魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

「体罰の線引き」で悩んでいる奴等は人間の本質が何かも分からん薄のろ以下の乞食である。

2013-02-02 20:01:09 | 教育

 何で人間社会に刑罰があるんだ!未成年者は何で少年法で保護しているんだ!

 大人は罪犯せば罰して、子供は罪犯しても保護する。其の振り分けの最大のものは未成年は人格未成のものであるからと言うことだ。

 もう大分以前の話ではあるが、何年か前に故人となった筑紫哲也と言う朝鮮系人と思われる反日ジャーナリストがTBSで報道番組のMCをしていた。

 ある日の此の番組で朝鮮系と思われる若者が筑紫に「何故人を殺してはいけないか?」と基地外染みた奴等の大向こう受けする質問を筑紫に投げ掛けると、あろうことか筑紫は「そう言う事は答えが見つからない」という趣旨の丸馬鹿の発言をしたので、我は呆れるばかりであった。我なら「じゃ、小僧、殺してやろうか。さすれば殺されている最中に小僧も答えが分かるだろう」の一言で済ますのだ。

 地球上の総ての生物には根源的に社を殺してはいけない等と言う大原則は、本来持ち合わせていない。だが、狂って無い限り畜生すら他者を無闇には殺さない。自前の社会性を生まれ乍に持っているからだと考えざるを得ない。

 人を殺してはいけない、人の物を盗んではいけない、嘘を吐いてはいけない、・・・・は、人であるならば生まれ乍に身に付けた蓋然であるだろう。処がだ、人間社会の複雑な掟となると人間は生まれ持っては身に付けては居ない。だから、義務教育があるのだ。自分が理解出来無い掟を如何しても守れない児は稀にいる。この時期の児には、確り社会性を一つ一つ身に付けさせて上げなければ、未完成の大人の一ちょ上がりも十分有得る。

 本来、遣っちゃいけない何てことは無い。何遣っても良いのだ。然し、遣っちゃいけないと思うのは自分を守る為の本能と後天的に身に付くことである。後天的に身に付ける善悪は決して独りで身に付けられるものではない。直接間接を問わず、他者から、或いは社会の中で身に付けるものであり、この手助けをするものが若年者への教育なのだ。

 教育者は言うことを聴かせる為に体罰を与えてはいけない。「体罰は、子供に痛みを感じさせて子供自身が身を護る掟を身に付けさす手段である」と言い訊かせて為されなければならないのだ。このとき後に後遺症の残らない技術を教育者は身に付けなければ教育者としては失格である。

 未成熟な未成年者を立派な社会人に仕込むのが教育者の任務である。言って聞かせるだけでは、中には増長して先生を馬鹿にして、不完全な人間ばかりになる恐れもある。教師は教育のプロである。体罰を上手く使い分けるプロとしての技を磨く努力は欠かせない。

 体罰がいけないのではない。体罰を自分の言うことを訊かそうとしてやったり、加減の技を身に付ける努力が足りない馬鹿教師が遣るからいけないのである。


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