追分道標横に設置された説明板には「西国街道さいこくかいどう 霞町の道しるべ」という表題がついている。内容を以下に記す。
元和八年(一六二二年)、福山城が築城され城下町の形成が進むと共に、城下町から地方への道も整備された。この地は、福山から尾道への旧国道と、福山から鞆への県道の分岐点として「西霞町追分おいわけ」と呼ばれ、多くの人達で賑わい「往還おうかん」とも言われた。
この道しるべは明治三十三年(一九〇〇年)六月、発起人森本六右衛門氏が井上角五郎氏の協力を得て建立。昭和二十九年(一九五四年)の道路改修工事の為、この地より旧市役所に移されたが、その後中央公園に移設された。
平成二十二年(二〇一〇年)、霞本通道路美装化を期にこの安住の地に設置し当時を思い偲ぶものとする。
霞本通商店街
説明の下に添付された昭和12年(1937)の市街地図(福山城博物館所蔵)は非常に重要である。追分道標の南西側に位置する逆U字型の川が旧芦田川の支流・鷹取川で、御丁寧に河原まで着色してある。水害対策事業として河川改修工事が行われて鷹取川は廃川となり、現在は住宅地に変わっている。鞆鉄道の路線を辿る上で旧芦田川の形状を知ることは基本中の基本だ。
昭和11年頃の市街地図で霞町の追分道標から古野上町辺りまでを拡大してみた。現在とは随分道が異なっているし、水路の一部は消えたことが分かる。
元和八年(一六二二年)、福山城が築城され城下町の形成が進むと共に、城下町から地方への道も整備された。この地は、福山から尾道への旧国道と、福山から鞆への県道の分岐点として「西霞町追分おいわけ」と呼ばれ、多くの人達で賑わい「往還おうかん」とも言われた。
この道しるべは明治三十三年(一九〇〇年)六月、発起人森本六右衛門氏が井上角五郎氏の協力を得て建立。昭和二十九年(一九五四年)の道路改修工事の為、この地より旧市役所に移されたが、その後中央公園に移設された。
平成二十二年(二〇一〇年)、霞本通道路美装化を期にこの安住の地に設置し当時を思い偲ぶものとする。
霞本通商店街
説明の下に添付された昭和12年(1937)の市街地図(福山城博物館所蔵)は非常に重要である。追分道標の南西側に位置する逆U字型の川が旧芦田川の支流・鷹取川で、御丁寧に河原まで着色してある。水害対策事業として河川改修工事が行われて鷹取川は廃川となり、現在は住宅地に変わっている。鞆鉄道の路線を辿る上で旧芦田川の形状を知ることは基本中の基本だ。
昭和11年頃の市街地図で霞町の追分道標から古野上町辺りまでを拡大してみた。現在とは随分道が異なっているし、水路の一部は消えたことが分かる。