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【安倍晋三の出自を暴く~記事逐次追加版】第十六談(安倍家婿養子彪助の椋木家)

2015-10-01 16:01:09 | 安倍晋三の出自を暴く
 安倍寛の誕生は、1894年(明治27年)4月29日である。寛の先代の安倍家の人々は、伯父の当時の安倍家の長男慎太郎と其の妹の長女ヨシと次女タメである。但し、慎太郎の両親の名は知れ無い。

 タメが寛の母である。寛が四歳の時、両親が他界し、ヨシは、寛を育て上げた。晋太郎も生後僅か80日で母が父寛と離婚しているから、ヨシは晋太郎も育て上げた。

 寛の父は大津郡内で名門として知られる椋木家からの婿養子の彪助である。今も、寛が生まれた山口県大津郡日置村蔵小田の近傍には椋木家は存在する。椋木姓は和歌山県と三重県南部である紀伊国那賀郡椋木村が起源であり、近年、島根県益田市に多数みられ、山口県が其れに次ぐ。


 幕末の尊王攘夷運動に大きな影響を及ぼした江戸時代後期の儒学者大橋訥庵の門弟の椋木八太郎という人物がいた。安政7年(1860年)、江戸城桜田門外において大老の井伊直弼が水戸藩の浪士に暗殺される(桜田門外の変)と、直弼暗殺後に幕府の最高実力者となった老中安藤信正は公武合体の実現のため、孝明天皇の妹和宮と14代将軍徳川家茂との婚姻を画策する。訥庵はこの婚姻に強硬に反対し、討幕を企てるようになる。

 文久元年(1861年)10月18日に和宮の降嫁が勅許される。文久2年(1862年)1月8日、訥庵は一橋家近習の山本繁太郎に慶喜への上書取次を依頼するしたが、繁太郎が幕府に密告した為、一連の計画が幕府の知るところとなり、訥庵が捕縛されたことを受けて、ついに1月15日に志士6名は江戸城坂下門外において老中安藤信正を襲撃するが、信正を負傷させたものの殺害には至らず、志士6名はいずれもその場で斬殺された(坂下門外の変)。、1月12日、訥庵は南町奉行に逮捕され、7月12日早朝享年47歳で毒殺されて生涯を終えた。

 同志の一人、内田万之助は襲撃に間に合わず、長州藩邸に行き斬奸趣意書を桂小五郎(木戸孝允)に渡して自刃しているが、万之助が持参していた斬奸趣意書は椋木八太郎が起草し、訥庵が添削したものとされている。



(訥庵の上書「浦賀表防御之儀ニ付今日之急務愚存之趣申上奉リ候」写し)

 この中で、「安藤老中の政策は外国に屈するばかりで朝廷を軽んじ、暴政ばかりである、このままでは亡国は明らかであるので安藤老中を斬殺する、幕府には攘夷を行い、万民の困窮を救うことを望む」旨が述べられている。

 椋木八太郎は津和野藩の武士で、江戸時代に石見国津和野(島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩で、藩庁は津和野城に置かれた。従って、今でも、椋木姓は島根県に一番多く居て、長門にも二番目に多いのは、戦国時代、津和野は大内氏、毛利氏に仕えていた豪族の吉見氏が支配して、関ヶ原の戦い迄は毛利領であったからである。

 椋木八太郎が維新の志士として活躍したのは、1860年(万延元年)年前後からであり、その約30年後、寛は1894年(明治27年)に生まれており訥庵は後に従四位を追贈される事からすれば、八太郎も生きていれば維新後其也の地位に着いていただろう。然し、八太郎は捕縛されたと言われており、其の時、斬首されているだろう。☛間違い無く、椋木は其成りに名の知れた家名を持つ。


 会って、「大和」の最後の状況を話した。 大津郡油谷町に住む椋木マツノという年老いた母を捜すのには、三日もかかった。 田の中に二軒ほど家があり、ようやく見つけた。 辺見じゅん『完本 男たちの大和(下)』より引用 ☛油谷には今も何軒か椋木姓があるが、其れ程知名で無かったか?
 
 けっきょく、このクーデターは、翌慶応元年までつづいて、そのあいだに高杉は藩の大勢をくつがえし、〝君側の奸〟をのぞくことに成功した。 椋木藤太その他〝俗論党〟幹部は、すばやく石州路に脱出したのであるが、津和野でつかまった。 というのは、その前から、長州藩から脱走するものが多いので、脱走者は片っぱしからつかまえてくれとたのんでおいたのが、自縄自縛となったのだ。 大宅壮一『炎は流れる4 明治と昭和の谷間』より引用 ☛椋木藤太=?椋梨 藤太(同一人物)は、日本の武士・長州藩士。長門国の萩に生まれた。諱は景治。斬首。


 如何やら、結論が出た様だ。寛の叔父慎太郎は子が無いうちに早世したと思われる。晋太郎は県会議員に成ったというから、安倍家は其れ成りの家柄ということになる。ただ、当時、椋梨家は椋梨藤太の件の煽りを受けて没落していたと思われる。安倍家も慎太郎を亡くし、妹二人で所帯の切り盛りは大変だったろう。椋梨は椋木と既に氏変えていたのだろう。飽く迄、想像だが、そう我は推測する。其にしても安倍家の出自は不思議である。阿部姓を名乗ったからには、慎太郎の父の名が出てい無い。安倍家の菩提寺は既に明治二年に全焼したとはいえ、安倍家には代々の系譜が残っている筈である。

続く。

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