たかしの啄木歌碑礼賛

啄木の歌碑並びにぶらり旅等を掲載いたします

好摩駅前広場の啄木歌碑

2012-01-05 | 啄木歌碑

昨日4日は公務員の仕事はじめであり、多くの企業も仕事が始まり、盛岡駅も帰省客の混雑もほぼ終わり、通常の混み具合になってきました。
今回は好摩駅広場の啄木歌碑です。好摩駅は、石川啄木が東京や函館に旅立つ際に利用した駅です。啄木が最後に好摩駅を利用したのは、堀合節子と結婚したが、折悪しく父親が住職を解任され寺を追われ、盛岡での新婚生活はすぐに行詰った。啄木は家族の生活を支えるため、渋民高等小学校の代用教員になり、当初は大いに張り切ったが、ほどなく生徒を巻き込んだストライキ事件を起こし免職になってしまう。啄木は渋民を離れ北海道に旅立ち、郷里には二度と戻らなかった。この時が、啄木が好摩駅を利用した最後でした。好摩駅は、現在、盛岡から八戸までの岩手側のIGRいわて銀河鉄道と好摩から大館までのJR東日本の両社の共同使用駅になっています。
なお、好摩は、現在盛岡市玉山区好摩になっているが、啄木が生まれた頃は好摩村でした。明治22年に好摩村を含む数村が合併し巻掘村になり、その後、玉山村に編入、平成18年に玉山村は盛岡市に編入されております。






姫神山をバックにした啄木歌碑



電車の通過中





ふるさとの停車場路の
川ばたの
胡桃の下に小石拾へり

啄木



この歌は、明治43年啄木歌ノート(8月3日-4日)にあり、東京朝日新聞(明治43年8月11日)に発表、一握の砂「煙二」に掲載




正面が好摩駅・姫神山



好摩駅




明治40年5月4日、啄木はついに生まれ故郷渋民を発ち北海道へ旅立ちました。好摩駅に立った時、「この美しい故郷と永久の別れになるのではないか」と思うと、骨の底がとても寒くなるのを覚えたといいます。啄木にとっても悲喜こもごもの思いを抱いて旅立った駅でした。







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