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くない鑑

命を惜しむなっ!名こそ惜しめっ!!前へぇ、前へーーーぇっ!!!

秋の安芸参り◆諸行無常の宮島

2012年01月05日 | 旅日記
同僚の話に惹かれて、初めてやってきた芸州広島
高速バスで一足先に着いていた同僚とホテルで待ち合わせ、大きな荷だけを預け、まずは最初、世界遺産に認定された、嚴島神社(総本社/宮島)へと向かいました。

広島と嚴島神社(宮島)を結ぶ経路は2つ。
JR広電です、先入りしていた同僚がJRの券売機で列車とフェリーのセット券を見付けていたので、JRで。
のんびりと広電に揺られて行くのもよかったんですが・・・所要時間も考慮してJRにしました。

広島駅を10時30分に出る山陽本線岩国行きの普通電車に乗って宮島口まで(10時50分着)。
駅から東へ200mほど離れたところにあるフェリー乗り場からフェリー乗って、厳島神社が鎮座します対岸の宮島へ渡ります。

列車とフェリーを乗り継ぎ、フェリーとの接続時間待ちを含めるとおよそ50分。

船(フェリー)など滅多に乗りませんから、時間は適当だと感じました。

JRのフェリーは、大鳥居に接近する航路であることを売りにしています。

お国の力は偉大ですね...
広電が気の毒に思います(苦笑)


対岸の宮島口からフェリーに乗ること10分ほどで宮島に着きます。

ここから真っ直ぐ嚴島神社へ向かえばいいんですが、それでは勿体ないので(笑)
大きく迂回をして、宮島を散策しながら総本社へと向かいました。

フェリー乗り場(桟橋)前に在った案内図と、我が街の図書館で借りたガイドブックを手に、情緒ある路地を進みながらまず向かったのは、桟橋から目と鼻の先にある要害山の宮尾城です。

この城は、安芸の毛利元就が、大寧寺の変(曹洞宗瑞雲萬歳山大寧護国禅寺/長門深川湯本)で主君の大内義隆卿とその与党を討った陶隆房(周防守護代)を是とせず、倒すべく築かれた城。

弘治元年長月9月。
2万余の大軍を率いて上陸した陶勢は、宮尾城から400m南に在る五重塔近くに本陣を構えて宮尾城を攻め立てたが、攻め口が狭隘で落とせず、そのうちに毛利勢が陶勢の背後から急襲。
この時、宮尾城の軍勢も加勢し、挟撃された陶勢は大混乱に陥って総崩れとなり、敗走。
総大将の尾張守晴賢(隆房改め)は討死し、子息を含む与党の多くも討たれ、毛利元就の中国地方制覇に大きな一歩となりました。

その後、この城がどうなったかは不明のようですが、所詮は陶勢を討つためだけに築かれた急ごしらえの砦のような城だったのかもしれません。

宮島には、宮尾城の他にも、多宝塔近く勝山城なる城もあります。
これは、大内義興卿(大内家第30代目当主/兵部卿義隆の父)が宮島に渡った折に築いた城(大永4年)とかで、厳島合戦時、陶勢が最初に本陣を構えたところで、宮尾城址からその方向がよく見えます。


戦国の世の、栄枯盛衰を分けた舞台を後にし、再び情緒ある宮島の街中へ。

意外にも由緒あるお寺さんが多くあり、仕事柄、同僚と共に気にしながら次に向かったのが、宮尾城を攻め取るために陶勢が本陣を敷いた塔の岡の五重塔。

そして、そのすぐ近くに在る千畳閣です。

これは、豊臣秀吉が安国寺恵瓊に建立を命じた大経堂で、天正15年から造営が始まりましたが、秀吉の死去でこれが中断。
それが再開されることなく未完成のまま。
明治維新後の神仏分離令によって仏像は移され、いまは嚴島社末社の豊国神社として、秀吉と加藤清正公を祀っています。

とても広いここは、江戸期には嚴島社へ参詣に来た人の休息場にもなっていたようですが、暑い陽射しの中、ここはとても涼しくて心地がよかったです。

秀吉が建立した寺社にしては、随分と質素・・・かと思いきや、屋根瓦には金箔が施されていました。
さすがです...。

フェリー桟橋から大きく迂回して、いよいよ!
この下に鎮座します嚴島神社総本社へと向かいました。


※画像はリンク付サムネイル方式なので、クリックすると別ウィンドウで大きく表示されます。


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秋の安芸参り◆初の安芸入り

2012年01月04日 | 旅日記
話は昨年の8月中頃。
同僚と、仕事終わりに近所の居酒屋で飲んでた時のこと。
業界団体主催の勉強会に、(同僚は)出勤調整の都合で経費ではいけないが、私費で、観光の序に懇親会だけ参加する・・・と話を聞き、「くないさん(仮)もどうですか?!」と誘われたことが、きっかけでした。

その翌日。
休みを利用して、近隣の旅行代理店などでパンフを読み漁り、お手頃価格のパックを発見。
しかも、泊まれるのがJR西日本が出資するお高い【ホテルグランヴィア広島】とあっては逃せません!
早速同僚に「行く」ことを告げ、種々段取りと手配をして、行って来ました!初めての広島へ。

出発は9月1日の早朝。
同僚は、一足早く夜行バスで広島へ。
私は、先のお手頃パックを利用して、新幹線(のぞみ3号)で広島へ向かいました。

この後、特に紀伊半島に甚大な被害を及ぼした台風12号(タラス)による天候と交通障害の心配はありましたが、、、
朝早くの関東は蒸し暑い程度で、何とか天気は守ってました。
しかし、西へ西へと新幹線が進むにつれて、天気は不安定に。
特に、浜松から新大阪辺りまでは、天気が目まぐるしく変わり、8時45分頃に着いた京都は、空は真っ黒で土砂降りの雨でした。
台風も、当初の進路より西へ、これから向かう広島他中四国方面へ向かっていたので、どうなることやら・・・と思ってましたが、新大阪を過ぎてから状況は一変。

雨の降る気配さえない程に晴れていて、広島も見事に晴れていました!
けど、暑さは半端なかったです(^^ゞ

東京を6時16分に出て、広島には定刻通りの10時05分に到着しました。
先着の同僚とはホテルのロビーで合流し、大きな荷物は宿に預けて、最初の目的地へと向かいました。

目次(広島と呉にまた来て「くれ」と言うことか?!)]<<<<<<<◆>>>>>>>[諸行無常の宮島

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そうだ、白石に行こう!→復路

2011年11月30日 | 旅日記
主に一般道を、のんびり快適なドライブを楽しみながらやって来た白石の2日目。
前夜の酒も残らず、ぐっすりと眠れたので、宿のバイキング・・・らいしき朝食を食べから一っ風呂。
11時頃に白石城へ登城することにはなっていましたが、それまでは何も予定が無かったので、チェックアウトの時間ギリギリまで部屋でダラダラと過ごしていました。

10時前にチェックアウトを済ませ、白石城へ。
車を城下に止め、鎮守様の神明社へ参拝してから、大手門外の歴史探訪ミュージアムへ。
ここで、前夜お世話になった皆様にお会いして御礼。
合わせてお土産も賜りました。
そのいずれも地のモノ。
そてもありがたいことで、帰宅後、それぞれ美味しくいただいております(*^-')b

さて、ミュージアムではこの時、遠藤家(※)に伝存していた古文書60余点の内、戦国期の10点程が展示されていました。
その中には、伊達安房守成実の文書もあり、それはもう、実に魅力的で興味深い史料でした。
この他にも、公家や近隣諸大名に豪族など、実に多くの文書類が伝存しているそうで、今後、専門機関と連携し、解読が進められるそうです。
なお、白石の文化施設(ホワイトキューブ)では、師走十日にこの古文書に関連したシンポジウムが開かれるそうで、(実は、仕事柄関係する方も絡んでいるので(^^ゞ)是非とも参加したかったんですが、先約があって敢え無く断念。
後日、・・・いや、事前にどんな話になるのか、聞いてみます(笑)

※遠藤家は、伊達輝宗が当主の頃より仕えた山城守基信が家祖。
 伊達家が陸奥仙台城主(国主)となってからは、栗原郡川口村(1,830石/栗原市一迫町川口滝野)を領して門閥の宿老格に列し、(代々)執政職を務める家柄となる。
 幕末、勤皇派の執政であった文七郎允信はこの後裔です。
(これに対して、佐幕派執政として奥羽越列藩同盟に加担し、無念にも新政府に処された但木土佐成行も、同じ宿老格の家柄。) 
 なお、白石片倉家の祖・備中景綱が伊達家に仕えるようになったのは山城守基信の推挙によるものとされています。

古文書やミュージアム内の展示を一通り観た後、3階のシアターで“大坂夏の陣秘話「鬼小十郎帰るに及ばず」”を観ました。
全編3Dハイビジョンのこれは、進行役とナレーションが渡辺謙、備中景綱を宍戸錠、小十郎重綱を石田登星、真田信繁を有川博・・・など、豪華な実力派俳優が演じている贅沢なモノ。
観る前は、正直、正直期待はしていませんでしたが(^^ゞ
結構、観応えありました。
ただ、佐幕派な私としては、戊辰戦争を題材としたもう1作の“奥羽越列藩同盟秘話「賊にはあらず」”が、とっても気になります(笑)

ちなみに、シアターの上映開始まで、少し時間があったので、大手門より本丸区域に入りました。
いままで、白石城には鬼小十郎祭の、活気があって賑々しい時にしか来たことがなかったので、出店などは一軒もなく、人も疎らで閑かな雰囲気は、何だかとても新鮮で気持ちがよかったです。
ボランティアのガイドさんがいるのも、初めて知りました。

房総の要衝たる我が街にも、10万石余の譜代大名が就くのに相応しい、自慢の出来る立派な城址がありますが、残念ながら、往時を偲ぶ建物はありません。
陸軍の連隊本部が置かれたので、余計かもしれません。
一時、前市長の頃に天守の再建計画がありましたが、いつの間にやら聞かなくなりました。
けど...
閑かで落ち着いた雰囲気の中で白石城の天守を眺めると、我が街の城址にもあれば・・・と、羨ましく思いました。
ただ、近世の城の主役は政庁たる本丸御殿なので、願わくば、本丸御殿や参勤交代の折に伊達宗家御当主が滞在した御成御殿を見て・・・みたいですね。
それは、もちろん我が街の城址でも。
数多の閣老が城主に就いた我が城が、如何なる規模で、如何なる構えと備えを成していたのか、大いに興味があります。

さて、シアターを観終わったのは正午過ぎ。
帰路の渋滞を考慮して、この時分に白石城から下城して駅前に。
空腹を満たすべく、鬼小十郎祭の時に食した駅前の温麺屋【なかじま】に入り、その時食べそこなった“かきのうーめん”を食しました。
お手伝いのお婆さんの覚束無い所作に対してキツイ亭主の口調がとても不快で気になりましたが、、、
うーめん自体は、とっても旨かったです。
何しろ、大好物の牡蠣が、これでもか!これでもか!!ってくらい入っていたので。

店を出た後、同じく駅前に在る【小十郎プラザ】に立ち寄ってから、帰路に着きました。

出来れば福島県内は一般道で南下し、往路で果たせなかった二本松や白河、伊達領内の各要害などを攻略したかったんですが、、、
明日の出勤のことも考慮して、東北道国見I.C.まで一般道で行くこととしました。
日曜の昼下がり。
街中こそ交通量は多かったですが、少し離れると少なくなり、のんびり穏やかな雰囲気で、快適なドライブでした。
しかし、白石から国見まで、東北道では一区間ですが、驚きの発見と見所の連続でした。
その最初は、4号線からよく目立つ大きな看板のあった“甲冑堂”です。
駅前の観光案内図にあったので気になってはいましたが、思いがけずに在ったので、正直びっくりしました。
残念ながら、寄ろうかどうしようか・・・と考えている間に入口を通過してしまったので、敢え無くそのまま進みましたが(^^ゞ
ここには、治承寿永の戦乱において九郎判官義経に付き従って陣没した佐藤兄弟を偲び、形見の鎧を身に纏った兄弟の夫人の像が収められています。
ちなみに、この近くには、平泉へ落ちる九郎判官一行が通ったとされる「鎧摺」なる史跡もあります。

ここから国見方面へ少し進むと、やはり地図を見て気になっていた馬牛沼に差し掛かったんですが...
沼には、一滴の水もなく、底が露わになっていました。
一体どうしたことなのか?!
季節モノなのか、はたまた震災の影響なのか、、、
高速で走る車からチラリと見ただけなので、何とも言えませんが、ちょい、異様でした。

甲冑堂から馬牛沼辺りまで下り坂だった4号線も、越河を過ぎると今度は上りに転じ、並走する東北本線と共に県境を越えなだらかな下り坂に差し掛かると、目の前が徐々に開けて、福島盆地を見渡すことができます。
以前、列車で白石へ来た折にも、東北本線の車窓からその景色を見ましたが、実に見事で壮観です!

白石から奥羽街道を南下して県境を越すと、福島県国見町に入ります。
国見と言えば、毎年秋分の日に挙行される義経まつりです(笑)
残念ながら未だ参陣したことはないんですが、大鎧が着られる?!という、とても魅力的な時代祭だと聞いています。
まつりの由来は、国見周辺で多数の伝承を残している九郎判官義経と源頼朝の奥州征伐だそうですが、これに関する重要な史跡が陸羽街道沿いにありました。
それは、“阿津賀志山(防塁)”です。
ここは、今から遡ること822年前の文治5年。
奥州藤原氏が、奥羽平定の出師を発して北進する源頼朝率いる鎌倉勢を迎え撃つべく築き上げた防衛拠点。
近くを流れる阿武隈川の水を堀に引き入れ、塁を高くし、奥州藤原氏方総大将の西木戸太郎国衡は2万余の軍勢を率いて防備の陣を構えるも、衆寡敵せず敗退。
御味方総崩れとなり、総大将の国衡は落ち延びる最中に陣没した。
この後、雲霞の如き大軍を前に奥州藤原勢は敗退を続け、遂に滅亡してします。
しかし、衆寡敵せず・・・とはいうものの、10万余の軍勢を2万余で防いだのは立派です。
総大将の西木戸太郎国衡は武勇の誉れが高かったそうですが、全長3キロ余あるとされている阿津賀志の防塁も、十分効果を発揮したことと思います。

この防塁、如何なるモノなのか?!
確かに興味はありました。
・・・が、あまりに快適なドライブだったので、正直、敢えて止まりたくはないな・・・という思いが先に立ち、通過しました。
今更ですが、その日の記憶を呼び起こしながらいま記事を打っていますが、何ともはや、もったいないことをしました。。。

阿津賀志山の防塁を過ぎて少し進むと、国見の市街地(藤田)に入ります。
東北道のI.C.もこの近くで、予定通り、ここから高速(東北道)に入って南下しました。
ただ、適度なスピードが出せる4号線が快適だったので、もう一つ先まで行こうかな・・・とは思いましたが、この後のことを考えて、ここは大人しく我慢しました(笑)

天気予報では比較的高い降水確率でしたが、雲は多めながら晴れて、若干暑かったです。
ただ、東北道に入った途端、天気雨に遭遇。
微妙な降り方に、水弾きもワイパーも効果が薄くて難儀しましたが、(こうした気象条件下で出る)虹は、よそ見ですが確認しました。
それも、ハッキリクッキリと!
近くの吾妻S.A.で休んでいれば、デジカメにも収められたんですが・・・残念でした。

この後、東北道を南下して行くつもりでしたが、郡山から先で混雑し始めていたようなので、磐越道常磐道ルートに代えて進みました。
正直、「トンネルを潜りたい!」という禁断症状もあったので(笑)

磐越道経由にしたおかげで、その後生じた東北道の渋滞に巻き込まれず、スムーズに。
・・・まぁ、常磐道も東海辺りから車の量が一気に増えて若干混雑気味だったのと、願ってもない豪雨には見舞われましたが・・・
20時過ぎには帰着しました。

いつもはあくせく忙しなくする旅も、今回はゆったりの~んびりと、私にしてはスローペースでした。
ここでもう少し、温泉やら城や陣屋の攻略に取り掛かれば・・・と、思いました。

それは次回への反省で(^^ゞ


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そうだ、白石へ行こう!→往路

2011年11月28日 | 旅日記
この間の土日。
ふと、奥州白石へ行きたくなったので、ドライブがてら、一泊二日で行って来ました。

・・・まぁ・・・ドライブにしては、少々遠過ぎるかもしれませんが(^^ゞ

白石では、予てより懇意にしていただいている方々と一献酌み交わすこととなっていましたが、それも夕方から。
昼間は特に予定を組んでいなかったので、のんびりゆっくりと。
時間の許す限り一般道を北進しました。

私が言うのもなんなんですが(^^ゞ
多少せっかちなところがあって、旅の時はいつも時間との勝負!をしているかのようにあくせくと、忙しなく動くので、ゆっくりの~んびり・・・というのが、あまりありません。
しかし今回は、17時頃の到着は目指していましたが、昼間に特段予定を組んでいなかったので、朝はいつもより遅く起き、家を出たのも昼前。
いつもとは真逆の旅は、とても新鮮でした。
また、大好きな雨天のドライブでもあったので、これまでに溜まっていたストレスも、一気に解消できました。
前日まで悩んでいた多数の口内炎や、右耳の奥から感じる痛みも、この時を境に治まりました(笑)
ただ、惜しむらくは写真を撮っていないことです(苦笑)

往路。
家を発ったのは11時頃。
前日来の天気予報が的中し、朝から降雨。
ですが、私にとっては願ったり叶ったり(笑)
フロントなどに水弾きのコーティングをして、出発しました。
家(北総)から白石までは、圏央道常磐道磐越道東北道と経由していけば、4時間程で着くんですが、今回は、マイペースに一般道をほぼ真直ぐに北進して行きました。
取手や守谷などの街中は、通過したのが正午前後ということもあってか混雑していましたが、国道294号線(常総バイパス)の沿道の多くは田園地帯なので、街中を過ぎれば交通量も少なくなり、快適なドライブができます!

途中、トイレ休憩で立ち寄った【道の駅しもづま】では旬の“新そば祭”が開催されていて、かけそばが1杯300円だったので、もちろん、いただきました!
昼間でも、雨が降りしきっていて肌寒かったので、温かいそばは実にうれしくありがたかったです。
まぁ、つゆの醤油分が強すぎたのは残念でしたが、セルフでいも天が置いてあり、これももちろんいただきましたが、ちょうど良い時に揚げたてが追加されたので、それを一枚いただきましたが、これがもう、旨いのなんの!
固さといい、甘みといい、蕎麦以上に感動しました!
ただ、遠慮心が出て、2枚はいただけませんでした(笑)

ここで30分ほど休んでから、再び国道294号線へ。
その後、栃木県内に入り、国道も408号線、4号線と変わりましたが、順調で快適なドライブは変わらず。
ガソリンの減りも、いつもに比べて遅く感じました。
出来ることならこのまま一般道を、旧陸羽街道を進んで野州喜連川や大田原、黒羽、伊王野、奥州白河や二本松の城や陣屋の一つや二つを攻略したかったんですが、、、
宇都宮を過ぎた時点で、時刻は14時前。
家から足掛け3時間かかりましたが、この先の道中も長く、ナビが、このまま一般道を走り続けると、白石到着が20時頃・・・と言っていたので、国道4号線と交差する東北道の矢板I.C.から白石までは、高速を疾走しました。

矢板から白石まで、途中2度の休憩を挟みながら、2時間強で到着しました。
トンネル好きな私からすれば、福島トンネル一つだけの東北道は魅力に欠けるんですが(笑)
アップダウンが比較的少なく走り易いのと、沿道の山々の木々が色づいていて、変化に富んだ楽しいドライブはできました。

白石の宿には、17時過ぎに到着。
ここで旅装を解いて、地元の方の運転で、奥州の先輩が懇意にしている亘理のうどん屋さんに。
既に陽はとっぷりと暮れていて、景色はよく解りませんでしたが、うどん屋さんの周辺は、先の大震災の津波に襲われたそうで、辺り一帯真っ暗でした。
うどん屋さんやその前の道から海までは、概ね2キロくらいだそうです。
私は初めてその現場周辺へ行きましたが、その凄さ、凄まじさ、恐ろしさを、ひしひしと感じました。。。

先輩懇意のうどん屋さんは、11月から夜の営業を再開したそうですが、結構賑わっていました。
ここで、名物のから揚げや(私的にリクエストをした)鍋モノ、売りのうどん等をしこたま食らい、酒を飲み、大笑いをして白石へ戻りました。
もう、腹筋が少し鍛えられた感じがします(笑)

うどん屋さんでの宴会は3時間ほど。
21時過ぎにはお開きして、白石へ戻りました・・・が、真っ直ぐホテルへは戻らず、もう1軒。
白石市内の【白樺】というい~い感じのパブに立ち寄ってから戻りました。
その様子は、別にして...

季節は初冬。
雨上がりということもあってから、夜空の星は、プラネタリウムにいるかの如く、いままでに見たことがないくらいきれいで感動的でした。

>>>白石の“名店”続く>>>
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男女3人伊勢物語-「苦難の北畠家」編

2010年01月15日 | 旅日記
伊勢神宮へ参拝を済ませ、津まつりの雰囲気を味わったあと、次に向かったのが旧美杉村多気に在る北畠氏館跡

(三重県庁)を発ち、目的地までは一般道で。
全日本大学駅伝コースでもある伊勢街道を南下し、松坂市内で熊野街道,国道166号線を介して、美杉に出られる伊勢本街道へと入りました。
途中、仁柿峠を越えるこの道は、大和とを結ぶ街道で、今でも、松坂へ出るには一番近い道だそうですが・・・街道に入って暫くすると、さっきまでの様相とは一変。
まず、この数日前に通過した台風の影響か,土砂や枝葉が道路に積もっていて、その轍が出来てました。
この段階で、ちょっといやな予感がしたんですが、ナビが「ここを通れ」というので、その案内どおりに進むと、今度は「工事中」の為に進路を強制的に変えられて、集落の中を通る細道に。
しかも、その入口には...

「仁柿峠は道幅が狭いので大型車は通れません」

...という看板が(--ゞ
「まさかねぇ」と、半信半疑ながら車を走らせて集落を抜けると、もう、直ぐに酷道に入りました。

ちがいがまさんが仰っていたことが、ここで漸く得心できました。

何の心の準備も出来ず,集落を抜けたらいきなり、車一台がやっと通れる道幅。
夏に通った乳頭郷鶴の湯へ行く急峻な砂利道なんて、これに比べればかわいいものです。

すれ違うのもやっとで、中には、ガードレールが無いところも。
また、台風の影響でか、排水路には巨木が一本丸々刺さっているところもあって、中々スリリングでした。
そんな峠の酷道だから、そんなに車も通らないだろう・・・なんて思っていたら大間違い。
先にも述べたとおり、ここは松坂へ行く一番近い道なので、上から下から車が、「勘弁してくれよぉ」と、叫びたくなるほどひっきりなしに来ます。
多分、独りではダメだったでしょうが、ここへ導いた碧雲斎が助手席に座っていたので、監視役にして、10kmほどある峠道を、悪戦苦闘しながらおよそ30分ほど掛けて何とか越して、美杉郷に入りました。

時刻は16時半頃,平家の落人伝説でもありそうな、山間の、とても静かな集落でした。


目当ての史跡の手前には資料館があったので、ちょっと立ち寄ってみました。

しかし、既に閉まっている雰囲気だったので、碧雲斎を物見に走らせると・・・係員の方がまだ居られて、開館時間は終わっていたのに、ご好意で開けてくれました。

ありがたいことです<m(_ _;)m>
中には、北畠氏館の模型や北畠家関連の史料のほかに、美杉や伊勢本街道に関する資料が展示されていて、中々興味深くて面白かったです。

また、資料館の方(地元の方)と少しお話もして、峠道の興奮を落ち着けることが出来ました。
山間の集落ですが、台風で近くの八俣出川が増水して、床上浸水したお宅もあったそうです。
いいところですから、是非一度、仁柿峠を越えて行ってみてください。

この後、資料館の隣に在る、目指していた多気北畠氏城館跡へ。

すると、ここで碧雲斎が...

「霧山城を攻め上りましょう。」

...なんて言いやがりました(爆)
ここ北畠氏館は、甲府の躑躅が崎館要害山城の様に、背後の山に要害を構えていましたが、そこへ行こう!って言うんです。

時刻は17時。
陽も既に傾き始め、若干不安はありましたが、若い碧雲斎の行動力と、自信の好奇心に背中を押させて、城攻めを敢行しました。

館から山頂までは950mほど。

幾分整備されているとはいえ、ほぼ、杉林に囲まれた山道です。

そこを、かなりの早足で,麓から20分ほど掛けて、鐘突堂跡に攻め上りました。

そこから見えるのは、山山山...

なお、ここは北畠家終焉の地。
織田信長に攻められて屈服した北畠具教が三瀬館で暗殺された(天正4年)後、一門の左衛門尉政成が籠城して織田勢を一戦交えるも、衆寡敵せず,霧山城は攻め落とされて、伊勢国司北畠家は滅亡しました。
織田勢の攻め口は判りませんが、もし、私たちと同じ伊勢本街道を上がってきたとしたら・・・と思うと、ただただ、すごいとしかいえません。。。


遠く彼方、かつて支えた南朝の御座所・吉野の先に陽が沈んでいく中...

北側の頂部に在る本丸跡にも攻め入りました。

詰城だからか、規模はそれほど大きくは無かったです。

ただ、このままでは陽が暮れて下山出来ずに遭難する危険性もあるので、急いで退こうとするも、秋の陽は釣瓶落としで...
さっきまで、何とか残っていた陽の光も、本丸跡を少し下ったところで全く無くなり、辺りは忽ち漆黒の闇に(--ゞ
夜の山歩きの備えなど全くしていなかったんですが、ケータイの明かりとフォトライトで足元を照らして、何とか、無事に退きことが出来ました。
御伊勢様の御加護と、文明の利器とはありがたいもので...。
麓の北畠神社に着いたのは18時過ぎ。

せっかくここまで苦労して来たので、北畠家所縁の地を見て周りたかったんですが、如何せん,辺りはもう真っ暗なので、仕方なく、帰路に着くことにしました。

さすがに、仁柿峠越えは、夜ということもあって避けて(^^ゞ
資料館の方に、無難に走って帰れる道を教えていただき、(まもなく廃止される予定の)JR名松線と雲出川に沿って走る県道を使って名張へ出て、そこから伊勢道に乗って行きましたが・・・途中、四日市の辺りから、思い掛けずも大渋滞に巻き込まれてしまい、抜け出すのに2時間も(^^ゞ
ちがいがまさんに聞いた、伊勢湾岸道長島SAに在る足湯も既に閉まっていて、夜食にもありつけず。。。
若干凹みながら先に進み、東名道のどこかで食事と、ちょっと仮眠をして、関東には朝方に到着。

碧雲斎とみっちーをそれぞれお宅近くまで送り届けて、自分も帰宅。

予てよりの念願だったおかげ参りは、無事、0泊3日で遂げられました。
これも、御伊勢様の御加護の賜物です。

次は・・・できることなら来年、もしくは、式年遷宮の年に、また詣でたいです。

伊勢物語(終)

【初回】・・・→「伊勢外宮」編・・・→
【前回】←・・・「津まつり」編←・・・

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男女3人伊勢物語-「伊勢内宮」編

2010年01月13日 | 旅日記
払暁に詣でた外宮から内宮へ向かう途中。
数多付いている穢れを落とすべく、二見浦で禊を済ませ、かつて不夜城衆が攻めたけど、私は行けなかった伊勢の安土城」を外から観て、(内宮へ)向かいました。

二見浦から内宮までは、車で20分ほどです。

内宮は、外宮の静かとは一変して、如何にも「門前町」としての賑わいがありました。

着いたのが朝の9時前だったので、「おかげ横丁」と称する表参道に軒を連ねる店(たな)の多くは準備中でしたが、それでも、なんだかとてもワクワクする町並みに、参拝への期待が大きく高まります。

ここに在りました、【赤福】が。

参道の景観に、銀行や郵便局も町並みの合わせてます。

また、表参道から一本路地に入ると...

店(たな)が密集していて、より風情よくなってます。

どの店の開店前でしたが、それが余計にいい雰囲気を醸し出していました。

逆に、五十鈴川に出てみると...

京都の鴨川沿いの様な風情があります。

人出の少ない内に、表参道を隈なく巡ってから、いよいよ内宮(皇大御宮)へ。

この時は五十鈴川に掛かる宇治橋が式年遷宮の一環で架け替え普請中だったので、仮橋を渡って境内へと入りました。

翌月の初めに落成し、渡始式が挙行されたようです。



砂利の敷かれた広い神苑を通り、火除橋を渡って御手水場で口手を清め、一の鳥居を潜ってから目に止まったのが五十鈴川御手洗場。

かつてはここは禊をしてから参拝をしていたらしいですが、いまは、水量などの関係で入ることなどが出来ないので、清流をじっくりと、時間を掛けて耳目に収めて、内面からしっかりと禊をして、二の鳥居を潜って神楽殿の前を通り、御正宮へ参拝しました。



御正宮の隣には、式年遷宮で新しい社殿が普請される(新御敷)地がありました。

さすがに、9時を過ぎると人出も多くなり、神楽殿や御正殿には、特別参拝の人達がたくさん居られましたが・・・ちょっと、いや、すんごく羨ましかったです。

この日は、4日後に挙行される祭礼(神嘗祭)に向けて衛士さんが練習中で、暫しその人たちに付いて(笑)

御稲御倉,忌火屋殿,外幣殿の前を通って荒祭宮に参拝。

次に、反対側に位置する風日折宮へ。
五十鈴川に架かる風日折宮橋を渡って参拝。

(引き返して)参集殿という参拝者用の休憩所へ。

配られている茶を喫し、御神酒を買い、暫し休んでから、(参拝を終えて)内宮をより出ました。

見事な舞台と錦鯉が泳いでました。


この時、10時半。
気が付けば、出立前に家で食事を取ってから・・・15時間以上、何も食べていなかったので、おかげ横丁でお食事処を捜索。
この後、昼頃に津へ行かなければなからかったのに、多くの店は、開くのが11時。。。
それでは絶対間に合わないので、若干途方に暮れていたら、松坂牛の料理が食べられる一軒のお店が開いているのを発見!
一応、メニューや値段などを確かめて、入店しました。
ここで私が選んだのが、確か・・・「松沢牛のたたき丼」だったと思います。

久しぶりにありついた食事は美味かったですが、そうでなくても、このご飯は美味かった!!
あ~ぁ・・・(多分)初めて食べた松坂牛は、たたきだからか、あっさり目でした。
ご飯のお代わりが出来たら、きっと、3杯はかたいと思います(笑)

さすが三連休の初日だから・・・か、朝着いた時には疎らだった人影が、1時間半も経ったらもう、表参道なんて、行き交うだけでも難儀なほどの人出。
駐車場に至っては、入れないで大車列,大渋滞になってました。
この光景を見て、つくづく「早く来てよかった」と、思いました。

さて、次へ「藤堂高虎公祭」の(自前)武者行列を観に津へ、伊勢道をぶっ飛ばして行きました。

【次回】・・・→「津まつり」編・・・→
【前回】←・・・「二 見 浦」編←・・・
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男女3人伊勢物語-「二見浦」編

2010年01月12日 | 旅日記
東京より7時間掛けて、払暁に伊勢神宮外宮(豊受大神宮)へ参詣した後。
次に向かったのが、二見浦です。

2つの岩が海中から突き出している“夫婦岩”で、また、日の出遥拝の名所して有名で、季節によっては、岩の間から日の出を遥拝できるそうです。

しかしここでも、数日前の台風で、岩を繋ぐ大注連縄の一部が流されてしまったそうです。

自然の猛威とは、恐ろしいですね...。
さて、ここを訪れた時は7時過ぎで、陽が高く昇っているとはいえ、人影は(外宮に比べれば)疎ら。
なんとなく「立入禁止」的な突堤の先で受けた朝の潮風は、とっても気持ちかったです。

また、この日は空気が澄んでいたので、太陽の煌きが一際強くて眩しかったですが、暖かな陽気で、海上を疾走する漁船など、なんとも緩やかで光景を見て、穏やかな一時が過ごせました。

東雲の頃に訪れて、日の出を遥拝するのもいいでしょうが、この、少し陽の昇った7~8時頃訪れるのも、人出も少なくていいと思います。


ところで。
ここ二見浦はお伊勢さんの禊場で、本来は、浜に出でて海水に浸って禊をするそうなのですが、今では、一般的な二見興玉神社へ参拝して、身を清めるお祓いを受ける(浜参宮)のが一般的だそうです。

私たちも、お祓いまでは受けませんでしたが、御社に参拝したので、これを禊として、次に、天照大御神を祀る伊勢神宮内宮(皇大神宮)へと向かいました。

天岩戸、あります。

けど、その途中に...
二見浦から2kmほど行ったところにある安土城を見てきました。
ここには、今から・・・6年ほど前か,不夜城衆が「落して」いるんですが、無念にもそれに私は同行できなかったので、今回、城外から見てきました。

行って見るまでは、ちょっと「どうなの(笑)」と思ってましたが、いざ見てみると、結構立派でした(^^ゞ

【次回】・・・→「伊勢内宮」編・・・→
【前回】←・・・「伊勢外宮」編←・・・
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男女3人伊勢物語-「伊勢外宮」編

2010年01月11日 | 旅日記
出雲大社伊勢神宮へ参詣することは、予てよりの宿願でした。
そこで、いろいろと調べて見るも、中々、出雲まで独りで行けるプランなどはなく、正攻法で行くには費用が掛かり過ぎるので、こちらは断念したんですが、伊勢には、たろう君不愉快な連中たちが打ち出したETC対応車に限り、大都市圏を除いて高速料金1,000円!」で、幾分可能性が。
それに加えて、昨夏、奥羽大遠征を敢行して、より自信が付いたのか、それ以後、急速にその熱が高まって、遂に、予てより噂に聞いてた、の「藤堂高虎公祭り」とセットにして、御伊勢参りを敢行することにしました。

時は昨秋神無月の10日(土)。
出発は亥の刻に池袋から。
お供に、我が舎弟の碧雲斎とみっちーに願って、参りました。

池袋から目白を経由して環八へ出、東名道東京ICには予定通り,休日特割深夜帯に入り、あとは只管西へ。
途中、海老名

期待外れの(笑)三方が原

浜名湖などへ立ち寄り、豊田からは、ナビが(古くて一部)対応していない伊勢湾岸道を経由して伊勢道へ。


御伊勢さんへの参拝は、日の出と共に・・・と目指して、不眠で運転していたんですが、その手前の安濃辺りで力尽き、30分ほど休んでから仕切り直し、伊勢神宮外宮(豊受大神宮)に5時半頃到着しました。

池袋から、7時間半も掛かりました(^^ゞ

払暁の御伊勢さんは、例えようのないくらい、いいです。
半袖だった・・・ということもありますが(^^ゞとても静かで落ち着きがあり、厳かな雰囲気があり、空気も凛としていて、実に気持ちがよかったです。

まず、御手水場で口手を清め、北御門鳥居より、いざ!神域へ。

杜の木々に囲まれて仄暗い参道を進み、御正殿に参拝。

衛士がいます(/^^)
この頃,陽も大分昇り、辺りも明るくなってきたからか、結構な人出で賑わい始めてきました。

この時、時刻は6時です。(人様のことは言えませんが、)ビックリです。
さすが、御伊勢様・・・か。

この後、亀石を渡って...

奥の土宮

下御井神社,多賀宮

風宮へ参拝。

この数日前にやってきた台風の影響で、杜の木が折れてこの有様。

社殿に影響が無かったが、不幸中の幸いでしたが、境内の所々に、台風の爪痕がありました。
ちなみに、これは風の神様を祀る「風宮」の脇です。
さすが・・・と、言うべきか(^^ゞ

この後、御札や御守などを求めに神楽殿へ。

そこに居た神職さんの話によると、この前日まで、(新聞報道でもありましたが)倒木などがあって参詣は出来なかったそうです。
また、この日の昼からも、台風の後処理で、一時参拝出来なくなるとか・・・で、ある意味、いいタイミングで来られました。
これも、伊勢神宮に祀られている神々の御導きか(笑)

この後も、閑寂な中で参詣した特典か,暫し神職さんの話をお聞きしてから、二の鳥居,一の鳥居へと進み、勾玉池と奉納舞台へ。

境内には、鶏が「神鶏」として自由に闊歩していて、人馴れしているのか近付いても堂々と、普通に「朝」を告げたり、威嚇しあってました。

また、池の畔には・・・朝から宇宙と交信している不思議な集団が居たり・・・と、ええ、とっても面白かったです。

朝の5時半に北御門鳥居より入って、1時間半程掛けて参詣。
表参道火除橋より出て、次の目的地へと向かいました。

既に陽は昇り始め、夜はすっかり明けていましたが、杜の外は、まだ起きておらずに閑寂なままでした。


ちなみに、神職さんのお話によると...
この頃(10月)、伊勢神宮で御札を御作りして、全国各社へ配るそうです。
また、買いませんでしたが(^^ゞ
伊勢神宮が発行する暦本は、正統の、基本中の基本らしいです。

現在の年間参拝者は700万人ですが、江戸時代は450万人も訪れていた伊勢神宮。
街道の整備などがなされ、江戸からも京阪からも行けない距離ではなかったでしょうが・・・すごいです。

【次回】・・・→「二見浦」編
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いざ、鎌倉!【5歩目:釈迦堂口経由帰路】

2010年01月08日 | 旅日記
心のリフレッシュをしたくて、昨年の6月末に鎌倉へ行って来ました。
所々を寄り道をしながら、一番行きたかった報国寺と竹林でリフレッシュをしてから、陽も傾き始めたので、岐路に着くべく鎌倉駅目指して行きました。

金沢街道を歩いて行けば、無難に着くと思うのですが、それではつまらないので、平行して通る住宅街の路地を歩いて行きました。
すると、[←釈迦堂切通]という案内道標を見付けたので、ちょっと導かれてみました。

案内道標から暫く歩くと、確かに、切通の口がありましたが、そこには...

こんな看板と、形ばかりの柵がありました。
けど、ええ、行ってみました。

この看板(切通口)の側には、有志の方々が立てた由来の石碑があり、それによると、この近くには北条泰時(3代目執権)が、父の徳宗義時の菩提を弔う為に釈迦堂を建立したそうです。
ただし、今、それがどの辺に在ったかは不明ですが、ご本尊の御釈迦様(清涼寺式釈迦如来像)は、目黒行人坂の大円寺で祀られているそうです。
大円寺といえば、目黒雅叙園ホリプロの前に在るお寺さんですが、明和9年(安永元年)に江戸市中を焼け野原にして、多くに被災者(1ヶ月前に老中となったばかりの田沼意次の神田橋の上屋敷も焼失)を出した「目黒行人坂の大火」の火元として、80年近く経った幕末まで再建が許されませんでした。
そこに、なぜ在るのか,その軌跡が実に気になるところです...

さて、切通しは看板と柵から先は未舗装の道で、両側の崖に陽射しを遮られて、幾分ぬかるんでいましたが、天辺に行くにしたがって、地面も岩盤なのか、固く、ぬかるみも無くなってました。
道幅は、住宅街の道程度で、それほど狭くはありません。

柵から、鬱蒼とした木々に囲まれた、幾分緩やかな坂道を暫く登ると、切通しの天辺に着きます。
地図サイトで測ったら、130mほどしかありませんでしたが、感覚的には、それよりも距離があるように思えます。

切通しの天辺は、道の行く手を阻んでいた岩盤を、いかにも刳り貫いた洞門になっていました。

これが、いつの時代に通されたものかは解りませんが、もし、鎌倉期からのであるとすれば・・・と考えると、ちょい、興奮してきます(笑)


切通しの天辺の先にも、勿論道は続いていて、その先は、登ってきた道よりも傾斜のきつい坂道になっていました。

時間と地図もしくはケータイのえねるぎーがまだ有れば、坂を下って行って見たかったんですが・・・今回は、断念しました。
なんとなく、天辺まで行けて満足しましたし(笑)
天辺から見る限りでは、この先、まだまだ切通しが続く・・・と思えたのですが、のちほど、地図を広げて調べてみると、仕切りは、登ってきた口よりも短いところにあったようです。
また、切通しが鎌倉市浄明寺(1丁目)と大町(3丁目)の境になっていて、あのまま下っていくと、名越,松葉ヶ谷に出られたようです。
また、地図を広げて判ったんですが、この天辺の近く,衣張山には伝北条時政邸があるそうですが、近年の発掘調査の結果、違うのでは?!と、言われているようです。
最も古い遺構でも、13世紀後半までしか遡る事が出来ないらしいですが、ひょっとしたら、ここが、所在の判っていない釈迦堂だった・・・というのは、未だ邪推の域・・・ですね(^^ゞ

さて、切通しの天辺で折り返して、今度こそ、鎌倉駅を目指して行きました。
時刻は17時頃。
初夏とはいえ、陽が西に傾き始めて、切通しも、木々に覆われている所為で余計に薄暗くなってきましたが、登ってくる人は結構いました。
中には、人力車のガイドコースになっているのか,車引きに誘われて来る人たちもいました。

住宅街まで下り、鎌倉駅目指して路地を進むと、道端には、この時盛りの紫陽花が咲き誇っていました。

ここで、明月院の無念が晴らせた気がしました(笑)


釈迦堂の切通口を経って20分ほどか,あと少しで鎌倉駅というところで、[←東勝寺跡]の案内道標を見つけてしまいました。
けど・・・北条一門と郎党,八百数拾余が最期を遂げた場所には、ちょっと行き難く、そのまま通り過ぎて行くと、今度は、門扉に三つ鱗を付しているお寺さんを見つけてしまいました。

葛西ヶ谷の金龍山宝戒寺(釈満院円頓宝戒寺)です。
門前の寺縁によると、ここには北条執権邸があり、鎌倉幕府と運命を共にした北条一門等の菩提を供養するために、足利尊氏公が(後醍醐天皇の発願によって)建立されたそうです。
北条家と鎌倉幕府滅亡後の、主に鎌倉と東国の安定を視野に入れた建立にも感じられますが、やはり、滅亡した北条家と、建立の立役者が北条家の縁者である足利尊氏公であることに、少し、ものの哀れを感じました。

心のリフレッシュと、運動不足の解消も結果的に兼ねた今回の鎌倉巡り。
偶然にも、鎌倉府の始まり[長寿寺]と終わり[報国寺]を巡ったのは、不思議な縁を(少し)感じました。

帰り、鎌倉駅から横須賀線に乗ろうホームに行くと、ものすごい人人人...。
どうやら、どこかでトラブルがあったようで、ダイヤが乱れていました。
歩き回ってクタクタで、座ってゆっくり寝ていこうと思っていたのに、これでは無理だ・・・と判断し、ちょうど来た下りの電車に乗って逗子に行き、そこから始発の電車に乗って行きました。
ダイヤ乱れの所為で、総武快速線への直通が無く、東京で乗換えを強いられたのは無念ですが、そこまではぐっすりと寝て行けたのがよかったです。
あのまま、鎌倉駅から乗っていたら、絶対に座れなかったです。

鎌倉の4歩目【宅間ヶ谷】<<<<<◇>>>>>鎌倉の1歩目【北鎌倉
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いざ、鎌倉!【4歩目:宅間ヶ谷】

2010年01月07日 | 旅日記
昨年6月の末頃。
ちょっとリフレッシュを・・・と、思い立って「行こう」としたのが、鎌倉は宅間ヶ谷の功臣山報国建忠禅寺。
初めてここを訪れたのは・・・もう、5年位前の同じ頃,梅雨らしく雨の降る平日でした。
林立する竹林の一画に設けられた茶席で茶菓子を喫しながら、暫し、くつろぎました。
耳に届くのは、そよぐ風に揺られて靡く竹の葉の音や、その間をすり抜けて落ちてくる雨音だけ。。。

ただ、何をするでもなく、ボーっとしているだけでも、すーっと、自然と心を無にすることが出来ます。
性急な私にしては珍しく、ただボーっとしているだけで1時間の時を過ごしましたが、その横で、イスラエルの人が、黙々と本を読み耽っていたのが、とても印象的でした。

ゆえにこの日、この報国寺を訪れたかったのです。

ただ、いろいろと、思い掛けずも寄り道をしたので、報国寺へ着いたのは閉門の1時間ほど前。
いつもながら、慌しく竹林に入り、茶席にて茶菓子を頂きながら、暫し、くつろぎました。。。

天気のいい土曜の夕方だったので、人ではそれなりに多く、茶席もほぼ満席でしたが、不思議と騒がしくなく、ゆったりと、心閑に過ごせました。
ただ、さすがに以前の様に長居は出来ず(^^ゞ
30分ほどして茶席を立ち、竹林を散策してから、閉門の時にここを後にしました。

明日の準備に余念がありません(笑)
報国寺の閉門は16時なのですが、あまりそれが知られてないのか・・・それ以後も、人がひっきりなしに来てました。
けど、みなさん、一様に、残念に思いながら帰って行ってました。

その気持ち、よーく解ります。

さて、目当ての報国寺の行けたので、あとは帰るだけ・・・と、その先にある旧華頂宮邸を外から見て、一路、鎌倉駅を目指して(勿論)歩いて行きました。
田楽辻子のみちから入り、金沢街道とほぼ平行して通る路地を歩いていると、[←釈迦堂切通]と言う興味深い看板を発見。
それに導かれて、ちょっと、行ってみました。

鎌倉の3歩目【二階堂】<<<<<◇>>>>>鎌倉の5歩目【釈迦堂口経由帰路
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いざ、鎌倉!【3歩目:二階堂】

2010年01月06日 | 旅日記
昨年6月の末頃。
メンタル面での最適化をするべくやってきた鎌倉。
北鎌倉で下車をして、徒歩で鎌倉入りする途中で、思いがけずも足利家所縁の名刹を拝観出来て、大満足の内に鎌倉市中へ。
鎌倉幕府の滅亡間際,攻め寄せる新田勢と幕府軍との激闘が繰り広げられた巨福呂坂を通って行きました。
いまは利便性と安全面を備えたトンネルとなっていますが、切通し(洞門)の雰囲気をと、少々凝った造りになっていました。
この坂を下って行くと、鶴岡八幡宮に行き着きます。

鶴岡八幡宮は鎌倉の鎮守様ですが、幾度か無く訪れているので、今回はご挨拶(参詣)のみをして、次の目的地へササッと向かいました。
人出も多かった・・・というのもありますが(^^ゞ
やはり、最上段(本殿前)から鎌倉市街が一望出来て、とてもよい見晴らしでした。
また、今回は若宮大路から長い石段を登らず、(初めて)巨福呂坂を下って脇から入ったので、ちょっと、得した気分・・・でした。

さて、鶴岡八幡宮を後にして、次に向かったのが鎌倉宮です。
ここは、鎌倉幕府を倒した立役者で、征夷大将軍にも任ぜられた大塔宮護良親王を祀るべく、明治に入って創建されたお宮さんです。
バスの終点になっているので、前から何と無く気になってはいたのですが、今回、初めて訪れました。
背後には、濃緑の木々を供えた山が迫っていて、鶴岡八幡宮の喧騒に比べればとても静かで、落ち着きのある雰囲気でした。

この次は、看板に誘われて、近くの大倉山に在る源頼朝の墓所(法華堂跡)へ行きました。
鎌倉幕府を築いた頼朝公の近くに、これを倒した大塔宮が祀られているのは、何と無く因果なものを感じましたが...
住宅街の端にある若干急峻な階段を上ると、頼朝公の立派な墓石がありました。
そこは、鎌倉期に幕府政所などが在った大倉第の一画に在り、かつては墓石を覆う堂于(法華堂)もあったようなんですが、現在は、鬱蒼とした木々に囲まれて、幕府開祖の墓域としては、些か寂しいものを感じました。
ちなみに、現在の形に整備したのは、自称頼朝公後胤の島津重豪(薩摩藩9代藩主)で、とても誇らしげな石碑もありましたが、これにはちょっと(苦笑)してしまいました。

この次に向かったのは、目的地の近く,二階堂の大倉山杉本寺(杉本観音)です。
縁起によると、行基大僧正が天平年間に創建した鎌倉随一の古刹で、十一面観音を祀っているそうです。
ここには初めて来ましたが、本堂へと続く石段は、鬱蒼とした木々に囲まれて薄暗く、階下の金沢街道は、この時も、多くの車が行き交っていましたが、その喧騒は、石段を数段上がる、はや静かに掻き消されるほどでした。

なんとなく、「かごめかごめ♪」と聞こえてきそうな、よく言えば、ノスタルジックな雰囲気です。
また、悪く言うと・・・仁王門はこの時修復工事中でしたが、本堂は茅葺でしたが、少し雑然さが目立ち、幾分廃れた感じがあり、時代から取り残された雰囲気が・・・します。
受付も、やってる?!と思うほど、か細く静かでしたから(^^ゞ

ちなみに、寺域含めたこの辺りには、中世初期に城(杉本城)が築かれていたそうです。
麓を、鎌倉と相模湾を結ぶ金沢街道が通っているので、なるほど、それなりに重要な拠点だったのでは?!と、思いました。

さて、随分と寄り道をしましたが、漸くこの後、この日目当ての場所へ向かいました。
そこは、杉本寺のすぐ近く,宅間ヶ谷の功臣山報国建忠禅寺です。

鎌倉の2歩目【巨福呂口】<<<<<◇>>>>>鎌倉の4歩目【宅間ヶ谷
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いざ、鎌倉!【2歩目:巨福呂口】

2010年01月05日 | 旅日記
いまから半年以上も前の6月のとある土曜日。
心身共に、何と無く感じてた疲労を解消させるべく向かった鎌倉。
当初は真っ直ぐ目当ての場所へ行くつもりだったんですが、ふと、北鎌倉に着いたら山ノ内の明月院へ行きたくなって、下車して向かいました。
しかし...
ここは、この頃が一番見頃な紫陽花で有名な名刹。
曜日と時間的なものもあったかと思いますが・・・入るだけで列を為す状況にげんなりして、踵を返して鎌倉市街へ,鎌倉街道を歩いて向かいました。
その距離、凡そ2kmらしいです(笑)

横浜方面の大渋滞を他所にテクテクと歩いていると、建長寺の手前で「特別拝観」の札を掲げるお寺さんがありました。
それだけでも十分心惹かれるのに、加えて、「足利尊氏公所縁のお寺」なる看板まであっては立ち寄らねば!と、少し急峻な石段を上がって行きました。

このお寺は【宝亀山長寿禅寺】といい、目と鼻の先に在る巨福山建長興国禅寺(=建長寺)の塔頭を成し、建武前後に足利尊氏の鎌倉邸跡に創建。
その(尊氏)没後、関東に在った子の左兵衛督基氏(鎌倉殿/入間川殿)が、父君の菩提を弔う為に墓(遺髪を埋葬)を設けて堂于を建立し、関東に於ける尊氏公の“菩提寺”と成したそうです。
ゆえに、関東では尊氏公の贈名は「等持院殿」(洛北衣笠の等持院)ではなく「長寿寺殿」(長寿院殿)と称すそうです。
(受付で頂いたパンフレットの「寺略縁起」より)

ここで初めてそれを知りましたが、何ともまた、一門間の対立が日常茶飯事だった足利幕府らしいです(苦笑)

さて、そんなちょっと驚きのお寺さんなんですが、実は、一般公開されるようになったのはつい最近で、その期間も一時期の金・土・日(10時~15時)の“晴天日”だけなんです。
道理で・・・拝観料を徴収する寺院にしては、「関所」が昔の有人改札口の様に随分と簡素だったので、不思議に思ってました。
だから、この日は運良く入れた・・・と、いうことなんです。
私は、雨の鎌倉が好きなんですが...。

不揃いな石段を上がり、小ぢんまりとした茅葺の山門で拝観料(300円)を支払い、パンフレットを頂いていざ、境内へ入ると...
とても雰囲気のいいお庭が、そこにはありました。
まずは、このお庭を自由に散策・・・と行きたいところなんですが、拝観順序が厳しく定められていて(^^ゞ
少しでもそれを反れると、案内掛の人に窘められるでの、山門で受けた案内(指示)通り、正面の本堂へ向かいました。

玄関に入り、靴を下駄箱に置いて上がると、寺務の方から「絵葉書」を勧められます。
3種類程ある中から1種類(1枚)を選び、その方の案内で本堂内の仏間へ。

ここに御座します御本尊様,長寿寺殿(=尊氏公),開山に御挨拶をし、(反転して)縁側へ出ると...
先ほどの趣とは若干異なりますが、やはり、とてもいい感じのお庭が広がっています。
地の一面には黄緑色の鮮やかな苔が広がり、ふと目線を上げると、庭木や築地の向こうにある山々の深緑が楽しめます。

ここは、周囲よりも少し高いところにあるので視界を遮るものが無く、表の喧騒がまるでウソの様に静かで、聞こえてくるのは、カッコウやウグイスなどのさえずりばかり。
その情景がとても清々しく、気持ちよい風景を楽しめて、癒されると共に、新緑の力強さも感じ得た気が・・・します(笑)

しかし、感動的なのはここだけではありません。

本堂の縁側で暫しウットリとした後は、玄関を挟んで隣,西の対にある小方丈へ。
まず、玄関近くにある六畳程の二間で、本堂の裏手にもあるをお庭を楽しました。
それぞれの部屋には赤絨毯が敷かれていて、そこには...
「ここに座ってお庭を楽しんでください」
...と書かれた小さな札が付いています。

ここにも案内が?!(苦笑)と思いつつ、その意に従い、座してみると...
なるほど!
以前、洛北紫野の大徳寺塔頭の高桐院で感動した!状況に(若干)似て、仄暗い部屋から見た外は眩しいくらいに明るいので、庭木の緑がより濃く、映えて見えて、とても落ち着く雰囲気を空間でした。

しかし、その隣にある十畳敷の広間はこれとは趣が異なり、南(東西)に面しているので明りが多く入り、また、間口が広々としているので(本堂裏手の)お庭や本堂をも見渡せ、とても開放的で、お庭の白砂(枯山水)が美しさが、(ここでは)際立って感じました。


1つのお庭を、それぞれ趣きの異なる部屋から堪能した後は、この裏(北=鎌倉街道側)にある書院へ。

ここからの眺めは言うに及ばず,私が一番感動したのは、この床の間です。

これに多くを語る必要はありません。
ただ、心静かに,出来ればお茶を喫しながら堪能(眺め)したいです。。。

さて、建物の中を一通り巡った後は、(漸く)お庭へ。
順路の札と案内掛さんに従って、まずは観音堂。

昔、門と築地があったと・・・と思われる礎を越えて、石畳の先にあるこの堂于は、奈良の名刹に所縁があるとか。。。

これに御挨拶をして、その先へ進むと、ある意味お目当てだった(笑)
長寿寺殿(足利尊氏)のお墓がありました。
境内を一望できる高台の崖を削って設けられた墓域には、風化した不揃いな墓石が何基かありました。
それに、随分と長い歴史を感じましたが、それ以上に、この地理的条件下でよくもまぁ、いまに伝えられたもんだ・・・と、そっちに感動しました。
今でこそ、金網の落石防止ネットで保護されていますが、これが無い時代、何らかの被害に遭った事は無いのか?!などなどが、気になって仕方有りませんでした。

さて、長寿寺殿様に御挨拶を済ませた後は、引き続きお庭の散策に。

先ほど、小方丈から堪能したお庭へと行きましたが...
万緑に囲まれた中、聞こえてくるのは鳥のさえずりだけ。

「ここ、鎌倉だっけ?!」と思うほどの情景が、とても素晴らしかったです。


ただ、昼過ぎに鎌倉入りしたことも有り、この後の予定を考えると、少々足早に回らざるを得なかったのが、返す返すも惜しかったです。
訪れる人が多くなく、この雰囲気をじっくりと堪能できただろうに...。
今度は、もっと時間に余裕を持って訪れたいと思います。
しかし、晴れの日だけ拝観が出来るというのが勿体無い。
管理上、致し方ないんでしょうが・・・私的には、是非とも雨の日に訪れたいです。
そうしたら、きっと、ずーっとお庭を眺めていると思います(笑)

明月院や建長寺などの有名どころを巡るのもいいですが、私はやっぱり、あまり知られてない、穴場的なところを訪れるのが好きですね。

ちなみに、本堂や小方丈などは新造らしく、真新しい木の香りがとっても気持ちよかったです。

さて、思いも寄らぬ感動を得た後、再び目当ての場所へ,鎌倉街道を市街地へ向けて歩いて行きました。

そういえば...
長寿寺内を巡り終えて通用門から出ると、少し幅の広い道に出ました。
人の往来もボチボチあったので、ちょっと、フラッと行きそうになりましたが・・・実は、その道は鎌倉七口の1つ,亀ケ谷坂(切通)だったことを、後で知りました。
この攻略は、次回、時間が許せば是非ともやってみたいです。

鎌倉の1歩目【北鎌倉】<<<<<◇>>>>>鎌倉の3歩目【二階堂
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いざ、鎌倉へ【1歩目:北鎌倉】

2010年01月04日 | 旅日記
遡る事半年も前...
この時、心身ともに何と無くイキ詰る重苦しさを感じていたので、ちょっと気分転換に,特に心理的な最適化をしたくなって、行ってきました,鎌倉へ。

ええ、勿論独りで(TT)

これを思い立ったのは前日・・・なんですが、実は、温泉へ行くか鎌倉へ行くかで(行く間際まで)迷っていたんですが、事前の予報でこの日は「雨が降る」と言うのを思い出し、鎌倉へ行くことにしました。
しかし...
前日(金曜日)は夜遅くに帰り、早く寝ればいいのに、その後、録っておいた「十時半睡事件帖」の最終回を見たので、床に就いたのは夜中の3時。
新聞配達のカブが、静まり返った街中をぶんぶん走り回っている時間です(^^ゞ
それゆえに、起きたのは9時過ぎ。
それからウダウダと身支度を整えて、家を出たのは11時頃。
けど...
鎌倉へ行く!と決めて天気予報を見たら、雨の降る気配はなし。
しかも、薄日が射すほどのまずまずの天気。
ちょいと残念な思いをしながら、いざ!鎌倉へと向かいました。
いや、鎌倉や京都などの古都は、雨の日の方が趣きあっていいんです!(笑)

ウチから鎌倉へは、船橋から総武快速線を使えば楽なんですが、そこは...
なるべく交通費は抑えて(爆)
定期を使って大手町(東西線)まで行き、そこから歩いてすぐの東京駅から横須賀線に乗っていく・・・のが、素直なルートなんですが、調べて見たら、途中、京急を使うともっとお得!だと知って、品川横浜は京急に乗って行きました。
ちょっと前から、京急の2100系(シーメンス社謹製)に乗りたい!と思っていたので、ちょうど良かったです(笑)


横浜で横須賀線に乗換えて、鎌倉入りは13時半頃。
始めは、真っ直ぐ目当ての場所へ行こう・・・と思っていたんですが、ふと思い立ち、寄り道をすべく、鎌倉の手前,北鎌倉で降りて明月院へ向かいました。

かつて、雨の日や如月の頃に行ったことがあるんですが、静かで落ち着けて、趣きあるいいお寺さんだったので、今回立ち寄ることにしたのですが...
北鎌倉の駅を出るまでに、はや行列で(^^ゞ
そして、駅を出ても人人人人・・・で、イヤな予感を抱きながら向かうと、人の流れは殆ど私と同じく明月院。。。
そして、着いてみて、入るまでに行列が。。。
正直、そこまでして入りたいとは思わないし、落ち着いて楽しめないので、踵を返して、鎌倉へ向かって歩いて行きました。

中に入れば、こんな感じです↓


◇>>>>>鎌倉の2歩目【巨福呂口
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いざ!羽田空港!!

2008年04月18日 | 旅日記
日本の4月はの季節!
週末を中心に、全国各地で様々なお祭が挙行されているようで、私が初陣を飾った懐かしき石和の川中島も、今日戦端が開かれているようです。
今年は、かつて上越に参陣()した折に御実城様であらせられた御方が、石和にて再びお立になると聞き、観祭致したかったのですが...

ちょうどその時,父方の母を迎えに羽田空港へ行ってました。

香川に住まう祖母は、卒寿前後。
昨年末から3月中旬まで来て居たのですが、望郷の念が強かったようで、帰郷したのですが、心身が随分と衰えている上に一人暮らし。
何かと不自由が生じていたようで、介護士まで匙を投げてしまったとかで、遂に、郷里を離れてこちらに移住することになりました。
そこで、この日の昼の(JAL)便で着くを祖母を、車で迎えに行きました。

家から、行きは全て一般道で、トンネル好きには堪らない!臨港部を経由し、1時間半程掛けて行って来ました。
ここには、昨年末から3度目ですが、その前に来たのは...彼是12年ほど前。
父方の父の葬礼の時以来なので、初めて同然で観て来ました。

今回は、先に書いた通りJAL便だったので第1ターミナルと接続している駐車場に車を止めて、まず第2ターミナルへ,B1の連絡通路を通って向かいました。

奥が第1ターミナル,右側にチラッと見えるのが、京急羽田空港駅

昨年末に上京された時はANA便だったので、専用ターミナルの第2へ(初めて)来たのですが、飲食店が多く、“活気があって明るい”というのが第一印象でした。
しかも、こちら側が海側になるので、その景色にも誘われて来ましたが、生憎この日は曇天。
それでも、内外含めて大勢の人が居て、中にはお弁当(空弁?!)を食べながら、行き交う飛行機を眺めていました。

昨年末は、空気が乾燥していた上に風が強かった出の、見晴らしはとてもよかったですよ。

真っ黒なスターフライヤーの手前は、プロペラ機です。まだ、航行していたんですね。

ただ、他方滑走路には離陸待ちの飛行機が鈴なりになり、その時を待っていました。

ちょっと画像が悪くて見え辛いですけど(^^ゞ...

この後、今度はターミナル間無料連絡バス乗って、第1ターミナルへ向かいました。

その途中、国際線ターミナルを経由して行くのですが、バス待ちで長蛇の列が出来ていて、あっという間に満員に。
中へ入りきれない人がステップに立ったままだったので扉が閉まらず、運転手さんが「もうちょっと中へお入りください」と呼び掛けていましたが、さしたる反応が無く、近くにいた人のジェスチャーで漸く理解し、そこから移動したので扉が閉まり、バスが発車出来たのですが...異国人には、中々どうして難しいでしょうね。。。


第1ターミナルはJALが中心なのですが、第2と比べると・・・どうも活気が無く、寂しい感じがします。
不祥事続きの会社事情は反映しているのでしょうか...。
ただ、こちらには、私が贔屓にしている福岡【ふくや】の小さな支店があるので、ここで和え物明太を買って、呼び出しの掛かった場所へ車を移動させました。

帰りは夕方前でしたが、この時間は大概(千葉の)一般道は渋滞していてにっちもさっちも行かなくなるので、首都高東関道を使って行きました。
この読み通りか,道は概ね順調だったので快速運転で、実に気持ちいい!運転が出来、家には行きの半分以下の時間で着きました。
行きの湾岸道路では、覆面に捕まった車(瞬間)を見たので、気持ち冷や冷やしていましたがけど、何とかゴールド維持してます(/--)

ターミナル内は飲食店ばかりな感じがしますが、この他にも、ATM等は勿論,銀行郵便局もあり、診療所から身嗜み整える各種施設,はたまた神社まであって、さながら一つの街の様。
下手なショッピングモールへ行くよりも、楽しめていいかもしれません。
しかも、いま、東京モノレールJR東日本グループの強みを活かして、羽田から山手線各駅まで500円で行ける切符を発売していて、これを使えば、通常よりも最大220円程お得なので、この期間にもう一度,天気の良い祝日に行って見よう・・・かな、と思います。
展望デッキで、お弁当(空弁)でも食べながら飛行機の離発着を見ていれば、旅行気分が味わえますからね。(無理(爆))

※ケータイのカメラ設定が、接写モードになっていたので見辛い点は...ご容赦ください。
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帰るは地獄?!

2006年09月25日 | 旅日記
2泊3日の“みちのく二人旅”から、今日,帰って来ました。
行きは全て一般道で、家を2時半前に出て、途中,惟新殿と合流し、一関猊鼻渓に着いたのが12時半。

中日は、意外に豪華で圧巻だった歴史祭を堪能。

帰りは、一般道をひたすら・・・の予定も、翌日からの仕事という現実を思うと気鬱になり、福島から常磐道に乗って、帰って来ました。
この日の出発地は宮城松島で、13時半頃立ち、惟新殿と分かれてから、家に着いたのが21時前。
この詳細なレポは、後日,謙信公祭のレポの後に上げるつもりですが、実に濃く,面白い3日間でした。

それが、明日から一気に現実へと引き戻される,その不幸に今、ただただ気鬱に思っています(爆)

あ~ぁ、またあの分厚い牛たんが・・・
あ~ぁ、美味すぎるあの海の幸を・・・
あ~ぁ、あの温か味ある東北弁を・・・また、堪能したいなぁ...。
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