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空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

身びいき、身内びいき、仲間(と見做した者への)びいきが過ぎる例

2017-05-22 19:04:57 | Weblog


 そりゃまあ、点字ブロック上をいつでも絶対にあけておけ、というのは、それはそれで無茶な要求だ(極論、その上を目の見える人が歩くことさえアウトになる)。整列する際に目印として転用するのは、まあ、ありえる転用法だろう。しかしそれも「黄色い線の内側にさがってお待ちください」(by JR)であるべきであり、まあ「そんなん、努力義務にすぎないわ」という主張は大いに(日常生活的に)ありえる。が、「努力義務w だからやぶってもいいんでーすw 罰則とかないでーすw」とか言わんばかりの主張とは、そりゃまあ差異があろう。

 どーもこの米山氏は、ちょっとした指導者さんらしいのだが、こういう「善導」が何を齎すかはちと考えてみてもよいのだろう。

 休日・横浜・中華街、それなら肉まんでも食べてのほほんとするのがよいだろう―というような平民感覚は恐らく望ましいものだったが(この件―今回の件を参照すると、これも政治的敵対者に対する揶揄の気持ちが先立ったものだったものだろうかねえ、惜しいことだ―)、その”平民感覚”をそのまま転用しまくると、こういう悲劇が起こるという、よい例とも言える。


 僕としては、このように思うものだが:



 まあその、我々は目が見えているため、目が見えない人だのがいざ町を歩くときのあれこれがわからない。腰がまがりまくったばーさまが、盲人ブロックをたよりに歩くなんてのも、まーなかなかその境地はわからない。”平民感覚”は、こうした末端の弱者・少数者のあれこれの必要性、必然性をすぱーっと忘れはてがちだったりする。

 そこで我々は、あるいは為政者は、手持ちの資源のなかから一部をとりのけて、そうした弱者救済のために使ってみたりする。そして意識向上を策してみたりする。より多数のひとたちが、より多くの幸福を得られるような策を講じるのが、多数からの信託を得た政治家さんのお仕事なのではないかなーとか。

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