一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

映画『生きる LIVING』 ……カズオ・イシグロの脚本が素晴らしい傑作……

2023年04月07日 | 映画


イギリス映画『生きる LIVING』は、
黒澤明監督の名作映画『生きる』(1952年)をリメイクしたもので、
ノーベル賞作家カズオ・イシグロが脚本を手掛けている。
黒澤明監督の映画『生きる』は好きな作品であったし、
この『生きる』をカズオ・イシグロがどのように脚色しているのか興味があった。


監督は、2011年に『Beauty』(原題)でカンヌ国際映画祭のクィア・パルムを受賞したオリヴァー・ハーマナス。


主演は、ビル・ナイ。


『ラブ・アクチュアリー』(2003年)
『アバウト・タイム〜愛おしい時間について〜』(2013年)
『マイ・ブックショップ』(2017年)
など、私の好きな映画にはいつも出演しているという印象があり、
〈ビル・ナイが主演ならば、私の好きな映画の一作になるに間違いない!〉
という予感めいたものがあった。


リメイクなので、ストーリーもそれほど違わないだろうし、
あまり知りすぎても面白くないだろうと、
余計な情報をほとんど入れずに(予告編も見ずに)映画館に向かったのだった。



1953年、復興途上のロンドン。


公務員のウィリアムズ(ビル・ナイ)は、いわゆる“お堅い”英国紳士だ。


役所の市民課に勤める彼は、
部下に煙たがられながら事務処理に追われる毎日。


家では孤独を感じ、
自分の人生を空虚で無意味なものだと感じていた。


そんなある日、
彼は医者から癌であることを宣告され、余命半年であることを知る。
手遅れになる前に充実した人生を手に入れたいと考えたウィリアムズは、
仕事を放棄し、海辺のリゾート地で酒を飲んで馬鹿騒ぎするも満たされない。


ロンドンへ戻った彼はかつての部下マーガレット(エイミー・ルー・ウッド)と再会し、


バイタリティに溢れる彼女と過ごす中で、
自分の人生を見つめ直し、充実した人生を手に入れようと新しい一歩を踏み出す。
その一歩は、やがて無関心だったまわりの人々をも変えることになる……




まず驚いたのは、スクリーンに映し出された映像の狭さ。(スクリーンの半分くらいの印象)
ワイドスクリーンいっぱいに映し出される映像を見慣れている者にとっては、
これはある意味、新鮮な体験であった。
そして、オープニングクレジットと音楽のレトロ感。
なんだか、昔作られた映画を見ているような気分にさせられるのだ。


(黒澤明監督作品『生きる』はもちろんモノクロ映画なのだが)
本作『生きる LIVING』はカラー映画でありながら、
(しかも、イギリスに舞台を移しても)
黒澤明監督作品と同時代の作品の雰囲気が醸し出されて、
心を一気に持っていかれた。
東洋と西洋の違いはあれど、日本とイギリスには、
島国、立憲君主制(大統領ではなく首相、首相の他に国王がいる)、世界経済をリードしていく力を持った経済大国、左側通行、禁欲主義、慎み深さなど共通点がいくつもあり、
舞台を移しやすかったという利点があったかもしれないが、
これほど上手くリメイクできているとは思っていなかった。



無駄なシーンがひとつもなく、引き締まっていて、
103分間、スクリーンに目が釘付けであった。
(もちろん、スタイルやマナーは英国式に変換されているが)
ストーリーもオリジナルにほぼ忠実で、
それなのに(黒澤明監督作品『生きる』は上映時間143分もあるが)オリジナルよりも40分も短く、軽妙さや洒脱さも加わえられていて、感心させられた。
これはひとえに脚本を担当した(日英のルーツを持つ)カズオ・イシグロの手柄である。



カズオ・イシグロが“当て書き”したというビル・ナイの演技も素晴らしかった。


オリジナルの『生きる』の主人公は、市民課の課長、渡邊勘治(志村喬)であったが、




志村喬とは風貌も雰囲気もまったく違うのに、(ビル・ナイは笠智衆に似ている気がする)
見る者に『生きる』の主人公は「さもありなん」と思わせるものがあった。
イギリスの役所にも、仕事をするふりをしたり、陳情を「たらい回し」したりする、
所謂「お役所仕事」があるのかどうかは知らないが、(笑)
部下のマーガレットから「ミスター・ゾンビ」とあだ名を付けられ、
感情を表に出さず、死んだように生きている主人公ウィリアムズを、
ビル・ナイは、深く、静かな、抑制の利いた演技で魅せる。
〈ビル・ナイが主演ならば、私の好きな映画の一作になるに間違いない!〉
という以前から抱いていた予感は、本作で確信に変わった。
70代半ばにして代表作を更新するとは、凄い役者である。



ウィリアムズの部下マーガレットを演じたエイミー・ルー・ウッドも良かった。


黒澤明監督作品『生きる』では、小田切みき(2006年死去、享年76歳)が演じていたが、


小田切みきは、四方晴美の母親として有名で、
「チャコちゃんハーイ!」(1965年2月~1966年1月、TBS)
「チャコちゃん」(1966年2月~1967年3月、TBS)
「チャコねえちゃん」(1967年4月~1968年3月、TBS)
「チャコとケンちゃん」(1968年4月~1969年3月、TBS)
などで主演した四方晴美は、私の世代では有名な子役だったので、


小田切みきは四方晴美の母親として認識していた。(配偶者は安井昌二)


美人女優という感じではないが、個性的で魅力的な女優で、
それはエイミー・ルー・ウッドにも言えることで、


(役柄的には)知的とは言えないが、生命力に溢れていて、




生気を失っていたウィリアムズに生きる歓びを教え、


アクションを起こさせる引き金の役目を果たす。


エイミー・ルー・ウッドが演じる明るく賑やかなキャラクターが、
地味な本作に彩りを添えていたと言える。



余命半年を告げられ、迫り来る死を自覚し、自らの人生を振り返ったら、
誰もが、
その単調で退屈だった日々に、なにもしてこなかった日々に、
愕然とするだろう。

本作『生きる LIVING』を見て、
私はH・D・ソローの『森の生活』の中の言葉を思い出した。

死ぬ時に、
実は本当には
生きていなかったと
知ることがないように


同じく、茨木のり子の詩集にも次のような一節があった。

世界と別れを告げる日に
ひとは一生をふりかえって
じぶんが本当に生きた日が
あまりにすくなかったことに驚くだろう


H・D・ソローと茨木のり子は、ほぼ同じ意味のことを言っている。
人生は短く、儚い。
自分が本当に生きた日がまったくなかったとしたら……
考えただけでも恐ろしいことである。


余命宣告された場合……については、
山本文緒著『無人島のふたり―120日以上生きなくちゃ日記―』(2022年10月刊)
のレビューを書いたときにも触れたが、(コチラを参照)
自分の人生が終わりに近づいていると自覚したとき、
「死」が「生」を照らし出し、「生」を一層輝かせることがある。
「死」を前にした渡邊勘治(志村喬)とウィリアムズ(ビル・ナイ)が、
自分の人生に意味を与えるものとして発見したのは、
「誰かのために何かをすること」であった。
だが、それは人それぞれ違っていいことであろう。
自分にとって何が大切なことなのか、
本作『生きる LIVING』はそれを考えるキッカケを与えてくれるし、
見る者すべてに、生きる上でのテーマを授けてくれることだろう。

この記事についてブログを書く
« 近くの里山 ……咲き始めたフ... | トップ | 天山 ……御来光を拝んだ後に... »