一日の王

「背には嚢、手には杖。一日の王が出発する」尾崎喜八

市川崑監督作品『破戒』(1962年) ……藤村志保のデビュー作にして傑作……

2022年07月15日 | 映画


昔は名作文学がしばしば映画化されたものだが、
近年は数が少なくなっている。
島崎藤村の名作「破戒」は、
1948年に木下恵介監督、1962年に市川崑監督によって映画化されているが、
その後は久しく映画化されることはなかった。
今年(2022年)7月8日、60年ぶりに(3回目の映画化となる)『破戒』が公開された。


監督は前田和男で、主演は間宮祥太朗。
私の好きな石井杏奈もお志保役で出演していると知り、
〈見たい!〉
と思った。
で、見に行く前に、予習として市川崑監督作品の『破戒』(1962年4月6日公開)を見た。
「傑作」であった。
そこで、
〈忘れないうちに市川崑監督作品の方のレビューを先に書いておこう……〉
と思った。
脚本は、市川崑監督の配偶者でもあった和田夏十。
撮影は宮川一夫。
音楽は芥川也寸志。
主演は市川雷蔵で、
ヒロインとも言うべき“お志保”の役は藤村志保。
その他、
長門裕之、船越英二、三國連太郎、中村鴈治郎、岸田今日子、宮口精二、加藤嘉、杉村春子
など豪華な顔ぶれが共演者として名を連ねている。



天の知らせで、10年ぶりで父に会おうと、
信州烏帽子嶽山麓の番小屋にかけつけた、飯山の小学校教員・瀬川丑松(市川雷蔵)は、
ついに父の死に目に会えなかった。


丑松は父の遺体に、
「阿爺さん丑松は誓います。隠せという戒めを決して破りません、たとえ如何なる目をみようと、如何なる人に邂逅おうと、決して身の素性をうちあけません」
と呻くように言った。


下宿の鷹匠館に帰った丑松を慰めに来たのは、同僚の土屋銀之助(長門裕之)であった。
だが、彼すら被差別部落民を蔑視するのを知った丑松は淋しかった。


丑松は下宿を蓮華寺に変えた。
士族あがりの教員・風間敬之進(船越英二)の娘・お志保(藤村志保)が、
住職の養女となって寺にいたが、


好色な住職(中村鴈治郎)は彼女を狙っていた。




「部落民解放」を叫ぶ猪子蓮太郎(三國連太郎)に敬事する丑松であったが、


猪子から、
「君も一生卑怯者で通すつもりか」
と問いつめられるや、


「私は部落民でない」
と言いきるのだった。


飯山の町会議員・高柳(潮万太郎)から、
「自分の妻が被差別部落民だし、お互いに協力しよう」
と申しこまれても、丑松はひたすらに身分を隠し通した。


だが、丑松が被差別部落民であるとの噂がどこからともなく流れた。
校長(宮口精二)の耳にも入ったが、銀之助はそれを強く否定した。


校長から退職を迫られ、酒に酔いしれる敬之進は、
介抱する丑松に、
「お志保を嫁に貰ってくれ」
と頼むのだった。


町会議員の応援演説に飯山に来た猪子は、高柳派の壮漢の凶刃に倒れた。


師ともいうべき猪子の変り果てた姿に丑松の心は決まった。
丑松は「進退伺」を校長に提出し、
生徒の前で、「自分は被差別部落民である」と告白する。


そして、丑松は職を追われた。
骨を抱いて帰る猪子の妻(岸田今日子)と共に、
丑松は降りしきる雪の中を東京に向った。


これを見送る生徒たち。


その後に涙にぬれたお志保の顔があった……




原作である島崎藤村「破戒」の被差別部落問題の取り上げ方には様々な問題があり、
抗議を受けて絶版になったり、差別語を書き換えたりと、
「文学と差別」をめぐって紆余曲折を経た作品で、(詳しい経緯は新潮文庫の解説を参照)
市川崑監督版『破戒』でも、
丑松が教え子たちに土下座して謝罪するシーンには、
(原作にそう書いてあるとしても)多少違和感があった。




本当は謝罪する必要もないのだが、
(時代背景を考慮したとしても)土下座までする必要はなかったのではないか……
と思ってしまう。


ただ、こういった問題は多々あるものの、
島崎藤村の小説の文学的価値は失われることはないし、
市川崑監督作品『破戒』の映画的価値も失われることはない。

映画化にあたり市川崑監督は、


差別をするなと訴えるだけじゃなくて、自分たちがもっと自信を持てばいいじゃないか、ただ悲しむだけじゃなくて、もっと強くなれ、そしたらいつか同じ立場になる。

主人公……丑松自身にひそむ人間的な弱さをきびしく一般化して、今日的課題に発展させようと思う。これは青春の魂のさすらい物語である。

と語っていたそうだが、
市川崑監督作品『破戒』は、
原作を厳しい目で捉え直し、
島崎藤村の原作が書かれた当時(1905年)よりも、
(57年後の1962年の)現代的な視点で再構成しており、
むしろそういった部分を私は評価したいと思った。

例えば、冒頭シーン。


黒く大きな種牛が捕らえられようとして、必死にもがき、
その牛から発散される怒り、おびえ、哀しみが見る者に迫ってくる。
自分の身上を隠さざるをえない人々が負わされる苦悩が、実に巧く表現されている。


そして、突進してきたこの牛の角によって、丑松の父(浜村純)は死ぬ。
ハラハラさせられるし、ドキドキもさせられる。
いかにも市川崑らしい映像なのであるが、
この冒頭シーンで、父の“戒め”が後に破られことを予感させる。


本作『破戒』は、
大映の時代劇スターであった市川雷蔵の、
『炎上』(吃音の青年役)、『ぼんち』(女遍歴を重ねる息子役)に続く、
市川崑監督作品における3回目の主演作品であったが、
被差別部落出身の青年という難しい役を、
市川雷蔵は前2作に勝るとも劣らない演技でやりきっている。
市川雷蔵のファンならずとも、見逃せない作品となっている。



本作は、雷蔵の推薦で起用された藤村志保のデビュー作でもあり、


芸名の「藤村志保」は、原作の島崎藤村と、演じた役の“お志保”から取られている。




このお志保を演じる藤村志保が、とにかく可憐で美しい。


本作の演技によって、
ホワイト・ブロンズ賞助演女優賞、
日本映画プロデューサー協会新人賞などを受賞。
以降、大映のスターとして活躍し、


後にTVドラマにも進出。
1965年、『太閤記』のねね役を演じたのをきっかけに大河ドラマ7本に出演。








『風林火山』での演技が認められ、第59回NHK放送文化賞を受賞している。


映画では、私の故郷である長崎県の佐世保や平戸でロケされた、
『男はつらいよ』シリーズの20作目『男はつらいよ 寅次郎頑張れ!』が忘れ難い。


この映画のマドンナであり、


島田良介(中村雅俊)の姉で、長崎県平戸でお土産物屋兼貸自転車の店「おたち」を営む島田藤子の役であったのだが、平戸の美しい風景にマッチした素敵な役であった。



藤村志保に負けず劣らず美しかったのが、
猪子蓮太郎(三國連太郎)の妻を演じた岸田今日子。


この映画の撮影時は、30歳前後の女盛りの頃。
〈丑松は(岸田今日子演じる)猪子蓮太郎の妻に惚れてしまうのではないか……〉
と心配してしまうほどに魅力的だった。



本作の音楽を担当したのは芥川也寸志なのだが、
音楽が流れてきた瞬間、私は映画『砂の器』(1974年)の音楽を思い出していた。
調べてみると、芥川也寸志は『砂の器』の音楽監督もしており、(作曲は菅野光亮)
『砂の器』と似たシーンもあり、


被差別部落、ハンセン氏病の違いはあるものの、
差別される者の苦悩を描いている点では共通しており、
同じ思いが音楽にも込められているのではないかと思った。



部落差別(同和問題)だけではなく、
現代では、
男女差別、
ジェンダーへの偏見、差別
子どもに対してのいじめ、体罰、児童虐待、性的搾取、
高齢者に対しての職業差別、介護施設や家庭内での身体的虐待や心理的虐待、
障害者に対しての職業差別、職場での差別待遇、乗車拒否、入居拒否、サービス拒否、
HIV感染者、ハンセン病患者に対しての様々な場所での差別、プライバシーの侵害、
刑期を終えた人に対する偏見や差別、就職の差別、入居拒否、
ホームレスに対する嫌がらせ、暴行事件、
特定の国籍の人などに対する差別的な言動、ヘイトスピーチなど、
偏見や差別が多様化、複雑化する中、
ネット上でも、差別的な言動、全人格を否定するような言葉が飛び交い、
自殺者を出すほどまでに深刻化している。

島崎藤村と同時期に小説を書き始めた夏目漱石は、
弟子宛ての書簡で、「破戒」のことを、
「明治の小説として後世に伝ふべき名篇也……明治の代に小説らしき小説が出たとすれば破戒ならんと思ふ」
と称賛したと言う。
明治時代の名作であるが、
テーマはいささかも古びてはおらず、
『破戒』は、このような現代だからこそ、
読まれる文学であり、見るべき映画だと思われる。


この記事についてブログを書く
« 『山口瞳 男の作法 面白可笑... | トップ | 天山 ……マツムシソウ、シギ... »