寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

福山市の西町1丁目(東)交差点から南下する

2012年09月14日 | 郷土史
アーククラブ迎賓館(鞆鉄道株式会社のバス車庫跡地に建造)の前を通り西町1丁目(東)交差点を通過、南へ進む。約半世紀前、この交差点の近く、三之丸町にツバメ湯があった。昭和40年代といえば町内に1つは銭湯があった時代だ。福山空襲で焼失した税務署は昭和27年頃に整備された国道2号沿い(東桜町)に移転している。

三之丸町のツバメ湯と東桜町の税務署(昭和40年当時)

平成24年(2012)9月現在、ツバメ湯(三之丸町10-18西)も税務署も存在しない。どちらも跡地は駐車場となっているのだ。これが時代の流れというもの。福山市営東桜町駐車場(東桜町5-12)の場所に税務署があったことは昭和40年の市街地図を見て知った。

西町1丁目から国道2号線を望む

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ジャムのような味わいのイチジク

2012年09月13日 | 家飯
夏の終わりから初秋にかけて出回るイチジク。先月と比べると求めやすい価格になっている。今年は晴天に恵まれ糖度が高い。

イチジクに関しては特に強い思い入れがある。単に甘ければよいというものではなく、皮がきれいに剥けてなおかつ果肉がしっかりしていることが美味しいイチジクの条件だ。私は梨やぶどう以上に見栄えを重視する。

皮を剥いたイチジクを半分に割る

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福山市西町の結婚式場・アーククラブ迎賓館(鞆鉄道株式会社のバス車庫跡地)

2012年09月12日 | 郷土史
三之丸町(西)交差点から南を望む。右手の木々に囲まれた建物がアーククラブ迎賓館(西町1丁目6-28)である。今から約80年前三之丸町と西町はどんな様子だったのだろうか。昭和5年(1930)の福山市街地図をもとに現三之丸町(西)交差点辺りを拡大してみた。

昭和5年の福山市街地図より三之丸町と西町を拡大

皆さんは交差点の北東側に外堀の一部が残っていることに気付かれたと思う。宝諸歯科医院(三之丸町11‐10)やメガネ21福山駅前店(三之丸町11‐18)は外堀を埋めた跡に建っていることになる。

※補足説明

外堀の角から東へ百米のところ、古い地図に税務署とある。戦災で消失した税務署の跡は、三之丸児童公園になった。

鞆鉄三之丸駅(鞆鉄の軌道が省線福山駅構内へ延長し、もとの鞆鉄福山駅は三之丸駅と改称、昭和六年)

『福山いしぶみ散歩 / 佐野恒男(1993年5月12日発行)』

その後外堀は埋め立てられ(昭和15年の地図では堀は見当たらない)昭和20年8月8日の福山空襲で城下町は焦土と化す。昭和40年の地図からは福山の復興が見て取れる。

昭和40年の福山市街地図より三之丸町(西)交差点周辺を拡大

三之丸町・西町1丁目に旅館が点在しているし、東桜町でホテルの建設が始まったこともわかる。アーククラブ迎賓館の場所には鞆鉄道のバス車庫があった。市営三之丸駐車場(旧三之丸駅)から迎賓館(旧バス車庫)を緩やかなカーブで結び、直線を南に伸ばしたものが旧鞆鉄の路線と考えてよかろう。

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マイワシ(七つ星)を刺身にする

2012年09月12日 | 家飯
マイワシは七つ星の別名を持つ。体に黒点が七つ並んでいることに因む。脂肪を蓄え始めたイワシ(三重県産・体長16cm程度)は1匹約80円で売られていた。

胸鰭の後ろから包丁を入れて頭を落とし内蔵をかき出し水洗いする。ペーパータオルで水分をよくふき取り三枚におろす(大名おろし)。

マイワシの小骨を抜く

腹骨をすき取った後、血合い骨などの小骨を抜く(細かい仕事だが、口当たりを良くするためには絶対に必要)。皮を頭の方からゆっくりと引っ張って剥く。

銀皮を頭の方から剥く></center><br>
光沢のある身を削ぎ切りにすると美しい血合いが現れる。刺身のケンと定番の生姜醤油を用意する。脂肪分豊富な身が口の中で溶けてゆく。カタクチイワシの刺身とは対照的に濃厚な味わいである。これなら酢飯と合わせてもきっとおいしいはず。<br>
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山陽染工株式会社跡地にできた福山そごう(後編)

2012年09月11日 | 郷土史
福山ロッツ(旧福山そごう)の向かいに山陽ビル(広島県福山市三之丸町)が建っているが、その名称の通り、山陽染工株式会社と関係がある。私は鞆鉄道の関連施設の痕跡を調べる上で高度経済成長期の市街地図を参考にした。昭和40年の地図には山陽染工所有の土地が現ロッツの敷地以外に2つあったのである。

昭和40年の福山市外地図より山陽染工株式会社周辺を拡大

山陽第2ビル(※三之丸町9-16 冒頭の画像) → 山陽染工(昭和40年当時)
山陽第1ビル(※三之丸町10-18) → 資材置場(昭和40年当時)

更に山陽第2ビルと福山市営三之丸駐車場の間の黒いビル・ホテルエリアワン福山が元は鞆鉄絡みだったことも判明した。戦前の地図5枚(大正~大東亜戦争勃発前)と比較検証を行うことで鞆鉄の路線がくっきりと見えてきたのである。

ホテルエリアワン福山(※三之丸町9-12 2枚目の画像) → 私鉄中国地方労働組合鞆鉄支部(昭和40年当時)

ホテルエリアワン福山(左の黒いビル)とトヨタレンカー福山駅前店をJR高架前から撮影

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山陽染工株式会社跡地にできた福山そごう(前編)

2012年09月10日 | 郷土史
福山そごう(福山市西町1丁目1-1)が誕生したのが平成4年(1992)4月。私が大学を出たちょうど1年後にあたる。地元に初めてまともな百貨店ができたことを心から喜んだ記憶がある。地下の食品売り場や大規模な書店はよく利用したが、そごうグループの経営悪化によって平成12年(2000)12月25日に閉店した。

まわローズ(青ルート)ロッツ前バス停

福山そごうは山陽染工株式会社の跡地に建設された。まわローズ(青ルート)ロッツ前バス停近くの記念碑には会社創業の地と書いてある(平成14年3月建立)。今では掃除をする者が皆無らしく埃まみれである。

山陽染工の創業は大正14年(1925)1月7日。昭和62年(1987)に本社・工場が一文字町に移転したが、そごう開店後も土地は会社の所有であった。そごう閉店後、土地を市に寄贈することで市が建物を買い取った。福山ロッツとして新たなスタートを切ったのは平成15年(2003)4月25日である。松本卓臣会長(旧制福山誠之館中学校卒)の回想を読むと百貨店文化が根付かなかったことへの無念さがひしひしと伝わってくる。

福山ロッツ敷地内にある記念碑(山陽染工株式会社創業の地)

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福山市営三之丸駐車場(鞆鉄道・三之丸駅跡)に残る西外堀の内側石垣

2012年09月09日 | 郷土史
釣人像から更に西へ進むと左手に市営三之丸駐車場(300台収容)が見える。この南側に福山城の堀跡に関する説明板が取り付けられているのだが、意外に存在を知る人は少ない。

福山市営三之丸駐車場南側

福山城西外堀跡の石垣に関する説明


福山城西外堀跡の石垣

 福山城は、本丸・二之丸を残し、内外の堀はすべて埋められ市街地となっています。この石垣は、西外堀の石垣の一部で、城郭の縄張りを示す貴重な遺構です。
 大正二年に野上駅まで開通した鞆軽便鉄道が、翌三年四月には福山駅まで延長され現在地へ駅舎が建設されました。>
 昭和六十三年、市営立体駐車場が三之丸の現在地に建設されるに先立って発掘調査を実施しました。その結果、石垣の上半部は失われておりましたが高さ約2m程が残存しておりました。
 築城時はこの角部で、堀の深さ3m、幅は東西54m、南北96m程の規模がありました。ここに保存している石垣は、現在県立歴史博物館南の福塩線高架下に保存されている出枡型櫓台より南へ約70m延びた地点で、東へ約20m折れ曲がり、さらに南へ続く西外堀の内側石垣です。

一九九〇(平成二)年三月
福山市教育委員会

福山城の内堀と外堀の配置図

福山城西外堀内側の石垣

備後国福山城外堀の遺構の一部を柵ごしに見られること、また広島市(安芸国)とは大きく異なる独自の文化を育んできた歴史について、もっともっと多くの人に知ってもらいたい。鞆鉄道の路線跡を辿りながら福山の隠れた魅力についてボチボチ語ってゆこうと思う。

昭和11年頃の福山市街地図(旧キャスパ南側通用口横にパネルあり)より三之丸周辺を拡大

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広島県福山市三之丸町と福山城の関係

2012年09月09日 | 郷土史
三之丸という地名は福山城と大いに関係がある。『新版 福山城(付 城背地域) / 福山市文化財協会(2006年9月30日発行)』では次のように解説している。

4、三之丸

 内堀と外堀に挟まれた平地が三之丸であるが、今、その面影はない。わずかに町名にそれと知るのみである。戦災後の区画整理で地割も変わっていよいよ影を失ってしまったが、それでも古い地図と対照しながらながめてゆくとその面影は浮かんでくる。

※城郭を形成する外堀に面した三之丸は、北側を除いて城主や家老たちの居宅があった。この城郭内の門一棟が、現在、鞆の商家の建物(市重文・岡本家長屋門)として利用されている。

三之丸町はJR福山駅南口にあたり最近地下送迎場が完成しバス・タクシー乗り場が変更された。平櫛田中作の釣人像は昔から街のシンボルであり、駅前の待ち合わせ場所として利用する市民は多い。

平櫛田中作「五浦釣人像」

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呉市宝町の海上自衛隊呉史料館を見学する

2012年09月08日 | 
海上自衛隊呉史料館は「てつのくじら館」の愛称で親しまれている。平成16年まで現役だった潜水艦あきしおが展示されているのがミソで入場無料なのが嬉しい。

最も興味を引かれたのは3階の展示(艦内の生活)である。私は学生時代に約2週間の航海実習(外洋)を経験したので三段ベッド(※見学者は中段・下段で寝そべることができる)を目にした時には懐かしさのあまり目頭が熱くなった。大学の船においても形状は同じで違いは二段ベッドという点のみである。

潜水艦の3段ベット

潜水艦のトイレ

実習船の陶器製小便器の上には丸窓が設けられていて海原の様子から船の揺れが一発でわかったことなどを思い出した。流石に潜水艦のトイレはコンパクトな作りである。

潜水艦の食事のサンプル

隔離された空間の中での楽しみといえばやはり食事だ。暗い所に長くいると曜日の感覚が無くなるので金曜日にカレーを出すというのは有名である。食事サンプルはどれも美味しそうに見えた。

3階の連絡通路から呉港を望む

あきしお内では潜望鏡を覗かせてもらい記念撮影を行った。連絡通路から呉港を眺めて帰路についた。

展示用潜水艦あきしおの説明(てつのくじら館制作)

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福山市民図書館跡地の一部が広島弁護士会福山地区会館になる模様

2012年09月08日 | 郷土史
ドラッグストアZAGZAG福山三吉店の南側の更地が福山市民図書館(福山市三吉町1丁目6-1)の跡である。合同庁舎を含めた敷地にはかつて学校が建っていた。

大正11年(1922)4月1日福山師範学校が開校するが、財政難を理由に昭和7年(1932)3月末日で閉校となってしまう。そこに東霞町にあった旧制福山誠之館中学校(井伏鱒二氏が在籍した)が移転し、同年4月1日から三吉町校舎として使用された。敗戦後の学制改革で高校に昇格、昭和44年に木之庄町の新校舎に移った。

跡地には広島弁護士会福山地区会館が建つ予定

市民図書館の跡地(一部)が売却済みということは人づてに聞いていたが、建設工事はなかなか始まらなかった。先日たまたま跡地の前を通り過ぎる時に工事の標識を見て広島弁護士会福山地区会館(仮称)になることを知った。

破壊と建設の繰り返しで街が発展したのは事実だが、約半世紀に亘ってエリート養成のための高等教育機関が設置されていた歴史を消してはなるまい。今こそ戦前の教育の良かった部分について再評価を行う時期だと思う。左お捻り達が大好きなナントカのケンリを記した御札を貼り付ける行為が他県から酷評されている事実を一般市民は重く受け止めるべきだ。

福山市民図書館跡地を望む


※最後の写真…完成した広島弁護士会福山地区会館

弁護士会館

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JR呉駅南側にある人気の観光施設

2012年09月07日 | 
JR呉駅前でバスを降りた私は駆け足でゆめタウンに入った。冷房がよく効いており快適だ。2階の衣料品売り場をつき抜ける。

ゆめタウン呉の衣料品売り場


呉市海事歴史科学館(大和ミュージアム)

連絡通路から呉市海事歴史科学館を望む。通称:大和ミュージアムは引っ切り無しに人が出入りしている。ここは2度見学しているので今回はパスすることにした。

てつのくじら館

私の行く先は平成19年(2007)4月5日に開館した海上自衛隊呉史料館である。巨大な潜水艦に近づくにつれて胸の鼓動が激しくなった。

JR呉駅周辺の地図(てつのくじら館制作)

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福山今昔その6・今町の岡田書店

2012年09月07日 | 日記
アーケード商店街・本通1stの入口にある㈱岡田書店(福山市今町2-2)。創業は昭和2年(1927)で、最初の店舗は本町にあった(現在の胡町4-30辺り)。そして昭和11年頃の地図を見ると大黒町1-35付近に店を移したことがわかる。

中学生の頃、私は主に3つの書店を利用していた。今は無き延広町の辰文館、笠岡町の啓文社福山本通り本店(その後奈良津町3丁目へ移転)、そして新幹線高架そばの岡田書店である。辰文館には戦車の写真集が出るたびに見に行った。趣味の雑誌やコミックは啓文社か岡田書店で購入していた。後者の落ち着いた雰囲気は今も全く同じである。

福山市大黒町から胡町を望む

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呉市の音戸渡船口バス停から呉駅前に戻る(後編)

2012年09月06日 | 
バスは国道487号を北上し、警固屋4丁目の鍋桟橋三叉路で一旦左折する。警固屋交番横の祠は宇佐神社と関係があるようだ。

警固屋地区には鍋とか舞々尻といった珍しい地名が残っている。鍋は現在の警固屋4丁目及び的場4丁目辺りを指し、音戸の瀬戸開削の際に平清盛の警固を担当する武士に炊き出しを行ったことに因む。

呉市警固屋4丁目の交番横にある祠

鍋桟橋跡を示す石柱

鍋桟橋バス停を経由して国道487号に戻ると上り坂になる。警固屋と宮原の境が鍋峠でバスは宮原13丁目に入ってすぐに国道487号から外れ裏道を進む。宮原は傾斜地に建つ住宅街で生活する上で車は必需品と言える。故にバスは自動車免許を持たぬ老人や子供が街へ出るための重要な交通機関であることを知った。

坂を下り始める頃には車内はぎゅうぎゅう詰めで息苦しさを覚えるほどだった。宮原地区をくまなく巡った後、和庄小学校東角先交差点から左の道に入り国道185号に出た。音戸渡船口から呉駅前に到着するまでに要した時間は約35分だった。

和庄小学校下バス停付近(そてつ湯の看板)

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