10年位前に東京のお客さんを接待した時に太刀魚(タチウオ)の造りを食べてもらったことがあった。「刺身で食べられるとは知りませんでした。本当に美味しいですね」と子どものように喜んだお客さんの顔を今でもはっきりと覚えている。
太刀魚はその名の通り銀色に輝く剣のような形をした魚でどんな料理にしても旨い。大きな物は銀皮をひいて刺身にするが、小さい場合は皮付きのまま糸造りにする(皮のコリコリした食感が楽しめる)。上品な甘さを持つ身の虜になる人は非常に多い。
瀬戸内では小ぶりの太刀魚が干物に加工される。私は淡白なデベラの干物よりも適度な脂を含むこちらの方が好みである。さっと炙ったのが2切れもあれば3合の酒を楽に飲むことができる。
太刀魚はその名の通り銀色に輝く剣のような形をした魚でどんな料理にしても旨い。大きな物は銀皮をひいて刺身にするが、小さい場合は皮付きのまま糸造りにする(皮のコリコリした食感が楽しめる)。上品な甘さを持つ身の虜になる人は非常に多い。
瀬戸内では小ぶりの太刀魚が干物に加工される。私は淡白なデベラの干物よりも適度な脂を含むこちらの方が好みである。さっと炙ったのが2切れもあれば3合の酒を楽に飲むことができる。

昨日は私が暮らす地域の神社の祭りであった。神輿を積んだ軽トラが町内を回ったが初穂袋を出す者は極めて少なかった(笑)。神社と氏子の関係が寒々としてきたのには三つの原因があると思う。
まず第一に不景気による住民の節約志向。第二に住民の信仰心が薄れてきた。そして第三に神社とその関係者の存在意義を真剣に考える住民が増えてきた。私は三番目が最も深刻な問題だと思っている。神社は金を貰うことが当たり前だと思っていないだろうか。氏子との関係を今後どう維持していきたいのか明確に表明していかないと支援者はどんどん離れていくだろう。祭りの実行に関わる役員は本来奉仕作業のはずだが、自分たちの懐や口に物を入れるためにやっている者が目につく。
当初の理念を忘れ一部の人間だけが利益を貪るようになると組織は急速に弱体化・腐敗する。そこへ旨い汁を吸うためにまた似た者がやって来る、まるで臭い犬のクソに汚いハエがたかるかのように(笑)。私は年々地味になる祭りを見てモラル無き役員(※団塊の世代及びその前後5年の連中)の総入れ替えが必要だと感じた。
まず第一に不景気による住民の節約志向。第二に住民の信仰心が薄れてきた。そして第三に神社とその関係者の存在意義を真剣に考える住民が増えてきた。私は三番目が最も深刻な問題だと思っている。神社は金を貰うことが当たり前だと思っていないだろうか。氏子との関係を今後どう維持していきたいのか明確に表明していかないと支援者はどんどん離れていくだろう。祭りの実行に関わる役員は本来奉仕作業のはずだが、自分たちの懐や口に物を入れるためにやっている者が目につく。
当初の理念を忘れ一部の人間だけが利益を貪るようになると組織は急速に弱体化・腐敗する。そこへ旨い汁を吸うためにまた似た者がやって来る、まるで臭い犬のクソに汚いハエがたかるかのように(笑)。私は年々地味になる祭りを見てモラル無き役員(※団塊の世代及びその前後5年の連中)の総入れ替えが必要だと感じた。

吉野家ホールディングス(HD)は7日、傘下の牛丼チェーン「吉野家」の9月の既存店売上高(速報)が前年同月比5・9%だったと発表した。前年水準を上回るのは平成21年2月以来、19カ月ぶり。9月7日に全国発売した280円の低価格メニュー「牛鍋丼」が売り上げに貢献した。今後、牛丼大手3社で激化している200円台の牛丼販売競争で巻き返しを狙う。
330円の豚丼(並)よりは具材の多い牛鍋丼を注文したくなるのが人間(すき焼き好き)の心理ではないだろうか。ネギの斜め切りが入っていれば言うことなしだが、そこまで求めるのは酷だろう。
実際に他の客の注文を聞いたところ牛丼と牛鍋丼が人気を二分していた。景気回復が当分難しい中では各社熾烈な戦いが続くと思われる。吉野家は「今までありそうで無かったメニューを登場させる」という戦略が当たった。一つ言えることは「他社の二番煎じでは駄目」ということだ。
330円の豚丼(並)よりは具材の多い牛鍋丼を注文したくなるのが人間(すき焼き好き)の心理ではないだろうか。ネギの斜め切りが入っていれば言うことなしだが、そこまで求めるのは酷だろう。
実際に他の客の注文を聞いたところ牛丼と牛鍋丼が人気を二分していた。景気回復が当分難しい中では各社熾烈な戦いが続くと思われる。吉野家は「今までありそうで無かったメニューを登場させる」という戦略が当たった。一つ言えることは「他社の二番煎じでは駄目」ということだ。

新宮神社前のグラウンドから古江の町を望む私は苦笑を浮かべていた。偉大な神ですら欲望を抱くのだから平凡な人間はなお更性質が悪い。欲の塊の代表と言ってよい(団塊世代の)政治家の飯事に付き合わされる国民の怒りはそのうちに爆発するのではないかと密かに考えた。
愚かな彼らは息を引き取る間際にも自分たちの犯した過ちに気付かないかもしれない。死後の世界で漸く己が実は何も成し得なかったと知るのがお似合いだ。己の墓に手を合わせる者がほとんどいないのをあの世から眺めるのはさぞ空しかろう。罪にはそれ相応の罰が与えられて当然である。
「さてこれからどう回ろうか」
首を少し捻り急な石段を下り始めた。予定はほとんど未定、旅はそういう方が楽しい。あれを見てこれを見てと最初から決めておくと実に詰まらないし、感動も小さくなる。ガイドブックに書かれた史跡巡りよりもむしろ町の雰囲気や住民の気質を自分の体で感じ取ることに大きな意味があると私は思う。
愚かな彼らは息を引き取る間際にも自分たちの犯した過ちに気付かないかもしれない。死後の世界で漸く己が実は何も成し得なかったと知るのがお似合いだ。己の墓に手を合わせる者がほとんどいないのをあの世から眺めるのはさぞ空しかろう。罪にはそれ相応の罰が与えられて当然である。
「さてこれからどう回ろうか」
首を少し捻り急な石段を下り始めた。予定はほとんど未定、旅はそういう方が楽しい。あれを見てこれを見てと最初から決めておくと実に詰まらないし、感動も小さくなる。ガイドブックに書かれた史跡巡りよりもむしろ町の雰囲気や住民の気質を自分の体で感じ取ることに大きな意味があると私は思う。

黄泉神と帰還の相談をしている最中に「決して私を見ないでね」と頼んだのにもかかわらず約束を破ったイザナキに憤慨したイザナミ。イザナキが執拗な追手をかわして逃げる件は実に生々しい。男の移り気と女の憎悪(逆も多々ある)は今の世にも十分当てはまる(笑)
黄泉の国のイザナミと決別する時に生まれた二神の一つがヨモツコトサカノオ。(死者の)穢れを祓う神だが、掃除(キヨメ)という言葉との関係を考えると意味深である。
私は賽銭を入れて手を合わせた。拝殿がやけに新しいことに疑問を感じ再度新宮神社の由来に目を通した。最後の方に平成2(1990)年2月に発生した火災で正殿・幣殿・拝殿を焼失したとの記述を見つけた。現在の神社は平成3年10月に再建されたものである。
黄泉の国のイザナミと決別する時に生まれた二神の一つがヨモツコトサカノオ。(死者の)穢れを祓う神だが、掃除(キヨメ)という言葉との関係を考えると意味深である。
私は賽銭を入れて手を合わせた。拝殿がやけに新しいことに疑問を感じ再度新宮神社の由来に目を通した。最後の方に平成2(1990)年2月に発生した火災で正殿・幣殿・拝殿を焼失したとの記述を見つけた。現在の神社は平成3年10月に再建されたものである。

新宮神社の由来を見るとその歴史は古い。もとは泉津事解男命(ヨモツコトサカオノミコト)を祭る新宮大明神として延文年間に創建された。そして徳川幕府瓦解後に伊邪那美命(イザナミノミコト)も合わせて祭るようになったとのことである。更に明治40(1907)年に二社を合祀し大日霊女命(オオヒルメノミコト)、品陀和気命(ホンダワケノミコト)、須佐之男命(スサノオノミコト)が祭神に加えられた。
日本書紀に描かれる神話の世界は非常に面白い。火の神を産んだ際にホトを焼かれて病気になり亡くなったイザナミ。最愛のパートナーを失い激怒したイザナキは火の神(子)を殺し黄泉の国に向かい妻と再会を果たす。しかし、実際のイザナミが醜い姿になってしまっているのを見て逃げる。
日本書紀に描かれる神話の世界は非常に面白い。火の神を産んだ際にホトを焼かれて病気になり亡くなったイザナミ。最愛のパートナーを失い激怒したイザナキは火の神(子)を殺し黄泉の国に向かい妻と再会を果たす。しかし、実際のイザナミが醜い姿になってしまっているのを見て逃げる。
