週末、小津安二郎の「秋刀魚の味」を借りてきて見ました。この作品は小津の最後の作品となったもので、昭和37年に松竹映画から公開されたようです。笠智衆が娘の岩下志摩を嫁にやるというだけの話です。昔は、笠智衆は「おれは男だ」で森田健作のおじいさん役をやっていたのが最も強く印象に残っていて、その特徴あるしゃべり方をおもしろがって物まねしたものでした。このしゃべり方は、出身の熊本弁が抜けなかったからだといわれているそうですが、小津の映画では他の俳優も感情を抑えた平坦なしゃべり方をします。このセリフの棒読みは、どうも小津が意図的に指導していたようで、俳優が必要以上に個性を出すことを嫌ってのことのようです。映画はほとんど4-5箇所の室内のセットで行われ、表面的には、モノトーナスな印象を与えます。しかも、抑揚を抑えた演技で、普通の人の普通の日常を淡々綴っているだけのように見えます。しかし逆に、喩えてみれば、平穏な海面をじっくりと見せることによって、その海面下にある人間ドラマをしみじみと浮かび上がらせている、そんなように思います。「秋刀魚の味」というタイトルにもかかわらず、(鱧は出てきましたが)秋刀魚は一切出てきません。家族が焼き秋刀魚をおかずに食事をするというようなあたりまえの光景の中は、普通の家庭の幸せなり、人間の生活といったようなものの象徴であると思います。そんな雰囲気を描き出しているこの映画には、たとえ秋刀魚は登場しないにしても、このタイトルは確かにふさわしいと思います。
小津映画が現代の劇場で公開されたとしたら、若い人はどう評価するだろう、と想像せずにはいられません。ハリウッド映画の大掛かりで、肉体的、物理的な映画を、受動的に見るのに慣れた現代人が、いったいどんな反応を示すのか、興味があります。映画でありながら、限られたセットしか使わず、決まったカメラアングルで撮影し、話はごくありふれた日常を綴っていて、俳優はセリフを棒読みしているのです。小津映画の良さが分かるには、それなりの人生の経験を経る必要があるのかも知れません。あるいは、小津のような豊かな想像力が必要でなのしょう。小津は死ぬまで母との二人暮しでした。でありながら、「娘を嫁にやる話」や落ちぶれた漢文の教師といった役どころに、本当に経験したことがなければわからないのではないかと思われるような繊細な演出がなされています。(私も娘を嫁に出したこともなければ、研究者を廃業して落ちぶれたという経験もまだないので、ここは、想像で書いています)この「秋刀魚の味」の中には、東野英治郎が演じる笠智衆の学校時代の漢文の教師が出てきます。行かず後家となってしまった娘と二人でラーメン屋をやって細々と暮らしています。東野英治郎が酒に酔って、「人間はみんな一人ぼっちで生きているのだ」と言う場面があって、私は、なんだか、小津自身の声を聞いているように思いました。「人は水を飲みたいと思ったら、自ずからの手で杯を傾けねばならない」という言葉を、鈴木大拙の本のどこかで読んだ覚えがあります。事実、人間は一人ぼっちで生きているという真実を実感することによって、人は他人を思いやる気持ちを持てるようになるのではないかと思います。東野英治郎が「娘を、つい自分のいい様に使ってしまい、嫁に出すことが出来なかった」と後悔する場面があるのですが、妻や娘を自分の一部として考えてしまい、「人は皆、一人ぼっちで生きている」という事実から眼をそらせてしまったことに老いてから悔やんでいるのです。
映画は婚礼の日に娘を送り出した笠智衆が台所の椅子に一人腰掛けて、背中を丸めるシーンで終わっています。笠智衆が、人間は一人ぼっちで生きているという事実をしみじみと噛みしめているこの場面に心を動かされない日本人はいないのではないかと思います。思えば、昭和37年当時に、この映画を娯楽として劇場に見に行ったであろう日本の人々が、この映画のように見る者の想像力を必要とする作品を楽しんでいたということに感心します。あるいは、もしこの映画を楽しむのに想像力が必要でなかったのであれば、昭和37年ごろの日本は、多分とても良い社会であったのだなと私は思います。
そして、この映画は、この極めて日本的な題材の映画を日本的といってよい手法で撮る監督が、現在においても「世界の小津」として、世界中の映画ファンに尊敬されているという事実をもって、真のグローバリゼーションとは何かということを教えてくれているように感じます。それを象徴する場面が、この映画の中で、戦争中の部下と偶然、再会した笠智衆がトリスバーで杯を傾けながら語るシーンではないかと思います。「戦争にもし勝っていたら、今頃、自分たちはきっとニューヨークにいますよ。どうして負けたのでしょうね」と聞かれて、笠智衆は、「でも、負けて良かったじゃないか」と答えます。この一見、あきらめの言葉のように見えながら、同時に「絶対的な現在の肯定」ともとれる言葉が、私は小津の精神を表現しているように思います。この精神によって、小津は日本人の共感を得ることができ、そして世界の人の共感を得たのではないかと私は思います。小津は、日本人的といわれる振る舞いや心理を、じっと深く見つめることで、日本人を越えた普遍的なものを描き出しているのだと思います。つまり、黒澤明が世界のクロサワといわれるのとは別の理由で、小津は世界の小津となったということだと思います。「荒野の七人」の例を上げるまでもなく、第二のクロサワはハリウッドにもいます。しかし、小津はその圧倒的な、天才的ユニークさ故に、他の追従を許しません。そしていわば、この小津的アプローチが、これからの日本が世界に貢献して生き残っていくための道ではないかと思います。
小津映画が現代の劇場で公開されたとしたら、若い人はどう評価するだろう、と想像せずにはいられません。ハリウッド映画の大掛かりで、肉体的、物理的な映画を、受動的に見るのに慣れた現代人が、いったいどんな反応を示すのか、興味があります。映画でありながら、限られたセットしか使わず、決まったカメラアングルで撮影し、話はごくありふれた日常を綴っていて、俳優はセリフを棒読みしているのです。小津映画の良さが分かるには、それなりの人生の経験を経る必要があるのかも知れません。あるいは、小津のような豊かな想像力が必要でなのしょう。小津は死ぬまで母との二人暮しでした。でありながら、「娘を嫁にやる話」や落ちぶれた漢文の教師といった役どころに、本当に経験したことがなければわからないのではないかと思われるような繊細な演出がなされています。(私も娘を嫁に出したこともなければ、研究者を廃業して落ちぶれたという経験もまだないので、ここは、想像で書いています)この「秋刀魚の味」の中には、東野英治郎が演じる笠智衆の学校時代の漢文の教師が出てきます。行かず後家となってしまった娘と二人でラーメン屋をやって細々と暮らしています。東野英治郎が酒に酔って、「人間はみんな一人ぼっちで生きているのだ」と言う場面があって、私は、なんだか、小津自身の声を聞いているように思いました。「人は水を飲みたいと思ったら、自ずからの手で杯を傾けねばならない」という言葉を、鈴木大拙の本のどこかで読んだ覚えがあります。事実、人間は一人ぼっちで生きているという真実を実感することによって、人は他人を思いやる気持ちを持てるようになるのではないかと思います。東野英治郎が「娘を、つい自分のいい様に使ってしまい、嫁に出すことが出来なかった」と後悔する場面があるのですが、妻や娘を自分の一部として考えてしまい、「人は皆、一人ぼっちで生きている」という事実から眼をそらせてしまったことに老いてから悔やんでいるのです。
映画は婚礼の日に娘を送り出した笠智衆が台所の椅子に一人腰掛けて、背中を丸めるシーンで終わっています。笠智衆が、人間は一人ぼっちで生きているという事実をしみじみと噛みしめているこの場面に心を動かされない日本人はいないのではないかと思います。思えば、昭和37年当時に、この映画を娯楽として劇場に見に行ったであろう日本の人々が、この映画のように見る者の想像力を必要とする作品を楽しんでいたということに感心します。あるいは、もしこの映画を楽しむのに想像力が必要でなかったのであれば、昭和37年ごろの日本は、多分とても良い社会であったのだなと私は思います。
そして、この映画は、この極めて日本的な題材の映画を日本的といってよい手法で撮る監督が、現在においても「世界の小津」として、世界中の映画ファンに尊敬されているという事実をもって、真のグローバリゼーションとは何かということを教えてくれているように感じます。それを象徴する場面が、この映画の中で、戦争中の部下と偶然、再会した笠智衆がトリスバーで杯を傾けながら語るシーンではないかと思います。「戦争にもし勝っていたら、今頃、自分たちはきっとニューヨークにいますよ。どうして負けたのでしょうね」と聞かれて、笠智衆は、「でも、負けて良かったじゃないか」と答えます。この一見、あきらめの言葉のように見えながら、同時に「絶対的な現在の肯定」ともとれる言葉が、私は小津の精神を表現しているように思います。この精神によって、小津は日本人の共感を得ることができ、そして世界の人の共感を得たのではないかと私は思います。小津は、日本人的といわれる振る舞いや心理を、じっと深く見つめることで、日本人を越えた普遍的なものを描き出しているのだと思います。つまり、黒澤明が世界のクロサワといわれるのとは別の理由で、小津は世界の小津となったということだと思います。「荒野の七人」の例を上げるまでもなく、第二のクロサワはハリウッドにもいます。しかし、小津はその圧倒的な、天才的ユニークさ故に、他の追従を許しません。そしていわば、この小津的アプローチが、これからの日本が世界に貢献して生き残っていくための道ではないかと思います。
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