魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【フランクリン・ルーズベルトに始まる米国の日本民族解体派の意向を受けた朝鮮族安倍晋三等似非保守朝鮮族政治屋 ⑬[明治野心からの政商屑供]】

2018-09-09 13:12:11 | 在日への優遇の矛盾を突く連載

【【フランクリン・ルーズベルトに始まる米国の日本民族解体派の意向を受けた朝鮮族安倍晋三等似非保守朝鮮族政治屋 ⑫】[鳩山家工作一家かの検証]

 血統を看れば、鳩山由紀夫の血筋は、「小川氏」にある。

 終戦の1ヶ月後、1945年9月15日、17日に、 鳩山一郎衆院議員は、「『正義は力なり』を標榜する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことはできないであろう」と記載し、また、日本の戦後復興施策の基本は「極力米人をして罹災地の惨状を視察せしめ、自らの行為に対する報償の念と復興の責任とを自覚せしむること」にあると、米国の原爆投下を痛烈に批判し、日本の復興の責任がある、などの記事を書いた。
「封印されたヒロシマ・ナガサキ」の記事抜粋

 この記事により、鳩山一郎は、戦後の混乱期において、米国に原子爆弾の使用について国際法違反を痛烈に批判した政治家として、国民から絶大な人気を得た。しかし、このとき、悪の手が忍び寄るのである。それは、麻生の祖父、吉田茂は、GHQと手を組んで、米国批判した鳩山一郎総裁(日本自由党)を、組閣中にもかかわらず、GHQを通じて公職追放指名(追放1号)したのである。よって、鳩山一郎は、目の前の首相の座を吉田茂に奪われてしまったのである。
 50年、一郎はフリーメーソン入りした。『鳩山一郎・薫日記』には、入会申請書を書いたことや支部で食事をしたことなどか書かれている。当時、一部日本人の間で「フリーメーソンに入れば、公職追放を逃れられる」といった噂が広がっていた。一郎は吉田に対抗して、米国とのコネづくりのために入会したともみられている。マッカーサー元帥ら主要なGHQ幹部がメンバーだった。

一郎は51年追放を解除され、54年首班に指名された。しかし、米国務省は鳩山の政策は「米国益のためにならない」と判断し、日ソ国交回復などの外交も警戒した。

勝山藩士鳩山家覚書
2010年01月04日 | 江戸から東京へ

 鳩山由紀夫首相が誕生した際に、明治以後の鳩山家四代の家系について、雑誌にたくさん紹介記事が載った。そのいくつかを読んだのだが、明治の鳩山家初代の和夫、春子夫妻をモデルとした人物が、有島武郎の小説「或る女」の中に登場することに触れられているものはなかった。
 「或る女」はモデル小説であって、国木田独歩と別れた後の佐々木信子の生涯が書かれてある。
 明治34年9月、スキャンダルにまみれた佐々木信子は、親戚会議により、国外に追いやられることになる。有島武郎の在米の友人との縁談が取り決められ、渡米させられることになったのだ。ところが信子は航海中に船の事務長・武井勘三郎と恋中になり、アメリカには上陸せずそのまま帰国してしまう。同じ船に鳩山夫妻が乗り合わせていたのだが、鳩山春子(共立女子大の創立者)が、これをスキャンダルとして新聞に告発するという事件が起こる。
有島は、小説中の人物に、「夫の方は馬鹿馬鹿で、妻の方は利口馬鹿さ」と言わせている。

 明治以降の鳩山家の歴史は、成功物語であって、それはそれで結構なことだけれど、自分の関心は別のところにあり、江戸期の鳩山家の事績を明らかにする古文書が何か出てこないかと思っていた。地方の小藩の下級武士の生活を明らかにするものがあるに違いないと思われたからだ。その手がかりを、先日発見した。
 MANIWA-CIRCLEというサイトに、江戸期の鳩山家に関する古文書が公表されていたのだ。その記述によりかかって以下を記すことにする。
http://maniwa-circle.at.webry.info/200906/article_1.html

 それによると美作勝山藩御在所御家中召出され書(天保8丁酉(1837)年正月)という古文書があり、以下のような内容。原文でないのが残念。

○鳩山八百右衛門
龍雲院様(壬生藩、延岡藩、刈谷藩主・三浦明敬)御代に曽祖父、安兵衛御足軽に召し出され米3石2人扶持下しおかれ、私に至るまで四代になっています。もっとも私に至り文化7午(1810)年12月11日、お取立てを頂き、金4両2分2人扶持下し置かれていましたが、文化12亥年6月29日になって、免職になっていました所、文政元寅(1818)年3月8日帰参を仰せ付けられ、御足軽にて、米3石2人扶持下し置かれ、なおまた文政4巳(1821)年7月22日小頭格仰せ付けられ、同24日御規式格金4両2分2人扶持にしていただき、その後、追々お取立を頂いています。

 つまりこの文書によると、鳩山家は、主君の三浦家が、下野国壬生藩(栃木県下都賀郡壬生町)(1639)、日向延岡藩(1692)、三河刈谷藩(1747)、三河西尾藩、美作勝山(1764)と転封されるのに付き従って、仕えた家臣ということになる。三浦明敬(龍雲院)の時(天和年間1680?頃)から明治まで約190年間である。かなり後代まで二人扶持の足軽の身分である。

 (三浦家へ仕える以前の鳩山家の先祖は全くたどれないが、鳩山の地名としては、下総国香取郡鳩山邑(千葉県香取市鳩山)、埼玉県比企郡鳩山町がある。おそらくは前者を出身地とする鳩山某が、下野国壬生藩に転封された三浦家に仕えるようになったものか)

 真庭市安養寺墓地に鳩山勘左衛門の墓があり、以下のように記されている。
右面・・文政4巳(1821)年5月3日、行年58歳
正面・・(梵字)歓達了喜居士
左面・・生国三州苅谷(愛知県刈谷)、鳩山勘左衛門布介

 真庭市重願寺には鳩山勘左衛門愛人の墓というものがある。元は安養寺にあったものを移転したもので、碑面は次の通り。
右面・・文政4(1821)年辛巳4月26日
     文政9年丙戌7月26日女
     鳩山勘左衛門愛人夫婦之墓
正面・・浄証院誓山得忍居士
     浄智院妙山恵忍大姉
左面・・なし

 (重願寺は、うちの実家から歩いて5分のお寺。ガキの頃、キモ試しをやったことがある。近年、江戸家中の鳩山家墓が、安養寺からここに移されている。余談だが、戦時中、鳩山家の少女が、当地に疎開をしていたことがあり、母方の叔母が年が近く、それを覚えていた。色白の大きな顔の少女で、「青膨れ」と悪口を言われていた由。他の田舎の子はみんな痩せてて黒かったのかもしれない)

江戸家中(在江戸)の部
○鳩山伝七
金6両2人扶持、御役料金1両、御徒歩組格

安政5戊午(1858)年初夏改

○鳩山十右衛門(数代同名を襲名)
70石、御留守居役、御書簡方兼
御足高30石、衣類代銀20枚、役金10両、物書1人、中間1人

○鳩山鳩(はと)
高70石、御側勤め、御簾番
天保12丑(1841)年11月21日亡父十右衛門が願い置きしたとおり、跡式相違なく御給人勤めを是までの通り仰せ付けられ、同13寅年7月5日御御簾番仰せつけられる。 

 長く足軽身分であった鳩山家が、幕末に至って、御側勤め、御簾番、御留守居役、御書簡方兼とメキメキ出世しているのが分かる。二人扶持から70石へと禄の加増もすごい。(このあたりの事情が分かるとおもしろそうなのだが・・・)
 幕末には、江戸留守居役であったわけで、これは幕府や諸藩との外交を取り扱う役目で、情報も集中する。幕末には参勤交代が事実上廃されたため、一時国元に帰っていたらしい。戊辰戦争の際に、藩の方針が佐幕から恭順に転じたことに関して、何らか積極的な役目を果たしたのかもしれないが、記録は何も残っていない。

 以上、鳩山家に関するネットに書かれたことの魚拓を記述してみた。

 此処で問題と成るのは、鳩山由紀夫や邦夫のルーツは代々美作勝山藩の足軽身分であった鳩山家では無く、得体不明の " 小川家 " であるということである。我も此の小川家のことを調べたが、

 「鳩山和夫の父。父、小川某。養父、鳩山嘉平治。美作国 ( 岡山県 ) 勝山藩士。美作においては剣道を指南し、江戸藩邸では留守居役。嗣子として 3男・鳩山十太郎を美作に残し、長男・鳩山又蔵を裕福な商家に養子に出す。二男・小川盛重を、博房の実家の小川家の養子とする。四男・鳩山和夫を妻の実家の三浦家の養子とする。その後、長男が早世、三男は 15歳で病死となる。そのため、四男・和夫が鳩山家を継ぐこととなった。

明治 10年 ( 1877 ) 強盗に襲われ死亡する。


 小川盛重(おがわもりしげ)    ?~大正3年12月19日(?-1914)・・・生誕は安政3年(1856)より前

 外務書記官・朝鮮二等領事。父、美作勝山藩士江戸留守居役鳩山十右衛門博房(鳩山博房)(二男)。鳩山和夫の実兄。父の実家小川家の養子となる。

※ 父博房は、嗣子として優秀だった三男鳩山十太郎を美作に残し、長男鳩山又蔵を裕福な商家に養子に出す。四男鳩山和夫を妻の実家の三浦家の養子とする。その後、長男が早世、三男は15歳で病死となる。そのため、四男和夫が鳩山家を継ぐこととなった。

墓は、乙2号新2側。正面「小川盛重/妻 孝子 墓」。鳩山和夫の長女カヅ(和子)(盛重の姪にあたる)と、夫の鈴木喜吉、鈴木喜三郎墓の隣りにあるのは、それなりの意味があるように思える。


 何故、ネットに鳩山和夫以下の系譜の鳩山家の血統のルーツである「小川家」のことを隠すか?此の一家の系譜の歴史として書かれて居ること総てが作り話に見えて仕舞う。小川盛重の子孫は一体今何して居るのか?そして、和夫の父の実家の小川家とは何者なのか?

 此のことについて、もしかしたらと思われる人物が、例の「友愛」に関係して絡んだ人物が、此の得体の知れ無い「小川家」に関係した、将又、和夫の実兄小川盛重の子孫かもしれない。


続 く


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