盛岡駅から市内循環バス左回りに乗るとすぐです。駅から歩いて行くときは、開運橋を渡り大通りを進んで行くか、不来方橋を渡り菜園通りを進んで行くと岩手公園(盛岡城跡公園)があります。歩いて10分程です。歌碑は盛岡城(別名不来方城)の二の丸跡に、昭和30年10月、啄木生誕70年を記念して建てられました。


少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出して来て、文学書、哲学書を読み、昼寝の夢を結んだ不来方城二の丸がこの地だった。その当時盛岡中学校は内丸通りに在り、岩手公園とは200メートルと離れていなかった。この歌碑は、昭和30年10月、啄木生誕70年を記念して盛岡啄木会の協力で建てられたものである。歌碑の文字は、啄木の恩友金田一京助博士の書である。


盛岡城はかっては不来城とも呼ばれ、お城は取り壊されておりますが、残された石垣によって当時の面影が残されております。その城跡は現在岩手公園として盛岡の観光名所の一つとして、また市民の憩いの場として親しまれております。かつては、ここから岩手山を遠望することができ、盛岡市内も見おろせる風光の地であった。平成18年の開園100周年にあたり、盛岡城跡公園と愛称を名づけました。(案内板)
現在は周りに高い建物が建ち、岩手山もごく一部の場所からしか見られなくなりました。



不来方のお城の草に寝ころびて
空に吸はれし
十五の心
啄木(一握の砂)
空に吸はれし
十五の心
啄木(一握の砂)
少年時代の石川啄木が学校の窓から逃げ出して来て、文学書、哲学書を読み、昼寝の夢を結んだ不来方城二の丸がこの地だった。その当時盛岡中学校は内丸通りに在り、岩手公園とは200メートルと離れていなかった。この歌碑は、昭和30年10月、啄木生誕70年を記念して盛岡啄木会の協力で建てられたものである。歌碑の文字は、啄木の恩友金田一京助博士の書である。


盛岡城はかっては不来城とも呼ばれ、お城は取り壊されておりますが、残された石垣によって当時の面影が残されております。その城跡は現在岩手公園として盛岡の観光名所の一つとして、また市民の憩いの場として親しまれております。かつては、ここから岩手山を遠望することができ、盛岡市内も見おろせる風光の地であった。平成18年の開園100周年にあたり、盛岡城跡公園と愛称を名づけました。(案内板)
現在は周りに高い建物が建ち、岩手山もごく一部の場所からしか見られなくなりました。
