南海道大地震 ー昭和21年
1946年(昭和21年)12月21日午前4時20分、四国地方を中心として、中部地方から九州までの広範囲を、M8.1の大きな地震が襲った。いわゆる南海道地震である。
震源地は紀伊半島沖約40キロの地点。深さは20キロであった。地震の規模としては、関東大震災より大きかった。震源が海岸から離れた海底であったため、当初は、地震の規模に比較してそれほど大きな被害は出ていないと推測されていた。ところが被害は、四国、九州、近畿、中国、中部地方の一部という広い範囲に及んだ。和歌山県新宮市では市の3分の1を焼失するという地震が原因の火災が生じた。全国で死者1,330人、行方不明者102人、負傷者2,632人を数えた。さらに全壊家屋は11,591戸、半壊家屋23,487戸、船舶の流出ないし破損は2,991隻に達した。地震の直後、最も早いところでは地震発生のわずか10分後に、高さ六6メートルを超す津波が襲い、田辺市に隣接する新庄村(1954年に田辺市に編入)では死者が20人を数え、全戸数630のうち99戸が流出、338戸が全半壊、297戸が床上浸水の被害を受けた。三重、徳島、高知と広い範囲を襲った津波による被害は、全国で流出家屋1,451戸、浸水家屋33,093戸であった。この津波は、遠くハワイやカリフォルニア半島にも達した。大きな被災地のひとつである和歌山県の地震直後の状況を、朝日新聞は、次のように伝えている。
○
海南市に急行した。街の中には真っ黒いどろ土がいっぱい、壁土が無残に落ちひしゃげた家も散見される。(中略)同市の繁華街東浜通りには電車のホーム がひんまがり、木片が散乱、また潮水が浅いところで四尺(約1.2メートル)余、高潮が小刻みに襲ってくる。黒江軍港付近の電車道には、十数トンの機帆船が二隻打ち上げられ、省線海南駅前道路には倒壊家屋が横たわって行く手をはば む。
○
以上のような大きな被害をもたらした直接的な原因は、もちろん地震の規模が極めて大きかったことにある。しかし、戦災による物資不足のために間に合わせの建造物や、不十分な地盤基礎工事、そして救済活動を行う組織の整備がまだ不十分だったことも大きな原因だった。この災害には、在日米軍から贈られた医療品、ローマ法王ピオ12世からの救援資金など、世界中から救いの手が差しのべられた。しかし、この地震は戦争の痛手から立ち直っていない日本にとって、実に大きな「自然の追いうち」であった。なお、2月23日付朝日新聞によると、元東大教授今村明恒博士が、この地震を予知する手紙を高知県室戸町宛2月13日に発信していたという。ちなみに、当時の朝日新聞は裏表2ページという貧弱なものであった。
参考文献
『昭和二万日の全記録……第7巻 廃墟からの出発 昭和20年・21年』(1989年、講談社)
1946年(昭和21年)12月21日午前4時20分、四国地方を中心として、中部地方から九州までの広範囲を、M8.1の大きな地震が襲った。いわゆる南海道地震である。
震源地は紀伊半島沖約40キロの地点。深さは20キロであった。地震の規模としては、関東大震災より大きかった。震源が海岸から離れた海底であったため、当初は、地震の規模に比較してそれほど大きな被害は出ていないと推測されていた。ところが被害は、四国、九州、近畿、中国、中部地方の一部という広い範囲に及んだ。和歌山県新宮市では市の3分の1を焼失するという地震が原因の火災が生じた。全国で死者1,330人、行方不明者102人、負傷者2,632人を数えた。さらに全壊家屋は11,591戸、半壊家屋23,487戸、船舶の流出ないし破損は2,991隻に達した。地震の直後、最も早いところでは地震発生のわずか10分後に、高さ六6メートルを超す津波が襲い、田辺市に隣接する新庄村(1954年に田辺市に編入)では死者が20人を数え、全戸数630のうち99戸が流出、338戸が全半壊、297戸が床上浸水の被害を受けた。三重、徳島、高知と広い範囲を襲った津波による被害は、全国で流出家屋1,451戸、浸水家屋33,093戸であった。この津波は、遠くハワイやカリフォルニア半島にも達した。大きな被災地のひとつである和歌山県の地震直後の状況を、朝日新聞は、次のように伝えている。
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海南市に急行した。街の中には真っ黒いどろ土がいっぱい、壁土が無残に落ちひしゃげた家も散見される。(中略)同市の繁華街東浜通りには電車のホーム がひんまがり、木片が散乱、また潮水が浅いところで四尺(約1.2メートル)余、高潮が小刻みに襲ってくる。黒江軍港付近の電車道には、十数トンの機帆船が二隻打ち上げられ、省線海南駅前道路には倒壊家屋が横たわって行く手をはば む。
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以上のような大きな被害をもたらした直接的な原因は、もちろん地震の規模が極めて大きかったことにある。しかし、戦災による物資不足のために間に合わせの建造物や、不十分な地盤基礎工事、そして救済活動を行う組織の整備がまだ不十分だったことも大きな原因だった。この災害には、在日米軍から贈られた医療品、ローマ法王ピオ12世からの救援資金など、世界中から救いの手が差しのべられた。しかし、この地震は戦争の痛手から立ち直っていない日本にとって、実に大きな「自然の追いうち」であった。なお、2月23日付朝日新聞によると、元東大教授今村明恒博士が、この地震を予知する手紙を高知県室戸町宛2月13日に発信していたという。ちなみに、当時の朝日新聞は裏表2ページという貧弱なものであった。
参考文献
『昭和二万日の全記録……第7巻 廃墟からの出発 昭和20年・21年』(1989年、講談社)