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空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

オリザ先生、飛ばしすぎ!

2020-05-08 11:27:55 | Weblog

 全然反省してなくて、それこそ「草」。

 まあ、こうなるな。

 いやその、科研費書類に『政府は速やかに私の新型コロナウィルス研究にカネを出せ! 文系の研究なんて自分で買った本を読んで感想文書けばいいだけだから、あとで本を買って読めばいいだけだが、新型コロナウィルス研究は今! まさしく! 予算をかけて検体を取らねば、取り返しがつかないのだ!』とか書いてたら、審査員は「そーゆー寝言書いてるスペースがあれば、倫理委員会をどうやってクリアするか、10文字くらいでキーワード書く程度はできないか?」とか思って却下するんじゃないか。

 少なくとも私なら点数を落とす。「そりゃおめーにとっては真なんだろうよ。おめーにとってはな!」と申請書にメモを書くだろうな。

 別に、知りもしないよその領域を侮辱する意味はないんだ。
 いや侮辱する直接的な意図はなかっただろう、単に偏見を言っただけなんだろう、しかしそれを言わねば自分の仕事の価値を主張できないものなのかどうか。言葉で商売する人にしては、あまりに言葉に関する感覚が緩すぎる(なので、その本業で作っているものの質も危ういと思われてしまう)というのが問題の核心だと思うよ。

 例えば。

演劇は、歴史の長い芸能で、人類の文化と分かちがたく進んできた面がある。時代や世相を写しだし、風刺をするにも優れているし、人間性への問いを深めることもできる。

 例えば今回の新型コロナウィルスにまつわる騒動にしても、「自粛を求める権力」という、言語矛盾的な現象を見る。これを風刺するなら古典的な権力批判となるだろう。そして現今の問題として、そうした”悪しき権力”を模倣した小権力者たちによる私的な「小権力行使」が頻発し、市民の間の連帯を阻害しているように聞いている。これは我々の時代の危機なのだ。

 こうした微細な、しかし将来に禍根を残すような―様々な事象を敏感な感覚でつかみ取り、読み取り、人々に知らせる活動を行う―我々のような演劇関係者というのは現代と未来とに対する記録者であり警告者である。公的な、大文字の歴史に残らない民の声を―民たちの声は、現代では(blogやtwitterやFaceBookなどで)残しやすいとはいえ、その膨大な量はそれ自体、後代の人々の理解を阻むだろう―抽出し、抽象化し、娯楽の形に再構成して伝える語り部たちが、いま危機に瀕している。

 現代の声を伝える使命を、どうか果たさせていただきたい。


 これでどうだろう。

 追加


 まあ、こういうこと。

 せっかく注意されて、それで逆切れするようなことをするから、再度つっこみくらってるわけで。
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