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自然災害 仕組みとアプローチ -  桶狭間の戦い 当時の兵力比についての疑問

2017-02-09 21:21:30 | 地震 津波
 信長公記に記されている織田軍(2000足らず)と今川軍(45000)と言う兵力についての記述にに関して、疑問を持つ人は多いようです。
 筆者も同感で織田軍はもっと多かったし、今川軍はもっと少なかったと考えています。
 では実際にどの位だったのか?
 よく裏付けとして用いられるのは当時の石高です。
 桶狭間の戦いの1560年から38年も後の資料になりますが、太閤検地の資料が通常参考にされているようです。
 この資料では桶狭間の戦いの戦いの前年に尾張統一した信長の織田氏について、石高を約57.2万石、今川氏の駿河、遠江、今川方の松平氏の三河、それに三国同盟を結んでいた後北条氏や武田氏の脅威はなった為、通常残しておく兵力の相当石高7万石として、合わせてですが、これは約76.6万石。
 これだけ見るとあまり変らない位の石高のように見えて来て、もしかしたら信長の兵力は今川方に近かったのではないか?と思えてしまうかも知れません。
 しかしこれについて筆者は次のように見ています。
 まず尾張の石高ですが、太閤検地の時の尾張の所領は知多半島やそのやや北、北西部も含んでいます。
 しかしこのエリアの領主は水野信元であり、信長の織田氏方になってはいますが、やや中立的で、親族の部隊は陥落しなかった丸根砦・鷲津砦以外の砦を守備していたとか、戦闘に参加はしたとかはあるようですが、水野信元の名前で直属部隊を桶狭間の戦いに参加させていたと言う資料は見つけられていません。
 なのでこの分である約2000~4000程兵力を差引いて、も良いかも知れませんが、織田軍の勝利がほぼ確実になった時点では戦闘に直接参加したという可能性は有るかもしれないとは思います。(匿名参加で)
 それともう一つ、信長の織田氏ですが、当時は美濃の斎藤義龍と紛争状態だった事も忘れてはいけません。
 「斉藤道三は信長の正室 濃姫の父だから美濃と尾張は同盟関係だったのでは?」とつい思えてしまうのですが、斉藤道三の長男、斎藤義龍は道三とは仲が悪く、1556年に長良川の戦いで父である斉藤道三を討ち、美濃の領主となっていたのでした。
 その後は信長の尾張とは交戦するようになっていた為、信長は1560年の桶狭間の戦いでは、美濃の斉藤氏からの攻撃も想定していなければならなかったはずです。
 このような状況では織田氏の総兵力の1/3は美濃からの守備に配分しなければならなかったと思われますが、もしかすると表向きはこのように配分しておくように見せながら、実は4/5程度は桶狭間の戦いに配分していた可能性も有ったかも知れません。
 これに比べて今川氏は当時、後北条氏と武田氏とで三国同盟を結んでいた為、後方や本拠地に兵を置く必要が殆ど無かったと筆者は見ています。なので尾張まで遠征したのも頷けます。
 大体、筆者はこのように見ていますので、仮に今川氏が松平氏(後の徳川家康の部隊)を含めて20000とした場合、単純に石高なら織田軍は、2万の57.2/76.6ですから、約14900。
 それから水野氏の2000~4000を差引くと10900~12900。
 更にその2/3であるなら約7260~8600。
 仮に3/4であったなら約8170~9670。
 これならば今川義元本陣が仮に約5000程度しかなかったならば織田方が勝てると思われるし、仮に今川方の周囲の兵力が1万近くいたとしても乱取りで分散していたり、水田が泥で集結出来なかったり、或いは武具を外していたりや兵器から離れていた場合等々、織田軍の急襲を想定していない態勢だったならば織田軍は勝てたかも知れません。
 ただ以前に記事でも書きましたが、仮に戦闘が長引いた場合は大高城の松平(後の徳川家康)の援軍が来るのは可能で有り、今川氏真の残存兵力も結集すれば或いはかなり接近した兵力になったとは思います。
 そしてこうして分析していて思ったのですが、今川氏か松平氏が美濃の斉藤義龍に早馬などで援軍要請すれば、ほぼ間違い無く信長の織田軍は今川氏と松平氏と斉藤氏挟み討ちになったのではないでしょうか。
 太閤検地の資料では美濃の石高が54万石となっています。美濃の斉藤氏は兵力の点でも、実践の戦闘能力の面でも半端なものでは有りません。
 やはり信長は強風雨や梅雨に救われた面は有るのだと思います。
 
 


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