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たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

岩手公園(盛岡城跡公園)の啄木歌碑

2011-03-09 | 啄木歌碑
盛岡駅から市内循環バス左回りに乗るとすぐです。駅から歩いて行くときは、開運橋を渡り大通りを進んで行くか、不来方橋を渡り菜園通りを進んで行くと岩手公園(盛岡城跡公園)があります。歩いて10分程です。歌碑は盛岡城(別名不来方城)の二の丸跡に、昭和30年10月、啄木生誕70年を記念して建てられました。







不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心

啄木
(一握の砂)



少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出して来て、文学書、哲学書を読み、昼寝の夢を結んだ不来方城二の丸がこの地だった。その当時盛岡中学校は内丸通りに在り、岩手公園とは200メートルと離れていなかった。この歌碑は、昭和30年10月、啄木生誕70年を記念して盛岡啄木会の協力で建てられたものである。歌碑の文字は、啄木の恩友金田一京助博士の書である。







盛岡城はかっては不来城とも呼ばれ、お城は取り壊されておりますが、残された石垣によって当時の面影が残されております。その城跡は現在岩手公園として盛岡の観光名所の一つとして、また市民の憩いの場として親しまれております。かつては、ここから岩手山を遠望することができ、盛岡市内も見おろせる風光の地であった。平成18年の開園100周年にあたり、盛岡城跡公園と愛称を名づけました。(案内板)
現在は周りに高い建物が建ち、岩手山もごく一部の場所からしか見られなくなりました。





八戸までドライブ

2011-03-07 | ぶらり旅
土曜日は快晴でしたので八戸の海を見てきました。盛岡から青森県の八戸までは200km、岩手県の宮古までは100kmですが八戸までは高速道路もあり、岩手県の浄法寺ICから八戸ICまでは無料区間ですので、料金は600円ほどでした。八戸に着き、種差海岸、蕪嶋神社、フェリーターミナルを周り八戸魚菜市場で食事をとりました。ここでは、お店で購入した魚や肉などを焼いて食べれるように炭の入った七輪を貸してくれますし、ご飯とお汁も出してくれます。車ですのでビールは飲めませんが、おいしい昼食でした。食後は三沢に行き(有料道路200円)古牧温泉青森屋でゆっくりと入浴し帰ってきました。



種差海岸



蕪嶋神社



フェリーターミナル



魚菜市場



貸出用七輪



古牧温泉青森屋




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啄木の盛岡中学時代の歌 ≪爾伎多麻(にぎたま)明治34年9月号≫

  日はおちぬ雲はちぎれぬ月はいまだ夕のそらのさながら吾は 
 
啄木盛岡中学4年・16歳、友人と回覧雑誌「爾伎多麻」を発行、「翠江」名で30首(その2)

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盛岡第一高等学校内の啄木歌碑

2011-03-06 | 啄木歌碑
啄木は明治31年4月に盛岡中学(現盛岡第一高等学校)に入学し、35年10月に退学しております。盛岡中学には当時、野村胡堂、金田一京助らが在籍しており啄木も文学に目覚めたのでしょうね。友人と回覧雑誌「爾伎多麻(にぎたま)」を発行したり、短歌グループ白羊会を結成し、「翠江」の号で「岩手日報」に「白羊会詠草」として歌を発表しています。
啄木が入学した盛岡中学は内丸から上田に移転され現在盛岡第一高等学校になっています。
啄木の歌碑は、啄木生誕120周年の記念の年にあたる平成18年に建立されました。歌碑は正門から入るとすぐ右側にあります。







盛岡の中学校の
露台の
欄干に最一度我を倚らしめ

啄木
(一握の砂)



この歌の歌碑は、盛岡中学跡地(現岩手銀行本店敷地)にもあります。懐かしい中学だったのでしょう、この歌は、東京朝日新聞(明治43年10月19日)、雑誌「スバル」(明治43年11月号)、「廣野」(明治43年11月号)、「学生」(明治44年1月号)に発表している。


盛岡一高から上田通りを横切って進むと岩手県立中央病院があり、さらに100mほど進むと国道4号線に達します。この国道4号を横切ると2009年に開通した北山トンネルに入り、トンネルを過ぎると200mほどで県営野球場に着きます。この道路をさらに進むと龍泉洞で有名な岩泉に達します。



厨川の柵

2011-03-04 | ぶらり盛岡
江南義塾盛岡高等学校内の啄木歌碑のところで、厨川柵にふれましたが、柵の場所と言われる周辺を散歩してきました。厨川の柵は安倍氏がは奥六郡(現在の盛岡から県南平泉まで)支配のため、いくつかの柵(軍事拠点)を設けました。最北端の処点である厨川柵は安倍頼時が興し、その後次男安倍貞任が拠点としましたが、前九年の役において源義家らとの決戦場となり、1062年、安倍氏の勢力はここで絶たれました。
一方、1189年源頼朝は奥州藤原氏討伐の軍を起し、平泉を攻めおとし、工藤行光に岩手郡を給した。工藤氏は厨川館(里館遺跡;天昌寺町)を拠点にしていたが、戦国時代に入り、より堅固で大きな厨川城(安倍館遺跡;安倍館町)を築いた。なお、この城は1592年に取り壊されています。工藤氏の厨川城(安倍舘遺跡)については発掘調査の結果16世紀の城跡であることは明らかになったが、安倍氏の厨川柵跡については、今のところ不明です。盛岡市教育委員会は、昭和54年、秋田に通じる国道46号沿いの天昌寺の裏側に「厨川柵」の説明板を建て、この地を厨川柵の『擬定地』と指定しています。


説明板があるこの場所は天昌寺の裏側になり、道路は国道46号です。




天昌寺の正門側



厨川柵跡を明らかにするためには、前九年の役の経過を述べている「陸奥話記」と、発掘調査に頼ることになります。陸奥話記は著者が誰なのかもわからず、勝者側のからだけ見た記録でもありますし、違っているところがあるかもしれません。また、北上川や雫石川にしても当時は蛇行して流れてたのでしょうし、発掘調査からも決め手となる "もの" は出ていないようです。以上により、厨川柵跡は現在不明となっております。

ぶらり歩いてみて、私なりに、次のように整理してみました。
安倍氏は現在の盛岡市の西側に厨川柵と嫗戸柵(うばとのさく)を設け最北端の拠点とした。この場所は北上川と古代雫石川の合流点にあり、二つの川は自然要塞となっていた。雫石川側には、里館遺跡(さたていせき)を含む天昌寺台地に「厨川柵」を、北上川側には安部館遺跡を含む安倍館町に「嫗戸柵」を設けた。(雫石川側が嫗戸柵で北上川側が厨川柵だったのかも知れません)。この二つの柵は一連の柵を構成しており、その中間の前九年町の小高い森に「敵見ケ森」を設け、安倍軍はここに櫓を組んで見張所としていた。この敵見ケ森(かたきみがもり)は現在、狐森稲荷(敵見ケ森稲荷)になっています。里舘遺跡と安倍舘遺跡の間は約 1km あり、狐森稲荷は、ほぼその中間にあたります。
安倍舘遺跡には貞任・宗任神社もあり、盛岡の人の多くは?工藤氏の厨川城跡より安倍氏の厨川柵跡と思っているようです。

        

安倍舘遺跡



貞任・宗任神社



安倍舘遺跡を北上川の対岸より撮影



敵見ケ森稲荷(狐森稲荷)




当時の厨川の範囲がどの辺までを指すのか明らかでありませんが、安倍氏時代の11世紀の城柵遺跡としては、隣村の滝沢村の八幡館山遺跡、大釜舘遺跡などがあります。





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啄木の盛岡中学時代の歌 ≪爾伎多麻(にぎたま)明治34年9月号≫

  人けふをなやみそのまゝ闇に入りぬ運命のみ手の呪はしの神  

  

啄木盛岡中学4年・16歳、友人と回覧雑誌「爾伎多麻」を発行、「翠江」名で30首(その1)

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循環器医療センター前(旧盛岡中学図書庫跡)の啄木歌碑

2011-03-01 | 啄木歌碑
岩手銀行本店に隣接して岩手医科大学附属循環器センターが建っておりますが、ここは啄木が通学していた当時の盛岡中学の図書庫跡で、「図書庫」は土蔵造りでした。大正6年盛岡中学校(現盛岡第一高等学校)は上田に移転したが「図書庫」は、この場所にそのまま保存されていた。昭和44年宮古市がこの図書庫を譲り受け、宮古市山口に移築し「寄生木記念館」として開館した。その跡地に日本赤十字病院が建てられたが、病院が移転された後の昭和62年11月にこの歌碑が建立されました。







学校の図書庫の裏の秋の草
黄なる花咲きし
今も名知らず

啄木
(一握の砂)





「寄生木記念館」
 作家・徳富蘆花の小説『寄生木』の主人公のモデルでもある小笠原善平の遺品や写真等が展示されている施設です。小笠原善平 は岩手県宮古市山口地区の出身であることから、菩提寺である宮古の慈眼寺の敷地内に旧制盛岡中学の図書庫を移設し、開館さ れました。
 なお、寄生木記念館は平成22年4月に閉館し、小笠原善平の資料は慈眼寺近くの山口公民館に陳列されております。また、現在 使用されていない図蔵庫については、「当時の様子を伝える重要な建物」として、盛岡市では移築について検討しているようで す。





小説「寄生木」
徳富健次郎(蘆花)著「寄生木」は明治42年12月に刊行されました。この「寄生木」の主人公篠原良平は、宮古山口出身の小笠原善平です。波乱に満ちた数奇な運命を書き留めて「寄生木」と題し、良平は当時最も人気の高かった小説家徳富健次郎(蘆花)に託して小説化することを頼んだのでした。良平の死後、健次郎は小説「寄生木」の執筆を決意し、序文に「正当に云えば、寄生木(やどりぎ)の著者は自分では無い。真の著者は陸中の人で篠原良平と云ふ。」と明記して出版したのです。恩人である大木将軍(実名:乃木希典)や徳富健次郎(蘆花)との交流、愛する夏子(実名:小笠原勝子)への思い、銃弾が降り注いだ日露戦争など、善平の残した数多くの遺品が小説「寄生木」の中で描写されています。(山口公民館)