たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

稲荷山山頂の啄木歌碑

2012-02-18 | 啄木歌碑

盛岡市玉山区好摩の夜更けの森園地に啄木歌碑がありますが、すぐ裏の稲荷山山頂にも昭和35年に建立された啄木歌碑があります。夜更けの森園地の裏側に坂道があり、木の階段になっている。この山の頂上には御影石でできた歌碑があり、石碑の文字は妹光子の文字で書かれている。啄木がいた当時の好摩駅周辺は、一面原野だったようです。




夜更けの森園地の歌碑と後方の稲荷山











稲荷山山頂の啄木歌碑








霧ふかき好摩の原の
停車場の
朝の虫こそすずろなりけれ

啄木




この歌は、啄木歌ノート(明治43年8月3日―4日)にあり、東京朝日新聞(明治43年8月11日)に発表し、スバル(明治43年11月号)、一握の砂に掲載










啄木が往来のたびに親しんだ好摩駅を詠んだ歌で、昭和35年6月に地元有志の手によってこの山頂に建てられた。碑文は啄木の妹、三浦光子さんの書を刻んだものです。
当時は澁民駅はなく好摩の荒れ野にポツリと建った好摩駅が交通の関門であり駅に降りたった光景は「好摩の原の停車場」そのものの感であった。この歌は啄木の数多い思郷歌の中でも特に詩情をそそる一首である。この歌碑の建つ山頂からは、前方に姫神山そして後方には岩手山が望まれ、その眼下には好摩が原一帯を見渡すことができ、その田園を一線に走る列車は趣き深く絶景の場所である。(案内板)






稲荷山から見た姫神山



好摩駅と姫神山


夜更けの森園地から好摩駅までは歩いて10分ほどです。





夜更けの森園地の啄木歌碑

2012-01-29 | 啄木歌碑
盛岡市玉山区にある「夜更けの森園地」は、東北本線好摩駅(現銀河鉄道好摩駅)から歩いて10分ほどのところにあります。好摩駅は啄木が旅をするときに利用した駅です。この歌碑は平成4年に建立されました。









公園の木の間に
小鳥あそべるを
ながめてしばし思いけるかな

啄木



この歌は、雑誌創作(明治43年11月号)および曠野(明治43年11月号)に発表、一握の砂「手套を脱ぐ時」に掲載



好摩駅は啄木が中学まで暮らした宝徳寺、すぐ傍の啄木記念から5㎞ほどあり、啄木が列車に乗る時は好摩駅まで歩いて行ったのでしょ。



正面が好摩駅・姫神山




啄木記念館と姫神山




姫神山は、盛岡市内からも玉山区からも綺麗に見ることができますが、啄木の歌には姫神山の歌は無いようです。啄木の教え子であった秋浜三郎氏は、ある時夢枕に啄木が立ち「姫神山の歌がないので、ぜひ作ってほしい」と言われたという。そこで次の歌が生まれたといわれています。この歌碑は旧啄木記念館脇にありますが、記念館を訪れる多くの方は、啄木の歌と間違われるということです。




秋浜三郎の歌碑



さわやかな小春日和の

姫神山

薄霞していともやさしく



この歌碑は、昭和57年4月13日建立された。


好摩小学校の啄木歌碑

2012-01-17 | 啄木歌碑

盛岡市玉山区にある好摩小学校は好摩駅から歩いて10分ほどのところにある。平成2年11月、好摩小学校創立40周年を記念して、啄木庭園を造成し、啄木像と歌碑を建立しました。 歌碑の字は妹光子の書で 刻まれている。



啄木像と歌碑









霧ふかき好摩の原の
停車場の
朝の虫こそすゞろなりけれ


この歌は、雑誌スバル(明治43年11月号)に発表、一握の砂「煙二」に掲載。





好摩小学校の玄関にもこの歌が詠まれている。












好摩小学校





好摩駅前広場の啄木歌碑

2012-01-05 | 啄木歌碑

昨日4日は公務員の仕事はじめであり、多くの企業も仕事が始まり、盛岡駅も帰省客の混雑もほぼ終わり、通常の混み具合になってきました。
今回は好摩駅広場の啄木歌碑です。好摩駅は、石川啄木が東京や函館に旅立つ際に利用した駅です。啄木が最後に好摩駅を利用したのは、堀合節子と結婚したが、折悪しく父親が住職を解任され寺を追われ、盛岡での新婚生活はすぐに行詰った。啄木は家族の生活を支えるため、渋民高等小学校の代用教員になり、当初は大いに張り切ったが、ほどなく生徒を巻き込んだストライキ事件を起こし免職になってしまう。啄木は渋民を離れ北海道に旅立ち、郷里には二度と戻らなかった。この時が、啄木が好摩駅を利用した最後でした。好摩駅は、現在、盛岡から八戸までの岩手側のIGRいわて銀河鉄道と好摩から大館までのJR東日本の両社の共同使用駅になっています。
なお、好摩は、現在盛岡市玉山区好摩になっているが、啄木が生まれた頃は好摩村でした。明治22年に好摩村を含む数村が合併し巻掘村になり、その後、玉山村に編入、平成18年に玉山村は盛岡市に編入されております。






姫神山をバックにした啄木歌碑



電車の通過中





ふるさとの停車場路の
川ばたの
胡桃の下に小石拾へり

啄木



この歌は、明治43年啄木歌ノート(8月3日-4日)にあり、東京朝日新聞(明治43年8月11日)に発表、一握の砂「煙二」に掲載




正面が好摩駅・姫神山



好摩駅




明治40年5月4日、啄木はついに生まれ故郷渋民を発ち北海道へ旅立ちました。好摩駅に立った時、「この美しい故郷と永久の別れになるのではないか」と思うと、骨の底がとても寒くなるのを覚えたといいます。啄木にとっても悲喜こもごもの思いを抱いて旅立った駅でした。







玉山区「山口金蔵」さん宅の啄木歌碑

2011-12-21 | 啄木歌碑
この歌碑は、盛岡市玉山区玉山の山口さんが、自分の庭に平成元年12月に建立したそうです。盛岡市玉山区にはたくさんの啄木歌碑が建立されていますが、統合前の旧玉山村にある啄木歌碑はこれだけのようです。なお、玉山村は、旧玉山村、日戸村、渋民村、下田村、川崎村、門前寺村、好摩村等と合併し玉山村になり、現在は盛岡市玉山区になっております。山口さんのお宅はだいぶ山に入ったところで、私が訪れた時は家族の皆さんで農作業をしてました。やさしいお父さんでした。









仂けど
仂けど
我が暮し
楽にならざり
じっと手を見る

啄木歌詩より



一握の砂には「はたらけど はたらけど猶(なほ)わが生活(くらし)楽にならざり ぢっと手を見る」となっています。この歌は、啄木歌ノート(明治43年7月26日)にあり、、東京朝日新聞(明治43年8月4日)に発表、一握の砂「我を愛する歌」に掲載されている。