魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【朝鮮半島人の心底に未だ在る「巫覡」の影響。】

2017-03-10 13:37:23 | 在日への優遇の矛盾を突く連載

民間信仰第三部  

朝鮮の巫覡(ふげき)朝鮮総督府編 

国書刊行会(復刻版)  昭和47年第一刷平成7年第二刷より引用 

緒言 

 朝鮮民間信仰界に断然優勢の地位を占め、朝鮮民庶の生活に大きな働きかけをなして居るものに巫禱(引用者注:ふとう)の信仰がある。 この巫禱信仰 は悠久なる往昔(おうじゃく)より朝鮮文化の根幹を成し来り、現在に於ても殆ど朝鮮全道の人々に意識的に又無意識的に支持要求せられ、確実に大衆の精神生 活を支配して居るものであるから、朝鮮文化の特質が如何なるものであるかを窺ふが為にも、将又(はたまた)朝鮮民衆の生活意識・思想傾向等の精神生活を了 解する上に於ても極めて重要な資料たることは言ふ迄もない。 殊にこの巫禱信仰が、ややもすれば盲信に陥り、その結果反社会的な行為や、非衛生的な所業を 敢行し、或は冗費(じょうひ)・遊惰(ゆうだ)・依頼等の不生産的な気風を扇動して、愈々(いよいよ)民衆を生活苦のどん底に押し込み、呻吟(しんぎん) せしめむとする傾向ある今日の世相に於ては、之を単なる一部愚民の迷信に過ぎざるものとして看過するを許さないのである。 

 朝鮮の巫覡はその多くが世襲的であり、全鮮至るところ之あらざるなく、全道を通じてその数萬余を算するのである。 而して之等巫覡のなすところは、 主として病気祈願・災厄禳祓(じょうふつ)・運命占卜(せんぼく)及び神楽舞踊などであるが、之等の巫覡は日本内地と異なり、大部分は神社に所属すること なく(往昔には神社に所属していたものであった。 今でも済州島の如き神祠ある處では神社所属の巫がある。) 民間に雑居し人々の依頼に応じて巫禱をなす ものである。 かく多数の巫覡が全道の民間に散布してよくその生活を維持して居ることは、朝鮮の民衆が今猶ほ除災招福即ち病災を除き悪運を祓って幸福を求 むる事は巫覡によってのみ效されるものであると確信し、尚ほ巫覡によって成される禱楽、即ち神楽舞踏を民間娯楽の有力なる一機関として歓迎するに職由 (しょくゆう)するものである。 

 処が之等民間に力強く支持せられて居る除災招福の確信は、一つには未だ理智の発達少なく、禍福に対して正しき判断をなし得ざるが為であり、二つには 溺れるものは藁をも掴むが如く、生活苦に切迫するの余り盲目的に何かに縋らむとする要求に依って培かはれて居るのであり、而して、巫楽の歓迎は朝鮮の民間 にその心情を和楽せしむるが如き民間娯楽の乏しきが為に外ならない。 従って之等朝鮮の巫覡がその存在を確立して居る朝鮮民間の生活には無智・非衛生・生 活苦及び娯楽の欠点等の諸相が生々しく描かれて居ることをも観察し得るのである。 

 それであるから朝鮮の巫覡は、一方朝鮮古来の文化を窺うところのものとして考究の対象たるのみならず、一方やゝもすれば陥り易き反社会的な出来事を 如何に監視すべきかと共に、この巫覡信仰を通じて表現せられる朝鮮社会の生活相に顧みて、如何にこれが対策を講究すべきかの問題を呈示しているものである から、之に対して充分なる講究と慎重なる考慮を拂ふべきものであることを忘れてはならない。 

 以上引用終わり。

 朝鮮人の名状し難き奇異怪々な言動や行動の身勝手さには、日本人の理解を遥かに超えるものがある。物事の是非は道理に依らず巫覡に依存してのみ決めるのであった。朝鮮人は依存性が強く、其れで居て相手への配慮を全く欠いて、総て自分の身勝手さを一方的に捲し立てる野蛮さは、半島には建設的な精神文化が育って無いことへの照査とすべきことである。


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