一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『キャタピラー』 ……安全地帯で見ることを許さない作品……

2010年10月12日 | 映画
ひと頃、脱北者を扱った映画が話題になっていた。
見た人の誰もが感動の涙を流したという。
プロパガンダ的(監督は否定していたが)な映画は、安全地帯にいて鑑賞すると気持ちよく涙を流せるのだが、立場が入れ替わると途端に流せなくなる。
この手の映画の危うさはそこにある。
あの映画を見た人の多くが、
〈あんな国に生まれなくて良かった〉
という感想を抱いたと思うが、もし映画の舞台が終戦前の日本だったらどうだろう。
かつてのわが国には、「あんな国」とそう変わらない政治と生活があったのだ。
強制的に他国から連行された人々が、過酷な労働を強いられ、そこ(日本)から脱出するというストーリーであったならば……
反日運動が盛んだった頃には、周辺諸国でこの手のプロパガンダ映画は多く制作された。
ただ日本人の目に触れなかっただけなのだ。
政治情勢が変われば、いつまたこのような映画が制作されないとも限らない。
(いや、今もなお制作され続けているのかもしれないが……)
その時、あなたは、かの作品と同じように涙を流せるであろうか?
映像化される日本人の蛮行を正視できるだろうか?

映画『キャタピラー』。
安全地帯で見ることを許さない作品であった。
安易に涙を流すことを許さない作品であった。
監督は、若松孝二。
日本アカデミー賞以外(というのが若松監督の面目躍如たるところ)の権威ある賞をほぼ総ナメにした『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』から2年、若松孝二はまたまたとんでもない秀作をひっさげて我々の前に現れた。

【ストーリー】
一銭五厘の赤紙1枚で召集される男たち。
シゲ子の夫・久蔵も盛大に見送られ、勇ましく戦場へと出征していった。
しかしシゲ子の元に帰ってきた久蔵は、顔面が焼けただれ、四肢を失った無残な姿であった。


村中から奇異の眼を向けられながらも、多くの勲章を胸に、“生ける軍神”と祀り上げられる久蔵。
だが、親戚たちは、厄介払いのように妻・シゲ子に全ての世話を押し付ける。


四肢を失っても衰えることの無い久蔵の旺盛な食欲と、


性欲。


シゲ子は戸惑いつつも軍神の妻として自らを奮い立たせ、久蔵に尽くしていく。


四肢を失い、言葉を失ってもなお、自らを讃えた新聞記事や、勲章を誇りにしている久蔵の姿に、やがてシゲ子は空虚なものを感じ始める。


敗戦が色濃くなっていく中、久蔵の脳裏に忘れかけていた戦場での風景が蘇り始め、久蔵の中で何かが崩れ始めていく。
(ストーリーはgoo映画より引用し構成)

主演の黒川シゲ子を演じた、寺島しのぶ。
いま現在、日本の女優の中で、彼女ほどの覚悟をきめた女優は見当たらない。
その覚悟の程が半端じゃない。
この作品でも、その体当たりの演技で、見る者の度肝を抜かす。
本作で「第60回ベルリン国際映画祭最優秀女優賞」を受賞しているが、演技を見て至極当然と思われた。


シゲ子の夫・黒川健蔵を演じた大西信満。
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』で坂東國男を演じてはいるものの、それほど多くの作品には出ていない男優。
だが、本作では、四肢を失ったシゲ子の夫の役を見事に演じている。
寺島しのぶのベルリン国際映画祭の受賞は、彼の熱演もあってこそと思われた。


美しい田園の広がる静かな村で物語は進行する。
戦場の場面は、ニュース映像と、久蔵が思い出す時に出てくるフラッシュバックのみ。
それなのに、戦争の酷さ、愚かさ、悲惨さを、わずか84分という短い尺の中に、余すところなく描き尽くす。
見る者に、安全地帯にいることを許さず、傍観することも許さない。
『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』(この作品もぜひ見てほしい)と同様、
「さあ、おまえはどうなんだ」
と迫ってくる作品である。
普通の商業映画ばかり見慣れている人には、けっこうショッキングな作品だ。
だが、誰もが見ておくべき作品であると思う。

佐賀のシアター・シエマで、
10月2日(土)から10月29日(金)まで上映中。
11:00 13:30 17:30 19:20

10月1日、2日に、若松監督がシアター・シエマに来館された。
その時の模様はコチラから。

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