たとえば、「笛吹き」と題された絵をみてみよう。
若い笛吹きが奏でる調べに合わせて化石の断片が地上から舞い上がり、後景の塔の壁材として飛翔していく光景。それとも、塔から一枚一枚はぎ取られ、音色に誘われて笛吹きの足元に舞い降りる、とまったく反対の印象も与える不思議な絵だ。笛吹きも朽ちたまま立ち涸れた森から抜け出てきた、不可思議な存在だ。
「ハーモニー」と題された絵。厚い壁で囲まれた青白い部屋で、独り悄然と机上に浮かぶ五線譜に昆虫やら葉などを刺し通し旋律を紡ぐ青年を描く。前後の壁に染みのような女の虚像が描かれ、その女の手は五線譜に延び、青年に啓示を与えているような、それと引き替えに青年の精気を奪っているような……青年の頬は痩け、死相さえ漂っている。
幻視の女流画家である。
生まれは1908年、スペインはカタルニアの小さな町、その名もアンヘル、「天使の町」である。両親はバスク人であった。生後、暫くして両親とともに北アフリカのモロッコに移り、7歳でマドリッドの学校に入学するまで生活する。幼少期のアフリカ体験が描かれているわけではないが、レメディオスの絵が徹底的に無国籍を志向している事情と何処かで通底するものがあるように思う。
レメディオスの代表作をもう一点、紹介しておこう。「太陽の音楽」。草が生えた毛布のようなものを裸体に纏った若い女。たぶん、ミューズ。そして、顔はたぶん自画像。化石の森のような褐色の地に射し込んで来る光の束を大きな弦楽器と見立て、その光の束から自在に音色を弾きだす。光輪となって地上に浸透する小さな円のなかだけ、花々が繁る。 そうレメディオスは繰り返し「音楽」を象徴化している。その「音楽」は無論、交響楽ではありえず、独奏曲、しかも自己慰安のための旋律に満ちたものだ。私生活を反映、象徴するものでもあろう。さまざまな解釈が成り立つが、それは余りにも極私的であって、批評を頑なに拒んでいるように思う。レメディオスが描く自画像はそんなふうに表象される。
グリムやアンデルセン、あるいはウォルト・ディズニーのアニメに登場してくるようなメルヘン的な楽しさと薄気味の悪さが同居、というより錯綜する。独特のユーモアと、毒気の含んだ風刺性。ネーデルランドのボッシュの影響もあれば、シュールレアリストのエルンストの陰もみられる。童画そのものとしか思えない絵もある。童話には、よく残忍さが隠されているというが、その二律離反するものがレメディオスのなかに共存する。
作品はいずれもが細心の筆使いで丹念に描かれている。衝動はなく、緻密に計算された絵なのだ。薄く溶かした絵の具を幾度も塗り重ねて微妙な肌触りを作っている。その意味ではレメディオスとほぼ同世代の画家フリーダ・カーロとは対極的な位置にある。フリーダの絵は、幾ら非日常の世界を描いても、そこには地上に根を下ろした生身の女の熱き体温が感じられるものだが、レメディオスの絵にはひんやりとした人工的な冷気がこぼれ落ちそうな気配しかない。この怜悧さはどこかから来るのか?
レメディオスは1942年以来、メキシコに定住することになる。その2年前に、彼女の作品はシュールレアリスト絵画展の出品作としてメキシコ市に渡り、二度目の夫シュールレアリストの詩人ベンジャミン・ペレと新生活を開始する。その42年には、メキシコ文部省が「絵画彫刻学校」を設立し、夫ペレはここの教授に迎え入れられた。同僚にはディエゴ・リベラやその妻フリーダがいた。
レメディオスは絵を生活の足しにするために売る必要はなかった。だから、心ゆくまで絵を愛撫していられたし、幻想に浸ってもいられた。彼女の代表作はもとより大半の作品がメキシコで描かれ、故にカタルニアではなくメキシコの画家として認知されているが、この地のコントラストの激しい光と陰に育まれはしなかった。明度はせいぜい絵筆の先を照らすものがあれば良かった。
レメディオスの本格的な展覧会は1982年のことである。それまで、ほんの少数の者しかその潤沢な個性的な美の世界を知らなかった。幻視を紡いだ画家の日常とはどのようなものであったのか? 画家は多くを語っていない。1963年、55歳で死去。早すぎる死だと思う。
現在、レメディオスの主要作品はメキシコ近代美術館に収蔵されている。因みに、同美術館にはフリーダの代表作、リベラ、シケイロス、オロスコなど壁画運動を担った巨匠たちの代表的なタブローが常設展示されている。その一角に、昨秋からレメィデオスに捧げられたコーナーが設けられた。
「私は語りたくない。作品こそが重要だ」とはレメディオスの生前の弁。しかし、その幻想に魅せられた者は、その意味性を自己流に解釈したくなるものだ。そうした作業を通じて、孤高の画家も否応なく美術史に定着させられてゆく。
● レメディオス・バロの「笛吹き」 |
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