同僚の話に惹かれて、初めてやってきた芸州広島。
高速バスで一足先に着いていた同僚とホテルで待ち合わせ、大きな荷だけを預け、まずは最初、世界遺産に認定された、嚴島神社(総本社/宮島)へと向かいました。
広島と嚴島神社(宮島)を結ぶ経路は2つ。
JRと広電です、先入りしていた同僚がJRの券売機で列車とフェリーのセット券を見付けていたので、JRで。
のんびりと広電に揺られて行くのもよかったんですが・・・所要時間も考慮してJRにしました。
広島駅を10時30分に出る山陽本線岩国行きの普通電車に乗って宮島口まで(10時50分着)。
駅から東へ200mほど離れたところにあるフェリー乗り場からフェリーに乗って、厳島神社が鎮座します対岸の宮島へ渡ります。

列車とフェリーを乗り継ぎ、フェリーとの接続時間待ちを含めるとおよそ50分。

船(フェリー)など滅多に乗りませんから、時間は適当だと感じました。

JRのフェリーは、大鳥居に接近する航路であることを売りにしています。

お国の力は偉大ですね...
広電が気の毒に思います(苦笑)

対岸の宮島口からフェリーに乗ること10分ほどで宮島に着きます。

ここから真っ直ぐ嚴島神社へ向かえばいいんですが、それでは勿体ないので(笑)
大きく迂回をして、宮島を散策しながら総本社へと向かいました。
フェリー乗り場(桟橋)前に在った案内図と、我が街の図書館で借りたガイドブックを手に、情緒ある路地を進みながらまず向かったのは、桟橋から目と鼻の先にある要害山の宮尾城です。

この城は、安芸の毛利元就が、大寧寺の変(曹洞宗瑞雲萬歳山大寧護国禅寺/長門深川湯本)で主君の大内義隆卿とその与党を討った陶隆房(周防守護代)を是とせず、倒すべく築かれた城。
弘治元年長月9月。
2万余の大軍を率いて上陸した陶勢は、宮尾城から400m南に在る五重塔近くに本陣を構えて宮尾城を攻め立てたが、攻め口が狭隘で落とせず、そのうちに毛利勢が陶勢の背後から急襲。
この時、宮尾城の軍勢も加勢し、挟撃された陶勢は大混乱に陥って総崩れとなり、敗走。
総大将の尾張守晴賢(隆房改め)は討死し、子息を含む与党の多くも討たれ、毛利元就の中国地方制覇に大きな一歩となりました。
その後、この城がどうなったかは不明のようですが、所詮は陶勢を討つためだけに築かれた急ごしらえの砦のような城だったのかもしれません。
宮島には、宮尾城の他にも、多宝塔近く勝山城なる城もあります。
これは、大内義興卿(大内家第30代目当主/兵部卿義隆の父)が宮島に渡った折に築いた城(大永4年)とかで、厳島合戦時、陶勢が最初に本陣を構えたところで、宮尾城址からその方向がよく見えます。

戦国の世の、栄枯盛衰を分けた舞台を後にし、再び情緒ある宮島の街中へ。

意外にも由緒あるお寺さんが多くあり、仕事柄、同僚と共に気にしながら次に向かったのが、宮尾城を攻め取るために陶勢が本陣を敷いた塔の岡の五重塔。

そして、そのすぐ近くに在る千畳閣です。

これは、豊臣秀吉が安国寺恵瓊に建立を命じた大経堂で、天正15年から造営が始まりましたが、秀吉の死去でこれが中断。
それが再開されることなく未完成のまま。
明治維新後の神仏分離令によって仏像は移され、いまは嚴島社末社の豊国神社として、秀吉と加藤清正公を祀っています。
とても広いここは、江戸期には嚴島社へ参詣に来た人の休息場にもなっていたようですが、暑い陽射しの中、ここはとても涼しくて心地がよかったです。
秀吉が建立した寺社にしては、随分と質素・・・かと思いきや、屋根瓦には金箔が施されていました。
さすがです...。
フェリー桟橋から大きく迂回して、いよいよ!
この下に鎮座します嚴島神社総本社へと向かいました。

※画像はリンク付サムネイル方式なので、クリックすると別ウィンドウで大きく表示されます。
高速バスで一足先に着いていた同僚とホテルで待ち合わせ、大きな荷だけを預け、まずは最初、世界遺産に認定された、嚴島神社(総本社/宮島)へと向かいました。
広島と嚴島神社(宮島)を結ぶ経路は2つ。
JRと広電です、先入りしていた同僚がJRの券売機で列車とフェリーのセット券を見付けていたので、JRで。
のんびりと広電に揺られて行くのもよかったんですが・・・所要時間も考慮してJRにしました。
広島駅を10時30分に出る山陽本線岩国行きの普通電車に乗って宮島口まで(10時50分着)。
駅から東へ200mほど離れたところにあるフェリー乗り場からフェリーに乗って、厳島神社が鎮座します対岸の宮島へ渡ります。

列車とフェリーを乗り継ぎ、フェリーとの接続時間待ちを含めるとおよそ50分。

船(フェリー)など滅多に乗りませんから、時間は適当だと感じました。

JRのフェリーは、大鳥居に接近する航路であることを売りにしています。

お国の力は偉大ですね...
広電が気の毒に思います(苦笑)

対岸の宮島口からフェリーに乗ること10分ほどで宮島に着きます。

ここから真っ直ぐ嚴島神社へ向かえばいいんですが、それでは勿体ないので(笑)
大きく迂回をして、宮島を散策しながら総本社へと向かいました。
フェリー乗り場(桟橋)前に在った案内図と、我が街の図書館で借りたガイドブックを手に、情緒ある路地を進みながらまず向かったのは、桟橋から目と鼻の先にある要害山の宮尾城です。

この城は、安芸の毛利元就が、大寧寺の変(曹洞宗瑞雲萬歳山大寧護国禅寺/長門深川湯本)で主君の大内義隆卿とその与党を討った陶隆房(周防守護代)を是とせず、倒すべく築かれた城。
弘治元年長月9月。
2万余の大軍を率いて上陸した陶勢は、宮尾城から400m南に在る五重塔近くに本陣を構えて宮尾城を攻め立てたが、攻め口が狭隘で落とせず、そのうちに毛利勢が陶勢の背後から急襲。
この時、宮尾城の軍勢も加勢し、挟撃された陶勢は大混乱に陥って総崩れとなり、敗走。
総大将の尾張守晴賢(隆房改め)は討死し、子息を含む与党の多くも討たれ、毛利元就の中国地方制覇に大きな一歩となりました。
その後、この城がどうなったかは不明のようですが、所詮は陶勢を討つためだけに築かれた急ごしらえの砦のような城だったのかもしれません。
宮島には、宮尾城の他にも、多宝塔近く勝山城なる城もあります。
これは、大内義興卿(大内家第30代目当主/兵部卿義隆の父)が宮島に渡った折に築いた城(大永4年)とかで、厳島合戦時、陶勢が最初に本陣を構えたところで、宮尾城址からその方向がよく見えます。

戦国の世の、栄枯盛衰を分けた舞台を後にし、再び情緒ある宮島の街中へ。

意外にも由緒あるお寺さんが多くあり、仕事柄、同僚と共に気にしながら次に向かったのが、宮尾城を攻め取るために陶勢が本陣を敷いた塔の岡の五重塔。

そして、そのすぐ近くに在る千畳閣です。

これは、豊臣秀吉が安国寺恵瓊に建立を命じた大経堂で、天正15年から造営が始まりましたが、秀吉の死去でこれが中断。
それが再開されることなく未完成のまま。
明治維新後の神仏分離令によって仏像は移され、いまは嚴島社末社の豊国神社として、秀吉と加藤清正公を祀っています。
とても広いここは、江戸期には嚴島社へ参詣に来た人の休息場にもなっていたようですが、暑い陽射しの中、ここはとても涼しくて心地がよかったです。
秀吉が建立した寺社にしては、随分と質素・・・かと思いきや、屋根瓦には金箔が施されていました。
さすがです...。
フェリー桟橋から大きく迂回して、いよいよ!
この下に鎮座します嚴島神社総本社へと向かいました。

※画像はリンク付サムネイル方式なので、クリックすると別ウィンドウで大きく表示されます。