人を思いやる心すら失ってしまった人々は今世限り。
他人を手助けした、あの世に何も持って行けないが、御縁と詰んだ徳だけは持って行けるのである。
3次元世界でどれだけマウントを取ろうが、地位を得ようが、あの世へ続く道での審判にはマイナスに評価される。
特に他人を蹴落とし、自分さえ良ければいいような態度を取れば取るほど、一生は一回のみではない事を死んで知り、この場面を間違ってるよなと本当に理解するまで突き付けられる。
そしてそれに耐えた人間は一人も居ないのだ。
人生を逃げ切るなんて事は無い。
しかしこの老婆への対応も、自分が身体が動かなくなって行く親の介護をやって来たからこそ、自然と何をすれば良いのかが分かるからこそ、身体は勝手に動いたのだと。
交差点で老人や子どもの動向を見渡す事ぐらい、せめて自分の視野に入る人たちだけでも見られれば良いのだがとは思うがと。
普段の他人に対する行いは自分に必ず返ってくるのである。
困っている人がいれば、自分が出来得る事を行いさえすればいい。
他人の目を気にすることも必要なく、また他人の評価を気にする事はない。
他人は神や仏かと問われれば、ただの人間である。
己の良心に従って行動すれば構わないのである。