老人の雇用は生産性、所謂、効率性に関しては否定的なものとなります。当然、高齢者の生産性は低いので、高齢者の労働単価は低い基準で設定されことになり、彼らの労働によるGDPへの貢献度も働き盛りの人と較べて当然低く見積もられます。とは言え、余り低い基準に抑えては逆に高齢者が働く意欲が湧かないばかりか、折角高齢者の雇用を促進したのに、所期の目的であった筈の高齢者の経済的貢献度も低く抑えられてしまうのです。このことは高齢者の経済的貢献度を増す政策にとっての最大の難関と言えます。
しかし、私見ではありますが、高齢化社会の資本主義経済では、高齢者でも働けるうちは経済活動に参加し続けられる仕組みを構築しなければ、需給のバランスを大きく阻害し、経済を破綻させることになってしまうのです。そこで以下に高齢者も社会の経済活動に参加して行く仕組みを考察していこう。
高齢者の労働活動によって社会に生まれたサービスから大きくかけ離れた所得を高齢者に与えることは出来ないので、高齢者の暮らしに必要な所得との差額分は年金受給額で補われることになるのです。年金受給額の個人が支払い続けた総額以上の部分は國や企業が負担することになります。
いずれにしても、高齢者が年を重ねるにつれて働きたくとも働けなくなるし、また、働く高齢者がその生活費の大部分を稼ぎ出すことが出来なければ所詮公的負担部分への働く高齢者の貢献度は焼け石に水ではないか等のいくつかの越えらざるべき問題はあるので、抜本的な解決策には遠く及ば無いと結論付けられます。
しかし、如何だろう?こうして高齢者対策一つとっても打つ手が無いほどの無策振りが、国民の将来不安を生じさせ、未来に明るさを見出せない閉塞感を齎しているのだが、此処で必要なのは発想の転換なのだ。
私が生まれてから最早六十年経っている。当時は東京の都心からそう離れてい無い郊外でも国道すら舗装されて無く、水道も都市ガスも引かれて無かったし、各家庭には竈があり、薪を焚いて食事を作っていたのだ。無論、テレビなど無く、国道でも牛馬が貨物を引く光景が見られたほどであったのだ。現在のコンピューターの原型である四ビットの基盤が日本人技術者を中心としてアメリカで開発されたのも1970年代の初めであった。であるから、ここ三十年間の世の中の変化に限っても目覚ましいものがあったのだ。続く
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