緩くスピリチュアリティな道を生きる…TAO

いつでも自分らしく…魂の感じるままに…気づいて行く…素直に表現する…そして楽しむ…

現実の中に見えない世界

2023-07-11 | 人生ドラマ
  昨日の同窓会の記事の中で、今の身近な友達のご主人の訃報を受けた話をしていました。
飲み会スタートにメンバーの不調の話もあったので、
還暦を迎えて亡くなったという話をしました。
私たちの同窓生でも既に数人亡くなっている。
私は中学の時から大親友の友達も37歳で亡くなった。

さすがに37歳で友達を失った時はショックだった。
遺影の写真が若すぎた……。
そんな頃は霊界幽界の世界も知りたて、因縁浄化だといって輪廻転生の縁を浄化したりして病気が治ったりという世界もあるんだと。
民間療法も、東洋医学も、癌さえも治るという活性酸素を除去できるというサプリなども知っていて、
情報はかなり敏感に取り入れて、
実際本当に魔法のように変化が起きた事もあった。

私はそんな頃でも情報を取り入れながらでも何故そうなるか何故治るか本質の方が気になって興味を抱きだした。

なので、37歳で友達を失って余計に考えるようにもなった。
自分のいろんな世界の情報の点と点を結んで繋げていくようにもなった。
なのに何故?という事の方が大きくなっていった。
もっと早く知ってて、彼女に伝えて何かできてたら死ななかったか?とか。

その時に思ったのは病気というのは病気だけが原因じゃないという事。
ましてや病原菌や感染病やといって、原因がはっきりしていないとなると余計です。
それをただの病気だと納得したくない世界を知ってしまったからだと思うし、
治るすべがあるのに何故なの?
みんななんでいろんな世界を知ろうとしないの?
それを伝えて切れなかった自分の後悔もあった。

そんな頃は特に、年老いたら死ぬって思い込んでて、私の祖母が64歳で亡くなっているので、それが初めての身内の死で、せめてそれぐらいの年で亡くなるんだと思ってたから37歳は余計にショックだった。

まあ後に日本人の寿命がこんなにも高齢者になるなんて思ってはいなかった。
寿命が延びたねと簡単に単純に済まされない時代です。

身近な人の死はライフスタイルも見えていたり、心理も見えていると、それも色々謎の点が繋がる材料ともなります。
決めつけはしませんが、だからこそ単純に病気で可哀そうだなとか大変だなという言葉でも済ましてあげれない。

そんなに人生は簡単じゃない。
産まれて、生きて、簡単に寿命が来て死ねるものでもないというのが解かる。

他人になんて納得できないだろうと無念を残してあの世に行く人も多いだろう。
今現在病気なったり痛みを抱えている人が他人にこの気持ちや痛みが分かるわけないと思っているのと変わらないだろう。
それなら自分が自分で納得しないと。

だから自分と向き合う時間、それを共有している夫婦や親子もその共有している事と向き合う時間が必要になるんだなと思う。
お互いが共有するという課題もあるし、愛で分かり合う教え合うという課題もあるのだと。
それが縁でもある。

今回ご主人を亡くした友達、
結婚して初めての家から一年後に今の家に引っ越ししてきて、
そのご近所で、長女を出産してからの家族ぐるみの縁です。
途中で彼女は隣町辺りに家を買って引っ越して行ったけど、
その後も縁は続いて長らく家族ぐるみ、
双方の主人は仕事が忙しいので中々会いませんが、
あちらの子供は4人、男女2人ずつで、長女が障害を持っていたりする。
なぜその長女が縁あってこの家族に来てくれたのかも傍で見ていると分かる。
私がみんなのヘア担当してた期間も長く、
みんなとよく話をしていました。
親には言えないけど私には話せた事とか、
真実かどうかは分からなくても心が垣間見えたりする。
親子関係、兄弟の絡み、それぞれの思い、
全てでなくても心が伝わるし、愛が伝わる。
パパさんの人生も見えてくる。

そうすると、人生って表面に出てる顕在化の世界だけでないんだと分かる、
そして潜在化の世界が在る事も観えてくる。

顕在化の世界しか見えていないかも知れないけど、
人の人生は奥深い、そして縁の絡みも深い事が理解できる。

そのパパさんが去年の暮れにカットしに来てくれた。
いろいろ私も頼りにしてたところもあり、もう命の期限が少ないと知って残念な思いもあって、どうしてあげれるかと……。
パパさんのカットは初めてだったけど、その時には思ったより元気そうで、
楽しく魂の会話したように感じた。
とにかく私は光になるしかないと思っているので、光るしかない。
光で全身全霊を受け取るしかない。

最後ぐらいはいじけたり卑屈になったり頑固にならないで、思いっきり正直に家族に甘えてあげてよと。
ほんで、感謝やなぁ~と。
そんな話しをしたように思う。
私もパパさんに感謝して、肉体に感謝して光に包まれるイメージを送った。
それから半年だった。

そのパパさんの人生全てが十分だった、全て良かったと祈った。

そんな風に十分納得して送り出してあげたいと思っていても葬儀でお別れする時は寂しいもんです。
家族の顔を見ると言葉もなく胸が詰まる。
涙が止まらんかった。

パパが家族に残したもの、託したものもあるやろうし、
家族が背負うもの、抱える課題、広げていく愛。
それらの表面的な顕在化の世界と見えない潜在化の世界のそれぞれ。

頑張ってねと……。
残されたものは生きなあかんし、伝えなあかん!! !(^^)!

最近の葬儀場は結婚式のときと同じく、家族誕生の時からの写真がストーリーでずっと流れている。
いろいろ演出してくれるもんですね。
他人のを見るのは思い出が蘇り良いのではと思うけど、
私も共有した時代やなと人生を共にしてたと懐かしくも感じたけど、
見て余計にしんみりさせる演出はあまり好みでは無い (>_<)
どうせすぐに消え去り忘れるのに……。

私自身の時はやっぱり葬儀も必要ないなとふと感じた。
きっぱりスッキリぱっと消えたい!!
生きてる時に交わりたい、言葉を交わしたい。

「こんな人いたな」と人の心か頭の片隅にでもちょっと残っていれば
それの方が良いなと。




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