寮管理人の呟き

偏屈な管理人が感じたことをストレートに表現する場所です。

滋賀県彦根市城町1丁目2‐39・彦根マニアックポイントの腹痛石

2015年11月29日 | 
私は漸く忌み地巡りを完結させることができた。彦根城町郵便局から南東へ向かう途中に奇妙な石があった。場所は園田自転車商会の斜向かい、Iさん宅の塀寄り。

腹痛石

地図

暗がりで首なし地蔵のように見えたのは「腹痛石」であった。彦根見どころ散歩マップに彦根マニアックポイントとして紹介され「触るとお腹の痛くなる石。昔は巡礼の腰掛け石という名前だった。」との説明がある。

石柱

久佐の辻

本町を抜けて久左の辻まで戻って来た時には日付けが変わろうとしていた。私は宿の大浴場で凍てついた体をゆっくりと温めた。そして目を閉じて「極楽、極楽」と呟いたのだった。

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真冬の彦根城下での肝試し

2015年11月27日 | 
カメラのバッテリーを充電して傘だけ持って彦根市城町へと出掛けた。冬の肝試しというのは結構きついものがある。彦根城町郵便局に辿り着くまで何度も道に迷い往生した。郵便局の対面に彦根藩の「牢屋跡」を示す石柱が建っていた。周辺は真っ暗で大層気味が悪い。

牢屋跡

石に大きく刻まれた「長野義言 宇津木六之丞 斬首之処」の文字。水戸のテロリストによる井伊大老暗殺から2年後、ブレインだった長野主膳義言の運命は大きく変わることになった。反主流派が藩の中枢に返り咲き先の責任を長野に被せて難を乗り切ろうとしたのである。長野に続いて宇津木景福(六之丞)も粛清の対象となった。

義言地蔵尊

牢屋があった場所は湖東山善教寺の東隣である。詳しい位置は彦根城博物館のホームページにアクセスし「彦根御城下惣絵図」をクリックして調べることが可能だ。石柱の隣に祠があり城山地蔵尊と義言地蔵尊が祀られている。長野は牢屋前で首を刎ねられたとする説が一般的だが、沼波の御仕置場である可能性を指摘する研究者もいることを付け加えておく。

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滋賀県彦根市城町1丁目7‐36・湖東山善教寺

2015年11月25日 | 
コロッケは後でゆっくり食べることにして最終目的地へと歩を進めた。道路右手に真宗大谷派湖東山善教寺と刻まれた石柱が建っている。

善教寺門前

善教寺

とりあえず本堂をちらりと見て引き返した。城町1丁目は藩政時代の四十九町や下魚屋町にあたる。四十九町の通称は牢屋町だったようだが、彦根城町郵便局の前辺りに関連する史跡があると聞いてやって来たのだ。いざ写真を撮ろうという時にデジカメの電池がバッテリー切れに…。私は夜に出直すことを余儀なくされたのであった。

牢屋跡

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滋賀県彦根市城町2丁目で珍しい1灯点滅式信号機を発見

2015年11月24日 | 
長曽根町の教禅寺山門前から南東へ約200m進んだところで滋賀県道2号大津能登川長浜線と交わる。そこで私は珍しい物を見つけて驚いた。4方向1灯点滅式信号機が彦根城の近くに存在していたとは…。観光資源の一つとして地図に記載してもいいくらいだ。

地図

地図上の橙丸が信号機の位置、そして青丸が肉のアキオ(城町2丁目5‐36)である。近江鉄道・彦根口駅で下車してから歩き詰めで腹が減り、精肉店自慢のコロッケを1つ揚げてもらうことにした。

精肉店

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滋賀県彦根市長曽根町の青柳山教禅寺に分解保存されていた長曽根口御門

2015年11月23日 | 
長曽根町の白山神社から青柳山教禅寺(浄土真宗本願寺派)までは非常に近い。私は(2代目の)山門を見つめて感慨にふけった。

教禅寺本堂

初代の山門は彦根城外堀の長曽根口御門を移築したもので昭和初期まで使用された。現在の山門が完成したため昭和9年(1934)に分解され本堂の床下に保存されてきた。

当寺から少し東側にあった外堀(長曽根口)の発掘調査が3年前に行われ、元の場所に御門を復元しようという動きがあると聞いた。ぜひとも実現してほしいものだ。

伝道掲示板

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滋賀県彦根市長曽根町の白山神社

2015年11月22日 | 
乕徹(虎徹)の井戸跡のすぐ北側が白山神社である。石鳥居(※井戸から北東へ約40m)を潜ると社殿まで石畳が続いているが、参道右手に五連の朱塗り鳥居が見える。

参道

稲荷神社

社殿

社殿の脇に祀られているのは稲荷であろう。現在地に白山神社の社殿が建立されたのは明治八年(1875)ということだが、その歴史は相当前まで遡る。境内の片隅にあった記念碑の全文を書き写しておく。

白山神社
一、御祭神 菊理媛命
当社の創建年代、由緒は不詳であるが、平安末期には長曽根と云う地名が古文書にみられ、彦根の地が里根・彦根・長曽根の三根によって形成されていた時代から三根の守護神として北野寺[現北野神社]の地に白山大権現として鎮座していたが、彦根城築城の際に山頂にあった彦根寺がこの地に移され、併せ[天神さん]を勧請奉斎し、彦根寺を北野寺と改め井伊家の守護神として尊崇するようになった頃、白山権現社は取り壊されたものと考えられる。その後藩主直興により再建されたが、長曽根の大火により天満宮と共に焼失。
御祭神菊理媛の命は再建された天満宮に合祀されていたが、明治八年氏子民相計り、当時道場のあった現在地に新社殿を建立。明治十一年には、元の白山大権現社のあった北野神社の一角に社殿も建てられ、現在は御旅所としてその歴史を残している。
因みに、社霊とも云うべき神輿は、元亀二年[一五七一]信長、佐和山城攻めの折り、現甲良町池寺西明寺に神輿を移し難を逃れたと村の古書にある。
今回境内の拡張整備、石玉垣・燈籠建立を期に由緒石柱にその歴史を記すものである。
文、宮司 滝澤隆司

石碑

「次回彦根に来た時には北野神社に立ち寄ろう」と無知な旅人は心に誓い市の中心部に向かうことにした。当初の予定より1時間遅れとなってしまったが、収穫した事柄は多かった。

白山神社周辺地図

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滋賀県彦根市長曽根町と刀工・長曽禰興里の関係

2015年11月20日 | 
私は御仕置場の跡地を巡ると決まってどっと疲れが出る。今回は特に酷いように感じた。どしゃ降りの中、湖岸道路を歩くのが本当にしんどくなっていたのだ。

湖岸道路

長曽根町民会館

長曽根町北交差点の一本手前(南)で右折して大きな長曽根町民会館に着いた。「道場」の額が掲げられた建物前には小さな祠と「乕徹の井戸」があった。乕徹(虎徹)とは江戸時代の名刀工・長曽禰興里の入道名である。興里を長曽根の生まれとする説は根強い。

元々は武具(刀剣など)製造集落だったのが、太平の世に移行するにつれて治安維持に関する任務を任されるようになったと言われている。備後福山藩も城下の外れに同様の村を2つ設置して監視の目を光らせていた。

乕徹(虎徹)の井戸

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琵琶湖東岸で佇む旅人

2015年11月19日 | 
彦根市長曽根町の湖岸道路沿いに休憩スペースが設けられている。キラキラ輝く湖面とは対照的な雨天の景色。色味の乏しい琵琶湖の畔で私は一服することにした。

湖岸

休憩スペース

きれいな水と汚い水が流れ込む滋賀の広いウミ。自然の希釈能力とは凄いものである。歴史も実は同じだ。明と暗の両面があるが、得てして人は前者のみを見ようとする。しかし、暗の部分に触れることを避けていては全体像を理解することなど何時まで経ってもできやしない。

湖岸道路

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滋賀県彦根市長曽根町・滋賀大学経済学部偲聖寮と睨みの木

2015年11月18日 | 
青信号になるやいなや芹川河口に建つ滋賀大の偲聖寮へと走った。日が落ちる前に「睨みの木」を確認しておきたかったのだ。私は下芹橋北詰付近に残る大きな木に近付き目を細めた。

睨みの木

強制的にあの世に送られる罪人が最後に睨みつけたという木はネット(スレッド)では既に伐採されたとの情報(カキコ)もあるのだが、交差点からよく見える木はこれ一本だけである。

寮

寮の前から湖岸道路に出て犬を連れた初老の男性と出会った。私は見ず知らずの人に芹川の改修工事の際に人骨が多数発見された歴史を尋ねてみた。彼は10年以上も前に確かに新聞で読んだと言ったが、睨みの木については知らなかった。雨の中、気まずい雰囲気の二人を犬は不思議そうに見つめていた。

駐車場前

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滋賀県彦根市・芹川河口に架かる下芹橋

2015年11月17日 | 
長曽根南町の教禅寺長曽根墓地を出て湖岸道路(滋賀県道25号彦根近江八幡線)沿いを歩く。芹川の河口(最も下流部)に架かる下芹橋(しもせりはし)を昔は大藪橋と呼んでいたという。

下芹橋

下芹橋周辺地図

大藪町の住民からすれば今の名称はしっくりこないのかもしれない。私は橋を渡り切り長曽根町に入った。いよいよ旅もクライマックスである。信号待ちの段階で空が暗くなり始めていた。

芹川河口

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滋賀県彦根市長曽根南町・教禅寺長曽根墓地の六地蔵

2015年11月16日 | 
湖岸道路の下(=南側)に位置する教禅寺長曽根墓地。傘を差しているにもかかわらず冷たい雨が容赦なく私の顔面を濡らしていた。

記念碑

記念碑(文)


記念碑
 往古より長曽根は、彦根三根の一つで「北を塞ぎ、東南西の日の陽気を請ける地なるが故、安楽翁(やすらお)の地なり」と、心やすらぐ安楽の里であり、戸数五百戸の大村で大変繁盛していました。
 しかし、江戸時代に彦根城が築城され、その城下町を築くに当たり、現在の地に移り住むようになりました。墓地も、芹川河口北側につくられ各家のご祖先が埋葬されてきましたが、大正末期に、旧彦根町の都市化とともに廃止され、現在に至りました。
 このたび、永年の長曽根住民の念願でありました墓地を、この地に建立することになりました。
 ときあたかも平成十年(一九九八)は蓮如上人五百回遠忌にあたり、この墓地の中心碑に、上人真筆のお名号を刻み、親鸞聖人がお示し下さったお念仏のみ教えを讃仰し、更にご縁のある方々のご逝去を導きとして、報恩感謝のお念仏を、ご相続されんことを心から念願し、ここにこの碑を建立いたします。
合掌
平成十一年十一月七日

門を潜った右手にある記念碑に刻まれた文章を黙読した。彦根三根とは彦根・里根・長曽根のことである。この地に墓地が整備されたのが約15年前であることを知った。私は墓地中央に並べられた六地蔵と南無阿弥陀仏の碑に視線を移した。

石碑と六地蔵

風化具合から見て江戸期の作だろう。御仕置場にこのような石造物が建立された事例をこれまでいくつも見てきた。教禅寺長曽根墓地に関しては確認がとれていないが、大いに興味をそそられたのであった。

石碑と六地蔵(裏)

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滋賀県彦根市長曽根南町の平田川橋

2015年11月15日 | 
平田川橋の下部は青く塗られており北詰寄りにプレートが取り付けられていた。平成元年(1989)2月に橋の塗装(関西ペイントの製品を使用)を行った業者は東近江市の株式会社片山だった。川幅は芹川の3分の1(15m弱?)ほどである。

親柱

平田川が一級河川(国土交通大臣が指定)であるのは意外だった。南詰近くの墓地に辿り着いたのは全くの偶然である。池州橋を渡って城下に入る予定を何故急に変更したのか、今もってよく分からない。とにかく自分の意志とは無関係に何かに吸い寄せられるように足が動いていた感じなのだ。

墓地

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滋賀県彦根市長曽根南町の背割堤

2015年11月13日 | 
彦根市の長曽根南町は中藪町西端と接する平田川沿いの細長い集落である。新しい家が多く所謂新興団地の感が強い。みどり団地第5公園の前を通って平田川の畔に出た。

背割堤

川の北岸を北西に歩いて行くと珍しい背割堤(せわりてい)が出現する。左手の細い方が平田川、右手が芹川、そして真ん中の象の鼻のような道が堤防である。二つの川はもともとこの辺りで合流して琵琶湖東岸に注いでいたが、水位差による逆流を防ぐために間に堤防を設け合流地点を下流側に移しているのだ。

芹川

芹川が天井川であることを考えれば洪水発生時のリスクを軽減するために河口付近の河川改修工事が(何十年もかけて)行われたのは納得がいく。湖岸道路に到るには平田川に架かる平田川橋を渡る必要があった。

平田川橋

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滋賀県彦根市中藪町700‐2・西郷山龍泉寺

2015年11月12日 | 
歩き旅の楽しみは電柱のプレートを見ることも含まれる。住所表記では省かれても電柱の表示には古い地名や字が残っているケースが多い。

市営住宅

芹川南側(中藪町)の市営住宅辺りがサラシヤマ(=晒山=晒屋)と呼ばれていた証だ。中藪団地の近くに浄土真宗本願寺派・龍泉寺がある。都市計画により昭和56年(1981)に現在地に移転した。

山門

伝道掲示板

信仰心はそれほどあつくない私だが、寺の伝道掲示板を覘くのは結構好きだ。世の中には色々な考えがあることを知る貴重な機会であり、たまに感化されることもある。

本堂

本堂は中央町からの移築ではなくこちらで建てられたもの。日没の時間が刻々と迫っていた。激しい雨の中、川沿いを歩く私の足取りは重かった。

川沿いの道

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滋賀県彦根市中藪町晒山・湖東焼発祥の地

2015年11月11日 | 
中藪橋手前の遊歩道沿いに「晒庵(さらしあん)」という地域住民が気軽に集える建物がある。私はその横から芹川の土手下へ移動した。この辺りは晒山(さらしやま ※晒屋ともいう)と呼ばれる湖東焼発祥の地だ。明治期に途絶えた焼き物を復活させた中川一志郎さんをフジテレビ系列が取材していたのは確か4年前だった。

三界万霊供養塔

私は三界万霊供養塔を見て明治29年(1896)9月上旬に発生した水害の犠牲者を慰霊するために建てられたものだと予想した(実際に晒山の堤防が広範囲で決壊している)。

市営住宅

しかし、すぐに自信が揺らいだ。市営住宅「中藪団地(2・3・4棟は3階建)」の方へ歩いて行くと空き地に気になる「立入禁止」の看板が立っていたのだ。

国有地

「国有地 彦根拘置支署」の文字から「滋賀県彦根監獄」とのつながりを連想せずにはいられなかった。勿論私は跡地がどこなのかは全く知らず結局モヤモヤした思いだけが残った。

看板

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