「そもそも…」って話をしてて思う事で
何でもだと思うんですが
自分一人で生まれてきているとして、自分と違う他人がいるから社会も生まれ、思考も広がるし、何でも人生を創造できる、人と比べ大きく広がれる
人がいるから求めるし、与えるし、与えられるし、頼るし、比べるし、依存する
外へ広がり過ぎたり、内へ引き過ぎたりするもんですよね
物でも人でも社会でも需要と供給といった事でも調和とバランス
その「そもそもは愛」なのかなって思います
そうやって分かっているのに何故わざわざ出来事(現象)が起こるのか
それに…
なんでそもそもという事や要因や原因があるのにわざわざ出来事(現象)が起きているか…
おかしい?この表現 (^_^;)
逆さまに言えば出来事(現象)が何で起きているかというのは原因が在るから
原因や要因やそもそもというところの概念を知れば出来事(現象)は起こらずに済むんじゃないかという事です
全ての原因や要因が愛だと気づけば良いだけだと思うんです
それを知るために出来事(現象)が起こっているだと思うんです
例えば…私が気づいたことの一つですが
殺人についてです(恐ろしいですが)
人は勝手に殺人者が悪いと決めつけます、まあもちろん殺すという行為は許されません
何も初めから人は人を殺したいと思う人はいないと思うんです
キリストさんが隣人をも愛せと言った、そして愛した、不倫となってしまったが愛してしまった、ドンドン気持ちはつのり、愛しすぎた、そして自分のものにしたいという欲求が大きくなった、愛が大きくなり過ぎて、その相手を自分だけのものにしようと究極命まで奪ってしまった…。
こんな話は現実にも起こり得る事です
そもそもは愛なのに…何故いけないのか
罪は罪です、罪は償える、償う事が出来ると報われる事もある
でも愛も愛です、こんな愛もある、間違いというより歪んでいるというだけかも知れない
愛が自分に無いと思い込んでいないか?愛が足りないと思い込んでるのか?
愛は与えるものなのか、愛は与えられないと分からないのか、気づかないのか
傷ついた後なら色んな事も考え、成長もするでしょう
我見失わなければ理性も働くでしょう
これが他人事だったら理解しようとも思わないし、無関心でいると良いけれど
これが身内に起こったらどうでしょう
真剣に考えるでしょう、向き合わざるを得ないでしょう、向き合わないで逃げる人もいますが、また違うシチュエーションで、「愛」について学ぶでしょう
他人事でも愛を持って純粋な気持ちで深く理解しようと思えば、そこから得るものは大きいです
だからこそ他人にも客観的に、自分にも客観的になれると良い
大きく俯瞰できると余計に良い
大きな学びからは、大きな気づきも得ます
そうすると色んな愛の概念も知り、理解する事も出来ます
まあ殺人なんて例えは極端だし、不倫の結末がこんな事になんて…ねぇ
愛、命、罪、償い、理性、依存、悲しみ、独占欲、思いやり、自律、もっともっとこの物語にはお互いの状況も環境も意図も意味も要因も原因も含まれていると思います
そのあらゆるものを考えたりしました
その人それぞれの過去世や先祖には、そんな理由や原因も気づかずに学べずにいた人もいたかもしれないので、バトンが回って来た
私の過去世にもあったかもしれないので理解を深めたかったからこんな事を考えたのかも知れない
理解して欲しいと思う人もいたかも知れない
罪を償えていない人もいて、償いたいと思っている人がいたかも知れないし
知るだけで人は救われる、報われる
理解する事で許す事も出来るし、
私自身の中の無知の理解を広げるだけで自分が癒される
自分の中の無知を減らせるし、
人に対しての偏見を持っている自分や自分の見る眼、視点を許せる
人を許す事も出来るし、罪を許す事も出来る
なので、
色んな情報(物語)を得たとしても自分の中で精査して解決しておくと良いです
きっと自分の中に共通の要因や原因も持っているから情報として入ってくるんでしょう
理解する事が浄化にもなるんです
殺人や不倫が自分の人生の体験が無いとしても過去世にはあるかも知れない
その心を分かって欲しいと今の自分の痛みや病気に現れる事だってあります
その中に先ほど並べた隠れた心や要因も含まれるからです
大きな概念を深く理解する事は体験しなくて済む場合も出てきますし、夢で体験してしまう場合で留めておく事も…
大難が中難に、中難が小難に、小難が無難に…です
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます