いきけんこう!

生き健康、意気兼行、粋健康、意気軒昂
などを当て字にしたいボケ封じ観音様と
元気印シニアとの対話。

山本亭と江戸川提の道しるべ

2006-11-05 16:38:17 | Weblog
矢切の渡しから階段を上がり、江戸川土手を左へ向かうと吾妻やが建っている。
寅さん記念館に直行する場合はエレベーターを利用する。山本亭を見学する時
は、山本亭を俯瞰しながら階段を下りると正面が長屋門になっているので、徒歩
で行ける。

休憩所になっている吾妻やは丘の上に建てられている。この辺りは瓦を作る工場の跡地を
堤防にしたところで、関東一と云われた「柴安」銘の瓦を関東大震災(大正2年)まで生産し
ていた。

「柴安」は千代田区飯田町遺跡、関宿町関宿城跡、土浦市土浦城、流山市旧秋本家などに
現存し、江戸城の瓦葺きにも使用され、明治元年には菊の御紋の鬼瓦を作ったと云われて
いる。

柴又の瓦には、「柴又村鈴木安五郎製造」や「柴安」の印が押され、世間では後者の名で通
用した。当時の消費者は、産地と製造者が明記されているブランドとして認知した。

鈴木家は代々農家であったが、農業のかたわらで瓦の製造を始めたようで、何時ごろ創め
たのかは不詳だが、寛政後期から文化初期(1800年前後)と推測されている(柴又郷土史研
究会)。
瓦を制作する仕事場、野外には粘土や薪の置き場、天日干しにする干場、瓦を焼く窯など瓦
製造に要する敷地面積はかなり広大なものになる。

江戸川土手から吾妻やに入る道の入り口に竹柵に囲まれた「道しるべ」(写真)がある。

「金町へ十五丁、松戸へ一里、下矢切渡しへ一丁半、市川渡場へ三十丁」と書かれ、天明
3年(1783)の銘がある。(葛飾柴又展解説書より引用)

享和(1801~1803年)の頃6歳位になる武家の男の子がすらすら読んだといわれている道し
るべが、天明3年の銘があるものではないかと推測している。
200年以上も風雪に耐えた道しるべも、建てられて20年を経ても文字ははっきりしていただ
ろう。
「市川渡場へ三十丁」は今でも判読できるが、6歳位ですらすら読めるようになるには、日
常生活で育まれる本人の意識とも関係が深いが、しっかりした家庭教育がなされていないと
難しいのではないだろうか。

「大昔(享和の頃か)、奥州に落ちのびる一人の武士が、6歳位の子供を伴って柴又の矢切
の渡しに差しかかり、渡し場の茶屋で、足まどいになる子をかこちついている時、茶屋の主
人が、この先の瓦やには子供がいないので、どうかと話し、その子供を連れて瓦やの見える
土手上に立ち、この家はどうかと聞いたところ、子供は『この家なら貰われてもよい』と、父親
へ立派な返事、そして傍にあった道しるべの石の文字をすらすらと読んだと云う。
瓦や(私の本家)の夫婦も大いに喜び、貰い受けたとのこと。ところがこの子供、顔色も変え
ず、父に対して立派に別れの言葉を述べて父を見送ったという。
この道しるべの石は、現在、帝釈天境内にある。この子供こそ後の鈴木松什であった。
かくして松什は俳諧の宗匠となり、各地に多くの門弟があったが、嘉永六年四月十八日、
自宅で病没した。享年五十六歳」

山本亭の設計者を探す旅で巡り合った鈴木こと。
俳諧を嗜む家系に生まれ育った俳人の歌文集『ちどり橋』(昭和49年出版)の随筆「松什
(しょうじゅう)のこと―祖父百尺から聞いた話」に山本亭のルーツがあった。

子供に恵まれない鈴木英珍の養子となった6歳くらいの男の子安五郎(松什)は家督を継
ぎ、生業である瓦作りを、関東一と呼ばれる事業にまで発展させた。
ちなみに、百尺は松什の孫にあたる。ことは百尺の孫にあたり、昭和54年9月23日82歳
で没している。松什の人となりは孫から孫へと語り継がれている。

現在の山本亭の基となった東棟と土蔵などを設計したのは、松什の孫真之介の次男啓造。
家系図の説明には「建築家。後に山本邸を設計す」とあるので信頼すべき情報である。
(鈴木松什展解説書)
山本亭は、関東大震災直後に鈴木邸を取得した山本栄之助の名を採っているが、それまで
「柴安」を製造していた鈴木邸(山本亭旧東棟)の設計思想を受け継いでいる。これは、鈴木
邸を取得してから山本亭西棟を増築しているが、東棟(鈴木邸)を解体せずに原型を生かし
た二世帯住宅に増改築している点からも分る。

山本栄之助については、今の山本亭が完成するまでの経緯を通じてイメージを膨らませて
いるが、粋な経営者である。

松什は「柴安」ブランドを確立しているが、余技の俳句で、江戸の俳諧人として名をなした
粋人。
栄之助は純日本家屋に流行の最先端を走るデザインの応接間を増設する、ハイカラを理解
し生活に取り入れるほど進取の気取り旺盛な人物で、時代の先を読める粋な経営者だった。

安五郎の父は、無事に奥州に落ちのびたのだろうか。江戸川を渡るには金町の関所を通ら
なければならない。矢切の渡しは農産物の運搬や、農民が仕事の往来に使うもので、落
武者風情では乗せてもらえない。
安五郎を不憫に思った父は、鈴木英珍夫妻に一人息子を託して関所へ向かったのか、矢切
の渡しから松戸へ向かったのだろうか。父一人子一人の親子の心情は、言葉に表せない。
子宝に巡り合った英珍夫婦の喜びと感謝の念、瓦やを勧めた茶屋の主人、柴又村の人達が
善後策を話し合い、知恵を出し合い、一丸となって落武者の望みを叶えたと思う。

※ 山本亭の旧東棟を設計した鈴木啓造の話は次にあります。




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