点字ブロック上を歩いている人がいるのに道を開けないならともかく、そこを歩いている人がいない状態で点字ブロックの上に立っているからと言って他人に配慮がないと断罪するのは、あまりに独善が過ぎます。道はそれぞれが譲り合って使えばいい事ですhttps://t.co/XFJzXu9HZ3
— 米山 隆一 (@RyuichiYoneyama) 2017年5月21日
そりゃまあ、点字ブロック上をいつでも絶対にあけておけ、というのは、それはそれで無茶な要求だ(極論、その上を目の見える人が歩くことさえアウトになる)。整列する際に目印として転用するのは、まあ、ありえる転用法だろう。しかしそれも「黄色い線の内側にさがってお待ちください」(by JR)であるべきであり、まあ「そんなん、努力義務にすぎないわ」という主張は大いに(日常生活的に)ありえる。が、「努力義務w だからやぶってもいいんでーすw 罰則とかないでーすw」とか言わんばかりの主張とは、そりゃまあ差異があろう。
どーもこの米山氏は、ちょっとした指導者さんらしいのだが、こういう「善導」が何を齎すかはちと考えてみてもよいのだろう。
休日・横浜・中華街、それなら肉まんでも食べてのほほんとするのがよいだろう―というような平民感覚は恐らく望ましいものだったが(この件―今回の件を参照すると、これも政治的敵対者に対する揶揄の気持ちが先立ったものだったものだろうかねえ、惜しいことだ―)、その”平民感覚”をそのまま転用しまくると、こういう悲劇が起こるという、よい例とも言える。
僕としては、このように思うものだが:
@ohnuki_tsuyoshi 保守ってのは横浜中華街に行ったら普通に肉まんだの焼売だのを頬張れる
— 中野 悠@C92ネームマン (@_U2__) 2017年5月4日
経済的治安的安寧を守ることであって
そんなとこ行ってまで憂国の意志に縛られる国民を作ることじゃないですよね…
まあその、我々は目が見えているため、目が見えない人だのがいざ町を歩くときのあれこれがわからない。腰がまがりまくったばーさまが、盲人ブロックをたよりに歩くなんてのも、まーなかなかその境地はわからない。”平民感覚”は、こうした末端の弱者・少数者のあれこれの必要性、必然性をすぱーっと忘れはてがちだったりする。
そこで我々は、あるいは為政者は、手持ちの資源のなかから一部をとりのけて、そうした弱者救済のために使ってみたりする。そして意識向上を策してみたりする。より多数のひとたちが、より多くの幸福を得られるような策を講じるのが、多数からの信託を得た政治家さんのお仕事なのではないかなーとか。
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