緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

魂の記憶、魂の理解。

2024-08-03 | 魂・潜在意識
  輪廻転生を何度も繰り返し、今一度肉体に宿って、魂の記憶を辿りながら、魂の表現、魂の人生を送っている人間の肉体。

そんな話を続けています。
昨日にはLGBTQなどのカミングアウトの話もしましたが、
それを親や家族や友達、職場にカミングアウトするにもカミングアウトだけでは終わらないという話をしました。

そこから先が大変です。
どう受け入れられるか、どう捉えらるか、どう理解してもらえるか。
どう否定されるか、どう非難されるか。
その影響がどれだけのものか、どう広がるか、不安心配恐怖。
自分だけの問題でもなく、家族だけの問題でもなくなっていく事。

そこで忘れていけない事、それは自分自身の事。
まわりに知られる事により、性的、セクシャリティーの部分でも色々想像される。
今のネットでも起こる誹謗中傷。
全く関係のない人からも様々へ影響与える分、そこからも意見が聞こえてくると、我失ってしまう。

何が正しいとか正しくないとかだけの問題に変わってしまう場合もあるし、
一言で決めつけられたり、一括りにされたりして、
自分自身も分からなくなり、自分自身までも受け止められなくなる。
だからこそ我見失う事のないアイデンティティ、自我同一性、魂と心の一体化、自分らしさ。

みんなが考え迷う。みんながどの次元で哲学しながら答えを出していくか。
自分自身も体験しながら答えを出していく。
全てがオーケーだと。
全てが自分自身だと。
全てが自由だと、心の自由だと。

こういった事って、何もLGBTQに至っての事だけではないんです。
親や家族などと価値観が食い違う事なんてなんぼでもある。

自分の思いや考えを親に伝えたら否定されるやろうとか、
自分の心の自由を伝えると悲しむやろう寂しがるやろう、怒るだろう。

私も母親と世界観が大きく違う。
と言っても、母も基本的には愛があり優しく思いやりがあるけれど、
世界観が外に向けられてるか、内側だけか、自分と向き合っていないかでも全然違う。

私の母は、自分の世界観が全ての人だけど、反面自分を否定している。
人との付き合いを一切しない人なんで世界観も狭いし小さい。
父親がいた時は自分の感情を封印し、息子である兄にもぶつけることは無く、
今では私の長女と兄嫁だけが母に寄り添っている。
感情をぶつける相手は娘の私だけ。
でも私もある時からぶつけられると自分が傷付き悲しくて辛く、それは自分で自分を傷つけている事だと気づき、無理に母と向き合わないと決めた。
全く世界観も次元も違うので平行線です。
母の人生は客観視し分析しいろいろ理解したので、それをすべて尊重しようと決めた。

何を言ってもどんな話をしても私の話はまず却下!否定!非難!
でも却下否定非難した直後に母は後悔して自暴自棄に落ち込む。
それが態度で直ぐ分かるのです。
ある意味DV的な人と同じ。
私は何を言われても言い返せない、逆上するから!
だから受け入れ黙る。
そのだんまりになる私はそれが自分の嫌な癖になってしまったり、
「言っても無駄だ」とか、「どうせ理解できないだろう」とかの。
普通に話を聴いて普通に答えたところで意見や価値観が違うと、母は「あんたは聴くだけで良いねんと!」と怒るからです。
話が交流しない、私だけは娘で昔のまんまで自分の支配下で自分の世界観の中に閉じ込めて置いておきたいのです。

母は、重い内臓の病気は持っていないけど、三叉神経を長年患い、眼・耳・肋間と、全て神経関連が命一杯弱ってきている。
それは全て神経で、神様の道だと私は思っている。
他人と繋がり自分の成長を生きようとしないからだと。
魂を生きようとしないからだと。

今更87年間生きた人間にそんな話をしたところで理解できるわけもなく、
愛の光を送る事しかできないのです。
これが母の人生だった、我慢し続けた傲慢な身勝手な人生で、
心を守って囲っている肋間神経までももう耐えれないところまで、
痛み苦しみの中で考え悩む人生なんだとそのままを尊重している。
母は自分でも言葉にしている、「私は我慢我慢の人生だった」と。
自分で分かっているのに、本当は分かっていないのです。
それは、いつまでも「誰か」に我慢していると思い込んでいるから解放されない。
自分自身の母親に我慢していた、環境に我慢していた、旦那(私の父)に我慢していた、子供に我慢している。
遠回しにそう言っているのです。
ありがとう感謝していると言いながら我慢しているのを分かってくれという事が伝わってくる。
そして母の魂の記憶が母にどう伝えたとしても、自分に向き合ってない限り気づかない、

傷み苦しむ人生だって、娘の私に色んなことを学ばせてくれた、
肉体に鞭打ってでも無駄な人生では無かったのです、娘の私にとっては。
長年かけて私は母親と向き合いながら自分を観て、理解したからです。

今、
母親の眼科に月イチ車で送迎しているんですが、診察には兄嫁が付き合っているという不思議な感じでしょうが、それも母親にとっての考えで。

そんな時、母のマンション前に車を止めるんですが、
先日、今の酷暑に「あ~痛い痛い、肋骨が痛い」と、肋間神経痛です。
ご飯も数日食べれてないし、もう病院行きたくないというんです。

じゃあ病院お休みしたらと私は言うんですが、無理していく必要ないんじゃないかと。
そんな事良いの?薬が無くなるやん!って言うから、
そりゃ良いと思うよ、無理していくよりも。
そんなんアカンやろと言うんですよ、
もちろん昭和な考えですから真面目に決められたことを遂行したい気持ちは分かりますが、
無理してまでご飯も食べれなくてしんどくて痛くて、
そんなまで行く必要はないんじゃないかと。
自分の意見や考えは本当はどうなの?って思う。
そんな自分の意見を言うのも我慢なのです。
夏の間、薬も多い目に貰うとか、先生に相談してみれば良いやん、
一週間や二週間、薬を飲まなかっただけでそんなにすぐに良くなったり悪くなったりするもんじゃないやろと。

その言葉がもう母にしたら私は母に寄り添ってないと思って怒るんです。
あんたに言うたらそう言うと思ったわ!だからあんたに話す時は考えて話さなアカンねん、「私はあんたに話す時はいつも考えて話してるねん、考えて話さなアカンねん」と何度も言うんです。
なのをどう考えて話すんやろう。

もうそうなったら言い返す言葉も出ません。
涙も溢れてきました。そりゃ魂も泣いてる、母の魂も私の魂も。
誰だって、考えて話してるんです。

小さな狭い世界観で何をどう考えて話すんでしょうか。
正直に本音で話せない相手、親子って何なんでしょうか。

母に応えた言葉も正直な言葉です。
でももっと正直に言えば病気の本質の話だってしたいぐらいです。
理解できる訳もないって思っているのは私だけか、ぶちまけた方が良いのか?なんて思った事はこれまで何度もあります。

でも母は逆上して冷静さも崩壊してしまいます。
祖母も同じで、祖父としょうもない言い合いして逆上してそのまま脳卒中で一気に亡くなりましたから。
それを知ってて、私との最後がそんな感じになるのは避けたいし、

いつでも寄り添った言葉を伝えたところで理解できない人もいます。
うちの元旦那もそうでしたから。
いつでも許し、労わり、寄り添ってても、相手が自分の魂に向き合っていないと、その相手は自分が自分に腹が立つんです。
どうやっても怒りを受け止めるのは私。
私はそれを宇宙に流すしかない (^.^)
親にどう思われても、親にどう認められても認められなくても、それは親のアイデンティティ。
私は、私のアイデンティティを大切にする。

それでも魂の記憶と魂の理解は繰り返される仕組みなんですよね、この世は。



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