
福山市本庄町中4丁目のアトリエマツイ前を通りJR宿舎(旧国鉄宿舎)の方へ向かう。アパートが出来る前は山十製紙株式会社福山工場(昭和8年頃の火災で全焼した)があったという(『いとしき故郷 / 鎌田一)』)。

首つなぎ地蔵(五條往還の折地蔵ではないか?)の脇を通り細い道を行く。この道はかなり昔から利用されていたものである。


JAを過ぎると福塩線の能満の4踏切が見える。JR福塩線の備後本庄駅(昭和15年開業)は踏切の北西約400mに位置している。

踏切を渡り芦田川左岸土手下の住宅地に移動する。今では家が密集しているが、昭和30年頃は一面田んぼであった。私は残り少なくなった農地の角から郵便局の方をマジマジと眺めた。

郵便局の裏手(南側)にかつて「と場」が存在したことを知る人は少なくなった。処理施設が御幸町大字中津原に移転したのは設備の老朽化が主要因で処理能力・環境問題(排水)を同時に解決する目的もあったと思われる。跡地の約半分は公園として整備され地区の住民が利用している。


首つなぎ地蔵(五條往還の折地蔵ではないか?)の脇を通り細い道を行く。この道はかなり昔から利用されていたものである。


JAを過ぎると福塩線の能満の4踏切が見える。JR福塩線の備後本庄駅(昭和15年開業)は踏切の北西約400mに位置している。

踏切を渡り芦田川左岸土手下の住宅地に移動する。今では家が密集しているが、昭和30年頃は一面田んぼであった。私は残り少なくなった農地の角から郵便局の方をマジマジと眺めた。

郵便局の裏手(南側)にかつて「と場」が存在したことを知る人は少なくなった。処理施設が御幸町大字中津原に移転したのは設備の老朽化が主要因で処理能力・環境問題(排水)を同時に解決する目的もあったと思われる。跡地の約半分は公園として整備され地区の住民が利用している。

