【日本国 のあり方: 其の壱】 から続く
日本が単一民族国家として歴史を刻んで来たことに異論を挟む余地は無い。確かに、今日の日本人の容貌は、現在の北方や南方の国々に住む人達に似た雑多なものであり、日本有史以前に多くの人種や民族が日本列島の原住民と混合して今日の日本民族となったものと推定される。
ならば、「日本人は単一民族とは言えん」と言うのは間違いである。抑、「民族の定義」には多少曖昧が存するもので、敢て定義すれば、「他の集団から区別される独自の『文化的共通項を指標』として、互いに『伝統的に結ばれている』と自ら認めるて居る人々、更に、他民族によって其の様に認識されて居る人々」と成る。
「文化的指標」とは土地、血縁、言語などの共有意識や、宗教、神話・世界観、社会組織、経済生活、その他の生活様式の凡ゆる分野のなかから、其の民族に属するとされる人々にとって意味を持つ指標として選ばれる多様な基準を意味する。
抑、現今の人類の「人種」と言われるものは一つの血統種から分岐して様々な血統に分岐し、更に其れ等が互いに混合を分岐を繰り返して来たもので、「民族」についても此れと同様な過程を経て成り立つものである。
では何故、我の様に自民族に拘る人も多いのか?
心理学の分野で、集合主義と個人主義 という概念がある。集合主義 では和と団結 が重視される。 集団主義の下では人々は相互依存 、詰まりお互いに助け合うことが尊重される 。
相互依存とは、人と人との間でお互いに協力し合うということで、一方的に他に他に依存する関係とは違う。
反対に個人主義は、自主性 と自己依存を尊重し、個人個人の独立を重視する。日本文化の中で個人よりも集団の利益を優先させる例は簡単に思いつくでしょう。「個人」の「独立」も大事だが、「皆の為に」「家族の為に」「会社の為に」等集団を尊重するのが社会の持つ役割で、国家存立の意義も此処にある。
Erikson, E. H.という新レ学者がアイデンティティの概念を詳しく研究している。彼はアイデンティティを「自己斉一性・連続性」、「対自的同一性」、「対他的同一性」、「心理社会的同一性」という4つの側面から説明して居る。
「自己斉一性・連続性」とは,自分が自分であるという一貫性を持ち,時間的に連続しているという感覚を持つことである。
「対自的同一性」とは,自分が何をしたいか,自分が何処に向かって居るかが分かっているという感覚をもつことをいう。
「対他的同一性」とは,他者から見られている自分と,自分が思っている自分とが一致しているという感覚をもつことをいう。
「心理社会的同一性」とは,自分と社会との適応的な結びつきがあるという感覚をもつことをいう。
此れ等4つのアイデンティティの感覚を持つことで,個人のアイデンティティ,詰まり「自分が自分であるという感覚」が確立されて行くことに成るとする。
生物学見地から言えば、民族主義は血統主義とも言える。以下の研究は1968年、日本の心理学者の間で行われたものである。
「人を含む総ての生物は最初は簡単な原始生物から進化を続けて現在の姿に生ったのである。自然界には非常に多くの種が生まれ、そして自然淘汰の結果、特定の種のみが生き残った。ほんの僅かの違いであっても生き残れるか如何かの決定的な違いとなる。種は元の種に認知し難い程の微細な変化でも、自然選択を生じさせた。此の自然選択は集積回路の細部を一つひとつ組み立ててコンピュータを完成して行く程の緻密さで生物を作り上げて行ったと考えられる。其の為他の生物と同様に人間の体の凡ゆる部分が、其の人が生存し子孫を残すのに都合が良い様に出来て居るのである。そして此のことは人間の思考、行動の総てにも同様に当て嵌る。
現在の種に辿り着く迄には、夥しい数の自然淘汰が為され、極一部の種が生き残る一方、膨大な数の種は絶滅した。其れでは其の選択の基準は何であったのだろう。其れは言う迄も無く「種を保存する能力」である。此の能力が大きいもののみ生き残ったのである。此れが唯一の選択の基準であったことを強調しよう。そして人間の体の凡ゆる部分の構造、人間の行動、思考の総てものが「種の保存という目的の為」と考えれば理解出来るものに成って居るし、其れ以外には何も無いのであることを強調したい。」
詰まり、我が民族主義に拘るのも、其の最大の原因が生物としての自然の成り行きのものであったのだ。
【日本国 のあり方: 其の弐】に続く
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