高橋泥舟(でいしゅう)、勝海舟、山岡鉄舟は、幕末の三舟(さんしゅう)と称され、その謂れについても、先刻ご存知のことでしょう。
鉄舟の内弟子から高弟となり、晩年の鉄舟を熟知している小倉鉄樹の語った炉話を、鉄舟門下の石津寛が纏めた『おれの師匠』を読んでいると、鉄舟の生き様が鮮明に蘇ってきます。その一端は元旦に書きました。
「海舟は智の人、鉄舟は情の人、泥舟に至っては、それ意の人か」
これは、大森曹玄が『幕末三舟伝』(頭山満:とうやま・みつる述、武劉生:ぶ・りゅうせい筆)から引用して自著『山岡鉄舟』の中で紹介し、三舟の書と人柄を自ら比較評価しています。
「泥舟の草書は、まるで枯れ木を思わせるその線は、まことに異常の人であることを示している(写真左)。それが、楷書になるとガラリと趣が変って線は軟らかく、気品すこぶる高く、しかも並々ならぬ力量が窺える」
「海舟は、智者は水を愛す、といった趣がある(同中央)。水の流れるような機略の人であるが、拮屈(きっくつ:文章が滑らかでなく読みづらい)ともいうべき書体からは、あまり素直でないものを感じさせる」
「鉄舟は、その墨跡も若書きのものは意気にまかせて書きなぐったような、やや上滑りのものもあるが、晩作のものになると情味の濃さや心境の深さを示すものが多い(同右)。その傑作のものになると、三舟中の随一といってよい」
「鉄舟の傑作とされる書に匹敵するのは、西郷南州のそれであろう・・・。
両人は、体格もよく似て鉄舟の方が3寸ばかり長身であるが、その書風の筆力雄勁(ゆうけい:おおしく力強い)、気迫充実といったところも両者は実によく似ている」
と解説されても、三舟書の現物は拝見するチャンスがありません。そこは、ネット社会です。ウィキペディアで三舟の書を見つけました(写真)。大森曹玄の書評と無関係とはいえ、三舟の人物評を彷彿とさせますね。
ちなみに、この掛軸は、元々一枚の寄せ書きであったものを三分割して表装したものです。一枚に書かれている三舟の寄せ書きは、『幕末三舟伝』に写真が掲載されていますから。
さて、鉄舟と西郷が会談をした時の政治情勢は、鳥羽・伏見の戦いで公武合体(朝廷と幕府、諸藩が一致協力して国政を運営しようとする考え方)派に勝利した倒幕派が、新政府内の指導権を確立した時期です。
鳥羽・伏見の戦いに破れ朝敵となった徳川慶喜は上野寛永寺に閉門しますが、恭順の意を新政府に訴える工作がなんら成果を挙げなられない状況に陥っていたのです。それを打破する策として、自分の意思を東征大総督府参謀であった西郷隆盛に伝える使者に泥舟を指名します。しかし、自分が江戸を離れると慶喜の身辺に危険が及ぶと判断した泥舟は、義弟・鉄舟を勅使の代役に推薦し、慶喜と協議の末、鉄舟は慶喜の勅命を受けます。
このような経過を経て、鉄舟は西郷との駿府会議を成功裏に導き、江戸に於ける西郷・海舟会談の下地を創ります。その結果、明治元年4月11日、江戸城は平和的に明け渡されたのです。
そして、7月に江戸は東京となり、明治天皇の東京行幸が3ヶ月後の10月に実現します。
ところが、戊辰戦争(ぼしんせんそう)で東征大総督を務めていた西郷は、大政奉還(たいせいほうかん)が成功しようがしまいが、幕府を激怒させ立ち上がらせて倒幕の大義名分を作る路線を動かし、倒幕劇は慶喜の首を取らないと大団円にならない。そのための基本シナリオを書いた。
武略は西郷、朝廷工作は大久保利通と岩倉具視という役割分担がキチンと出来ていた。そこに、暴力革命を実践しながらも、ちょっと距離を置いて、大政奉還を眺めている西郷の凄さがある(中央公論・幕末史探訪)。
一方、鉄舟の考えは『おれの師匠』から引用します。
「徳川幕府を滅ぼしたのは、一つには3百年の泰平に慣れた士気の頽廃(たいはい)にも因るが、大きな原因は、国体(こくたい:国家を成り立たせる根本原理)に醒めた勤王論の勃興(ぼっこう)である。
これは、幕府建設以来最も警戒してきた所なのだが、時運の趨勢(すうせい)は止むを得ないもので、また、強弩の末勢(きょうどのまつすえ:昔強かったものも衰えてからは無力になる)にも等しい幕末の勢力を以ってしては、とても抑制し難いことでもあった。
運の尽きる時は総てがいけない。折から襲来した諸外国からの交渉は、勤王論者をして朝命(ちょうめい)を楯に盛んに攘夷(じょうい)を主張して、幕府に迫ったものだから、幕府は益々窮地(きゅうち)に陥った。
山岡は内外の事情を察し、徳川の運命の到底挽回(ばんかい)すべからざるを知り、また、開国は畢竟(ひっきょう)止むを得ない趨勢であることを観て取った。けれども、身は祖先・小野高寛(たかひろ)以来粟(ぞく)食み、譜代恩顧(おんこ)を蒙っているのに、駄目な主家だからといって放擲(ほう)つちゃ置けない。たとへ、滅びるにしても北条、足利の如きみじめな末路を見るのはいやだ。立派に花を咲かせて終わりを全うしなくちゃならないと考えた。それには、天地の正道に基き朝命を奉じて攘夷を断行し、幕府の采配の下に諸藩を糾合(きゅうごう)し挙国一致に当たったら、徳川の面目も保たれ最後を飾ることが出来ると考えた」
慶応3(1867)年12月9日の午後6時頃から、明治天皇御臨席の下に京都の小御所内において、新政府最初の国政会議(小御所会議:こごしょかいぎ)が開かれます。
公武政体派は、慶喜の出席を許さないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張。他方、倒幕派は、徳川政権の失政を並べ立て、慶喜の内大臣辞任と幕府領の放棄(辞官納地)を主張。両者共に譲らないので会議は休憩とされ、岩下方平は西郷に助言を求めます。
「短刀1本あれば事は足りる」
と西郷は言い放ち、再会された会議は討幕派のペースで進められたのです。
大政奉還が行われ政治運営の権力から遠ざかった武力討幕派は、兵力によって幕府勢力を一掃する裏面工作を画策していたのです。西郷の本音を知った公武合体派はおとなしくなり、武討派は、この機を捉え辞官納地を朝議決定します。王政復古の大命令を発して「天皇親政」の宣言です。ここに、公武合体派を一掃する武討派グループのクーデータは成功したのです。
このような暴力革命を厭わない西郷に、鉄舟は自分の信念を披瀝して駿府会議を成功させていることを、『おれの師匠』から読み取れます。
しかし、
「海舟は、事実の正確さよりも、そのとき自分が言いたいことを優先させる。過去の自身の言動と矛盾するのはお構いなしだった。この癖は生涯を貫いている(同上・幕末探訪)」
慶喜から西郷に恭順の意を伝えるように命令を受けた泥舟は、鉄舟を代役に推薦し慶喜は了解します。鉄舟は、軍事総裁・海舟のところへ出向きその旨報告し、駿府へ発ちます。
鉄舟が西郷に会うように指示したのは海舟であるかのような説明を散見します。それは海舟の記録を根拠にしているからのようです。海舟の書体から、あまり素直でないものを感じた大森曹玄の書評とも重なりますね。
大森曹玄は、『山岡鉄舟』でこのあたりの検証をした後に、
「鉄舟ひとりで幕府の方針一決には至らなかったであろうし、海舟一人でも基礎工事が進まず、舞台は回転しなかったであろう。両者が一体となり、おのおの天賦の性能を発揮したお陰で、この難件の処理が出来たのである」
として、次のように結んでいます。
「何も目くじら立てて攻撃しなければならないほど、海舟に野心があったとは到底おもわれない」
明治元年3月8日、駿府会議で鉄舟と初対面の西郷は、その時の鉄舟を評して海舟に漏らしています。
「山岡さんは、どうの、こうのと、言葉では尽くせぬが、何分にも腑の抜けた人でござる。あの人は、生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といった始末に困る人ですが、あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」
これは、3月13日、西郷と海舟が江戸で会談後、鉄舟と相談の上、西郷を愛宕山に誘い出し、山の上から一望できる江戸の町を指しながら説明していた海舟が、
「明後日は、これが焼け野原になってしまうかも知れんな」
と、江戸城攻撃の決意の程を確かめる海舟の謎賭けを黙って聴いていた西郷が、ため息をついて言った言葉だけに重みを感じます。
「西郷と鉄舟は、体格もよく似て鉄舟の方が3寸ばかり長身であるが、その書風の筆力雄勁、気迫充実といったところも両者は実によく似ている」
何事にも命がけで臨む鉄舟の人柄とその主張は、「敬天愛人(けいてんあいじん):天を敬い、人を愛する」を信奉する西郷の琴線に触れ、鉄舟と天下の大事を誓ったのでしょう。
その誓いとは、駿府会談において鉄舟が頑として拒否したことを、西郷が一身を賭して守ったことです。江戸城を明け渡す条件として5ヶ条の条件を突きつけられた鉄舟が、命がけで撥ね付けた条件が1ヶ条だけあったのです。
「徳川慶喜を備前へ預けること」
「これは、朝命じゃ!」と断固と言い放ち後へ引かない西郷に対して、君臣の理をもって説き伏せてくる鉄舟の人としての迫力に魅せられたので、西郷は徳川家の存続を鉄舟に誓った、と思うのです。
「あなたの云われるところ如何にもご尤もである。よって、徳川慶喜の一条については吉之助きっと引き受け、貴意の通り取り計らうことと致そう。決して、ご心配めさるるな」
3月15日に決行する倒幕軍の江戸城攻撃は回避され、江戸の町が火の海になる無駄な犠牲を回避し、兵士達の生命が保証される江戸城無血開城が行われる下準備は、このようにして整えられたのです。
三舟の人物評価を書いて終わりにします。
維新の三傑と言っても、政治的才能とか、知識とかいう点ではいざ知らず、人物ということになれば、西郷○○○○、大久保○○○○、木戸ということになるのではないかと思う。
それと同じように、幕末三舟といっても決して同じ地平に並列しているのではない。西郷と大久保・木戸ほどの差はないにしても、鉄舟○○、泥舟○○、海舟ということになる(大森曹玄)。
余談になります。
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が始まりましたが、天誅(てんちゅう)の嵐が吹いていた文久2(1862)年、攘夷論者の龍馬は海舟を斬りに行きますが、逆に折伏(しゃくぶく)されてしまい弟子になります。そして、軍艦奉行並(ぐんかんぶぎょうなみ:海軍次官)・海舟が進めている神戸海軍操錬所の建設に奔走しています。
他方、鉄舟と龍馬の接点は、清川八郎や鉄舟らが安政6(1859)年に結成した「尊皇攘夷党」の幹事として、龍馬は連判状の末尾に名を連ねています。
なにはともあれ、歴史に興味をもち史実を調べていくと、歴史の表舞台に登場している幕末の志士たちの絡み合いが、どのように描かれるかに興味が湧いてきます。
そして、ドラマに込められている歴史観などを読む楽しみが増してくるようです。
鉄舟の内弟子から高弟となり、晩年の鉄舟を熟知している小倉鉄樹の語った炉話を、鉄舟門下の石津寛が纏めた『おれの師匠』を読んでいると、鉄舟の生き様が鮮明に蘇ってきます。その一端は元旦に書きました。
「海舟は智の人、鉄舟は情の人、泥舟に至っては、それ意の人か」
これは、大森曹玄が『幕末三舟伝』(頭山満:とうやま・みつる述、武劉生:ぶ・りゅうせい筆)から引用して自著『山岡鉄舟』の中で紹介し、三舟の書と人柄を自ら比較評価しています。
「泥舟の草書は、まるで枯れ木を思わせるその線は、まことに異常の人であることを示している(写真左)。それが、楷書になるとガラリと趣が変って線は軟らかく、気品すこぶる高く、しかも並々ならぬ力量が窺える」
「海舟は、智者は水を愛す、といった趣がある(同中央)。水の流れるような機略の人であるが、拮屈(きっくつ:文章が滑らかでなく読みづらい)ともいうべき書体からは、あまり素直でないものを感じさせる」
「鉄舟は、その墨跡も若書きのものは意気にまかせて書きなぐったような、やや上滑りのものもあるが、晩作のものになると情味の濃さや心境の深さを示すものが多い(同右)。その傑作のものになると、三舟中の随一といってよい」
「鉄舟の傑作とされる書に匹敵するのは、西郷南州のそれであろう・・・。
両人は、体格もよく似て鉄舟の方が3寸ばかり長身であるが、その書風の筆力雄勁(ゆうけい:おおしく力強い)、気迫充実といったところも両者は実によく似ている」
と解説されても、三舟書の現物は拝見するチャンスがありません。そこは、ネット社会です。ウィキペディアで三舟の書を見つけました(写真)。大森曹玄の書評と無関係とはいえ、三舟の人物評を彷彿とさせますね。
ちなみに、この掛軸は、元々一枚の寄せ書きであったものを三分割して表装したものです。一枚に書かれている三舟の寄せ書きは、『幕末三舟伝』に写真が掲載されていますから。
さて、鉄舟と西郷が会談をした時の政治情勢は、鳥羽・伏見の戦いで公武合体(朝廷と幕府、諸藩が一致協力して国政を運営しようとする考え方)派に勝利した倒幕派が、新政府内の指導権を確立した時期です。
鳥羽・伏見の戦いに破れ朝敵となった徳川慶喜は上野寛永寺に閉門しますが、恭順の意を新政府に訴える工作がなんら成果を挙げなられない状況に陥っていたのです。それを打破する策として、自分の意思を東征大総督府参謀であった西郷隆盛に伝える使者に泥舟を指名します。しかし、自分が江戸を離れると慶喜の身辺に危険が及ぶと判断した泥舟は、義弟・鉄舟を勅使の代役に推薦し、慶喜と協議の末、鉄舟は慶喜の勅命を受けます。
このような経過を経て、鉄舟は西郷との駿府会議を成功裏に導き、江戸に於ける西郷・海舟会談の下地を創ります。その結果、明治元年4月11日、江戸城は平和的に明け渡されたのです。
そして、7月に江戸は東京となり、明治天皇の東京行幸が3ヶ月後の10月に実現します。
ところが、戊辰戦争(ぼしんせんそう)で東征大総督を務めていた西郷は、大政奉還(たいせいほうかん)が成功しようがしまいが、幕府を激怒させ立ち上がらせて倒幕の大義名分を作る路線を動かし、倒幕劇は慶喜の首を取らないと大団円にならない。そのための基本シナリオを書いた。
武略は西郷、朝廷工作は大久保利通と岩倉具視という役割分担がキチンと出来ていた。そこに、暴力革命を実践しながらも、ちょっと距離を置いて、大政奉還を眺めている西郷の凄さがある(中央公論・幕末史探訪)。
一方、鉄舟の考えは『おれの師匠』から引用します。
「徳川幕府を滅ぼしたのは、一つには3百年の泰平に慣れた士気の頽廃(たいはい)にも因るが、大きな原因は、国体(こくたい:国家を成り立たせる根本原理)に醒めた勤王論の勃興(ぼっこう)である。
これは、幕府建設以来最も警戒してきた所なのだが、時運の趨勢(すうせい)は止むを得ないもので、また、強弩の末勢(きょうどのまつすえ:昔強かったものも衰えてからは無力になる)にも等しい幕末の勢力を以ってしては、とても抑制し難いことでもあった。
運の尽きる時は総てがいけない。折から襲来した諸外国からの交渉は、勤王論者をして朝命(ちょうめい)を楯に盛んに攘夷(じょうい)を主張して、幕府に迫ったものだから、幕府は益々窮地(きゅうち)に陥った。
山岡は内外の事情を察し、徳川の運命の到底挽回(ばんかい)すべからざるを知り、また、開国は畢竟(ひっきょう)止むを得ない趨勢であることを観て取った。けれども、身は祖先・小野高寛(たかひろ)以来粟(ぞく)食み、譜代恩顧(おんこ)を蒙っているのに、駄目な主家だからといって放擲(ほう)つちゃ置けない。たとへ、滅びるにしても北条、足利の如きみじめな末路を見るのはいやだ。立派に花を咲かせて終わりを全うしなくちゃならないと考えた。それには、天地の正道に基き朝命を奉じて攘夷を断行し、幕府の采配の下に諸藩を糾合(きゅうごう)し挙国一致に当たったら、徳川の面目も保たれ最後を飾ることが出来ると考えた」
慶応3(1867)年12月9日の午後6時頃から、明治天皇御臨席の下に京都の小御所内において、新政府最初の国政会議(小御所会議:こごしょかいぎ)が開かれます。
公武政体派は、慶喜の出席を許さないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張。他方、倒幕派は、徳川政権の失政を並べ立て、慶喜の内大臣辞任と幕府領の放棄(辞官納地)を主張。両者共に譲らないので会議は休憩とされ、岩下方平は西郷に助言を求めます。
「短刀1本あれば事は足りる」
と西郷は言い放ち、再会された会議は討幕派のペースで進められたのです。
大政奉還が行われ政治運営の権力から遠ざかった武力討幕派は、兵力によって幕府勢力を一掃する裏面工作を画策していたのです。西郷の本音を知った公武合体派はおとなしくなり、武討派は、この機を捉え辞官納地を朝議決定します。王政復古の大命令を発して「天皇親政」の宣言です。ここに、公武合体派を一掃する武討派グループのクーデータは成功したのです。
このような暴力革命を厭わない西郷に、鉄舟は自分の信念を披瀝して駿府会議を成功させていることを、『おれの師匠』から読み取れます。
しかし、
「海舟は、事実の正確さよりも、そのとき自分が言いたいことを優先させる。過去の自身の言動と矛盾するのはお構いなしだった。この癖は生涯を貫いている(同上・幕末探訪)」
慶喜から西郷に恭順の意を伝えるように命令を受けた泥舟は、鉄舟を代役に推薦し慶喜は了解します。鉄舟は、軍事総裁・海舟のところへ出向きその旨報告し、駿府へ発ちます。
鉄舟が西郷に会うように指示したのは海舟であるかのような説明を散見します。それは海舟の記録を根拠にしているからのようです。海舟の書体から、あまり素直でないものを感じた大森曹玄の書評とも重なりますね。
大森曹玄は、『山岡鉄舟』でこのあたりの検証をした後に、
「鉄舟ひとりで幕府の方針一決には至らなかったであろうし、海舟一人でも基礎工事が進まず、舞台は回転しなかったであろう。両者が一体となり、おのおの天賦の性能を発揮したお陰で、この難件の処理が出来たのである」
として、次のように結んでいます。
「何も目くじら立てて攻撃しなければならないほど、海舟に野心があったとは到底おもわれない」
明治元年3月8日、駿府会議で鉄舟と初対面の西郷は、その時の鉄舟を評して海舟に漏らしています。
「山岡さんは、どうの、こうのと、言葉では尽くせぬが、何分にも腑の抜けた人でござる。あの人は、生命もいらぬ、名もいらぬ、金もいらぬ、といった始末に困る人ですが、あんな始末に困る人ならでは、お互いに腹を開けて、共に天下の大事を誓い合うわけには参りません。本当に無我無私の忠胆なる人とは、山岡さんの如き人でしょう」
これは、3月13日、西郷と海舟が江戸で会談後、鉄舟と相談の上、西郷を愛宕山に誘い出し、山の上から一望できる江戸の町を指しながら説明していた海舟が、
「明後日は、これが焼け野原になってしまうかも知れんな」
と、江戸城攻撃の決意の程を確かめる海舟の謎賭けを黙って聴いていた西郷が、ため息をついて言った言葉だけに重みを感じます。
「西郷と鉄舟は、体格もよく似て鉄舟の方が3寸ばかり長身であるが、その書風の筆力雄勁、気迫充実といったところも両者は実によく似ている」
何事にも命がけで臨む鉄舟の人柄とその主張は、「敬天愛人(けいてんあいじん):天を敬い、人を愛する」を信奉する西郷の琴線に触れ、鉄舟と天下の大事を誓ったのでしょう。
その誓いとは、駿府会談において鉄舟が頑として拒否したことを、西郷が一身を賭して守ったことです。江戸城を明け渡す条件として5ヶ条の条件を突きつけられた鉄舟が、命がけで撥ね付けた条件が1ヶ条だけあったのです。
「徳川慶喜を備前へ預けること」
「これは、朝命じゃ!」と断固と言い放ち後へ引かない西郷に対して、君臣の理をもって説き伏せてくる鉄舟の人としての迫力に魅せられたので、西郷は徳川家の存続を鉄舟に誓った、と思うのです。
「あなたの云われるところ如何にもご尤もである。よって、徳川慶喜の一条については吉之助きっと引き受け、貴意の通り取り計らうことと致そう。決して、ご心配めさるるな」
3月15日に決行する倒幕軍の江戸城攻撃は回避され、江戸の町が火の海になる無駄な犠牲を回避し、兵士達の生命が保証される江戸城無血開城が行われる下準備は、このようにして整えられたのです。
三舟の人物評価を書いて終わりにします。
維新の三傑と言っても、政治的才能とか、知識とかいう点ではいざ知らず、人物ということになれば、西郷○○○○、大久保○○○○、木戸ということになるのではないかと思う。
それと同じように、幕末三舟といっても決して同じ地平に並列しているのではない。西郷と大久保・木戸ほどの差はないにしても、鉄舟○○、泥舟○○、海舟ということになる(大森曹玄)。
余談になります。
NHKの大河ドラマ「龍馬伝」が始まりましたが、天誅(てんちゅう)の嵐が吹いていた文久2(1862)年、攘夷論者の龍馬は海舟を斬りに行きますが、逆に折伏(しゃくぶく)されてしまい弟子になります。そして、軍艦奉行並(ぐんかんぶぎょうなみ:海軍次官)・海舟が進めている神戸海軍操錬所の建設に奔走しています。
他方、鉄舟と龍馬の接点は、清川八郎や鉄舟らが安政6(1859)年に結成した「尊皇攘夷党」の幹事として、龍馬は連判状の末尾に名を連ねています。
なにはともあれ、歴史に興味をもち史実を調べていくと、歴史の表舞台に登場している幕末の志士たちの絡み合いが、どのように描かれるかに興味が湧いてきます。
そして、ドラマに込められている歴史観などを読む楽しみが増してくるようです。
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