空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

「オタク」と「表現の自由」と「フェミニスト」と

2021-02-10 22:39:16 | ノート
 喧しいお話ですが、気になった発言をいくつかメモ。



 せやろか? 「オタク」が好む諸表現が一般化し、社会に相当受容されているのは、ここ数十年の流れから見て、まあそりゃそうだろう。しかし果たして「オタク」と呼ばれる者たちは、大衆と一体となるほどまでに特徴を失っただろうか? いや、アイデンティティをまもろうとする程度には一体とはなっていないわけであり、「友-敵」といった構造を生み出し得るほどには特徴的ということにならんか。

 いやまあ、大衆と一体化したくないから仮想の怨霊を想定してそれを祓う存在として己を妄想しているのだろうと言いたいことは分かるが、これ、論者当人にも同様の理屈が適用されちゃうしなあ。



 比喩的にせよ「~を燃やせ」というのは、むしろフェミニストと想定される側かとは思われるが。具体的にはまず「俺たちの愛する宇崎ちゃんを消去させようとするのを止めろ」だろう。
 …また、「その「萌え」表現から何を読み取れるのか、何を感じ取り、それによってこの世界の見え方がどう変わるのか」という要請は、いったい何を言いたいものかが不明瞭。そうしたメタ的情報価値がないものの存在は、擁護されてはならない、とでも?



 コンテンツの消費をしているだけ―うんまあ、刹那的な快楽を得ているだけという評価は、うんまあそれなりに妥当な範囲がかなり、かなーり大きいだろう。とはいえそれは表現の自由と無関係と切って捨ててよいかどうか。「表現を受容した自己の内部から発せられる表現がない」、そんな豚の嘶きは表現ではない、従って擁護されるいわれはない? かなりマズいのでは。

 例えばアイドルの一挙手一投足にキャー!と感動の叫びをあげることは、わりと普遍的な現象と思われるが、それらは豚の嘶きか。かなり多くの人を敵に回す―そしてそうまで貴族的な表現の自由を、いったい誰が何のために行使するのかという問題だって提起されるだろう。SMAPなりなんなり、ジャニーズアイドルを見てキャー!と叫ぶことは豚の嘶きでしょう―なんてのは、かなりどうかと思われる。自己の内部から発した表現でなければ表現とは言えない―となると、アイドルを好きになるにも大変そうだ。



 とまあ、ここまでくると、なんとも。そうですかロールモデルですか、そりゃあご立派ですね年長者。





 豚の嘶きをするだけの「表現の自由戦士」とは違って自分は「語ろう、論じよう、そうして人間になろうと主張しているわけです」と。そんな風な存在としての「「オタク」たる自分は立派な存在として社会に受け入れられるべきという情念が強そうです」。

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