いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

千鳥足でつぶやく『映画ばなし』その5:人間・山本五十六の葛藤とその戦い

2012-02-22 11:54:56 | 映画
真珠湾攻撃から1年5ヶ月後の昭和18(1943)年4月18日、山本五十六連合艦隊司令長官が搭乗していた一式陸上攻撃機は、ブーゲンビル島ブイン上空で待伏せしていた米軍のロッキードP38ライトニング戦闘機に爆撃され、山本長官は戦死する(海軍甲事件)。

ラバウルの南東方面司令部から、ブイン周辺にある海軍部隊五ヶ所に打電された暗号電報「機密第131755電:13日17時55分発を意味する」を傍受した米軍は、17日までに解読し、山本長官機を撃墜するP38ライトニング戦闘機17機から成る「ヤマモト・ミッション」を編成。

山本長官らを一番機に乗せた一式陸攻2機を6機のゼロ式戦闘機が護衛する編隊構成から、その航程や時間、場所を知らせる暗号電報を傍受・解読した米軍の迎撃計画は周到で完璧だった(太平洋戦争全記録:あの戦争上 他)。
映画では、山本長官のスケジュールは平分で打電したことになっているのですが・・・。

「おめでとう、獲物のカモのなかの一羽は、孔雀だったらしいね」

これは、山本長官機撃墜の報告を受けたウイリアムズ.F.ハルゼー大将がソロモン方面航空部隊指揮官M.A.ミッチャー少将へ送った祝電といわれている。また、この作戦は、時の米国大統領フランクリン.D.ルーズベルトの承認を得て実施された(同前)。



さて、連合艦隊司令長官山本 五十六大将を描いた映画は、当然、山本長官の戦死で終わります。
人間・山本 五十六は、随所に描かれていますが、軍人としての山本 五十六は、日独伊三国同盟の締結に異議を唱える場面、真珠湾攻撃に出撃しても外交交渉が円滑に行われた際に艦隊は、作戦を停止し引き返すことを徹底する場面でしょう。
そして、五十六長官の心境を忖度するには、彼のセリフを注意深く聴いていないとイメージできない。元気印が注目したセリフがあります。

「これで、詰んだな」



世界で最初に航空母艦同士がまともにぶつかった珊瑚海海戦は、日米五分五分の戦いでしたが、航空母艦『赤城』『加賀』『蒼龍』『飛龍』を失ったミッドウエー海戦は、大東亜戦争の帰趨を決める分岐点となった。このことは、さまざまな局面で語りつくされているので、何方もご存知の史実でしょう。

余談になります。
次男坊がロンドンで仕事をしている時期に初孫が産まれ、その100日祝も兼ねて内儀と共に訪英し、孫の背中に一升餅を背負わせたのは、8年前のことです。
ルイ・アームストロングに憧れトランペットを吹いている小学5年生に、初期に録音したサッチモのCDをロンドンから送ったのも、この時でした。その小学生は今、米国へ留学してジャズの勉学に励む高校生に成長しました。

そんな時、ロンドン市内の書店で、航空母艦を扱ったバーゲン品が目に留まり、ペラ、ペラ頁をめくると、第二次世界大戦時における米国、英国、日本の航空母艦が紹介されていたのです。しかも、£19.99が£9.99の半額です。英語の理解力ゼロの自分をど忘れして購入。帰国してから興味のあるページを見て本棚に眠っていた次第。



それは兎も角、映画『山本 五十六』を観て、真珠湾攻撃の主戦力をなした航空母艦を含め、それらの詳細が写真入で紹介されていることを思い起こし、改めての見直しです。



『鳳翔』(ほうしょう:Hosho)
 大正11(1922)年12月、浅野造船所(横浜市鶴見)で竣工。常備排水量9,449トン。
 大正7(1918)年1月に起工した英国海軍小型航空母艦『ハーミーズ』(10,850トン)の竣工は大正13(1924)年2月。このた  め、世界で最初に竣工した純空母は『鳳翔』とされる。昭和20(1945)年9月20日、特別輸送艦として復員輸送で活躍する。

『赤城』(二代目・あかぎ:Akagi)
 昭和2(1927)年3月25日、呉海軍工廠で竣工。公試排水量34,364トン。昭和11(1936)年10月から13(1938)年8月までの大改 装(飛行甲板の全通化や兵装等の強化)工事により空母機能を充実する。昭和15(1940)年11月26日、機動部隊として単冠(ひ とかっぷ)湾を出撃、12月8日、真珠湾攻撃を実施。
 昭和17(1942)年5月27日、旗艦としてミッドウエー海戦に出撃、6月5日、米国機動部隊の艦上爆撃機の襲撃を受け大破、日本 機動部隊の第四駆逐隊4隻が発射した魚雷により自沈処理される。

『加賀』(かが:Kaga)
 大正12(1923)年12月13日、横須賀工廠で航空母艦への改装工事に着手、同14(1925)年4月22日竣工。公試排水量33,693トン。昭和10(1935)年、全通甲板の採用やタービン交換などの改装工事により空母機能を向上させる。改装後の公試排水量42,500トン。開戦後の戦歴は『赤城』と同じ。ミッドウエー海戦で米国機動部隊の艦上爆撃機の奇襲を受け沈没。

『龍驤』(りゅうじょう:Rujo)
 昭和6(1931)年4月2日竣工。公試排水量11,733トンの小型航空母艦として建造され、昭和12(1937)年の改装で公試排水量12,575トンに。昭和16(1941)年8月16日、第二次ソロモン海戦に出撃し、ソロモン諸島の南端マライタ島付近で米国機動部隊 の攻撃を受け沈没。

『飛龍』(ひりゅう:Hiryu)

 昭和14(1939)年7月5日、横須賀工廠で竣工。公試排水量20,165トン。
 昭和12(1937)年12月19日呉海軍工廠で竣工した公試排水量が18,800トンの『蒼龍』(そうりゅう)とは姉妹艦で、共に計画さ れた日本海軍初の近代的航空母艦。



話は山本 五十六に戻ります。
ミッドウエー海戦で、米軍機の急襲を受けた航空母艦『飛龍』は火災を起こし、第二航空戦隊司令官山口 多門少将は総員退去命令を発したが、『飛龍』艦長の加来 止男大佐と共に艦に残った。そして、駆逐艦『巻雲』から発射された2本の魚雷により『飛龍』は海の底に沈んだ。

この報告を受けた山本長官は、連合艦隊の旗艦『大和』で将棋を指していた。山口少佐の戦死報告を聴き終わった山本長官は、平静を装いつつも苦渋の面持ちで言い放った。

「これで、詰んだな」

これは、アメリカとの戦いの行く末を予見した軍人・山本 五十六でなければ言えないセリフです。
ミッドウエー海戦の指揮を執った第一航空戦隊司令官を兼務していた第一航空艦隊司令長官南雲 忠一が、海戦敗北の報告に『大和』を訪れても、海戦にまつわる会話は一切なく、山本 五十五は南雲 忠一に雑炊を勧めるだけです。

ミッドウエー海戦敗北の最大の要因となった「兵装転換」は、昭和17(1942)年4月5日から9日に展開された「セイロン沖海戦」でも南雲機動部隊では実施しており、英国東洋艦隊の消極的な攻撃のお陰で難を逃れています。

この時は、

「攻撃隊がツリンコマリやハーメス攻撃している間、母艦の方では早朝から敵襲を予期して厳重な警戒を続けていたのであるが、 早朝の敵機来襲は無く、午前10時15分敵飛行艇1機の触接するのを認め一撃にしてこれを撃墜したのみであった。この様子であ るいは今日も敵襲は無いかも知れないと思っていたのであるが、午後1時48分に至って見張員から「利根方向水柱」との報告 があり、我々が目を右前方の利根の方に転じた瞬間「シュッ、シュッ、シューッ」という昔どこかで聞き慣れた様に感ずる音が 響いた。と思うと同時に赤城の右前方から後方にかけ、艦を挟んで爆弾の着弾波紋と皮膚を突き破るような衝撃波を経験した。 上空を見れば敵の爆撃機9機が旋回中である。上空の戦闘機はやや離れていたが、全速力で追撃に移り、これを捕捉して敵プレ ネム双発爆撃機9機の内6機を撃墜した。この戦闘で飛龍分隊長熊野大尉を失ったのは痛かった。(中略)。こんな奇襲を喰う ようでは、今後よほど警戒しなければならない。余りにも順調な戦闘を続けた我々は、この瞬間に更に深い反省をすべきであっ たと思う。その反省の不足は、2カ月後のミッドウエーに現れて来た次第である」(源田 實:海軍航空隊始末記)。

英国東洋艦隊の動向を把握してから南雲機動部隊の作戦決定までの経過を「海軍航空隊始末記」で整理してみます。

昭和17年4月5日は、

 午後1時過ぎ 利根4号機から「敵巡洋艦らしきもの2隻見ゆ」の電信を受ける。
 午後1時25分 第三編制は敵巡洋艦攻撃の予定。艦攻は出来る限り雷装とす、の予令が発せられ、各  
       母艦は直ちにその準備に取掛かった。
 午後2時15分 阿武隈機から「敵駆逐艦2隻見ゆ」との報が入る。
     司令部の意見が対立したが、南雲長間の決定で駆逐艦をやることになり、議論は打ち切られた。
 午後4時   「敵巡洋艦はケント型なり」との報が利根1号機より入る。
        これで、コロンボ再攻撃の議論は不要になった。

の経緯を経て作戦方針が決まり、南雲機動部隊は華々しい戦果を得ています。

つまり、午後1時12分に発令された兵装転換の実施から、午後4時の敵巡洋艦発見の報告が入る迄に2時間半もの時間的余裕があった。その間に兵装転換を終え発進準備の整っていた第一、第二航空戦隊の艦爆53機は、2時45分各母艦を発進し、『蒼龍』飛行隊長江草 隆繁少佐の指揮の下に、英海軍1万トン級巡洋艦の攻撃に向い、「ドーセットシャー」「コンウォール」を撃沈したのです。

一方の英国東洋艦隊は、南雲機動部隊が4月1日に来襲する暗号情報を入手・解読し待伏せしていたのですが、出撃が4月5日に変更となり機動部隊と遭遇しなかった。勝利の女神が、日本側に微笑む要因になったのです。

この海戦で気になるのは、コロンボ攻撃部隊を発進させた『赤城』が、自軍空母を護衛する戦闘機隊が見逃したプレネム双発爆撃機の爆撃を受けていることです。不幸中の幸いでしょうか、投下された爆弾は『赤城』の左右に外れたので、勝利を得られたのです。

しかし、ミッドウエー海戦では、セイロン沖海戦のような兵装転換に要する1時間半もの時間的な余裕は皆無で、雷装(魚雷)から陸用爆弾への転換令が発せられ、さらに雷装への転換令が出され、その作業中に米軍機の急襲に遭い、虎のこの空母4隻を失っている。セイロン沖海戦で作戦の指揮を執った源田 實が自著の中で告白している通りミッドウエー海戦で敗北した。その原因となったとされる「魔の5分間」についてはご存知の方も多いと思います。

山本長官の命令は、門田隆将の著書「太平洋戦争 最後の証言-零戦・特高編」に『加賀』艦攻隊前田 武の証言があります。 

「とにかく、あれは源田参謀と南雲長官の責任です。特に源田参謀ですね。戦後、私は山本五十六長官が、敵が日本の艦隊へ接近 することがわかったら、何を置いても、魚雷攻撃しかないんだから、艦攻が出ていって応戦しろと、源田にかたく言いつけてい たことを聞きました。山本長官の部下から聞いたんですよ。艦攻は何があっても、魚雷をおろして爆弾に積みかえるのは禁止す る、とまで山本長官は厳命していたことも聞きました。出航する時の打ち合わせでも、赤城と加賀の2隻は絶対に魚雷攻撃以外 を考えちゃいかんと、言われていた。それでも源田参謀は、ああいう指示をしてしまったんですからね(中略)。

 やはり、敗北の最大の原因は、日本側の索敵の怠慢にありました。巡洋艦『筑摩』から出た海軍兵学校出の大尉の一号偵察機  が、発艦おおよそ1時間後に敵のドーントレスと遭遇して、撃ちあっている。しかし、大尉はこれを報告していない(中略)。
 私は、真珠湾50周年の時に、ハワイに招かれ、このときのドーントレスを操縦していたアメリカのパイロットに会うことかでき ました。向こうは日本の偵察機と遭遇したことをきちんと報告しているのに、こっちは肝心の報告をしていないんです。それど ころか、この決定的なミスが巡洋艦『利根』から発艦した索敵機のせいにされているんです」

いずれにしても、ミッドウエー海戦の敗北を報告に来た南雲 忠一に対する山本 五十六の心境は、親指が他の指を骨折させるくらい拳に力を入れて握っていた筈です。心中に噴き上る葛藤を必死に握り潰して、淡々と雑炊の箸を進める山本長官を描いたシーンは、観る者に訴えるものがあります。



山本 五十六長官を端的に表した作家の言葉を紹介して、本稿の終りにします。

「五十六が名将でないとしたら、日本の軍部は一人の名将も持たなかったことになる。与えられた条件の下で、五十六はおよそ人 間の出来る限りの努力をした。勝ち目がないと承知しながら、大博打に打って出た」(工藤 美代子:海燃ゆ・山本五十の生  涯)。



コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 積雪した我家を訪れたスズメの番 | トップ | 千鳥足でつぶやく『映画ばな... »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

映画」カテゴリの最新記事