心のリフレッシュをしたくて、昨年の6月末に鎌倉へ行って来ました。
所々を寄り道をしながら、一番行きたかった報国寺と竹林でリフレッシュをしてから、陽も傾き始めたので、岐路に着くべく鎌倉駅目指して行きました。
金沢街道を歩いて行けば、無難に着くと思うのですが、それではつまらないので、平行して通る住宅街の路地を歩いて行きました。
すると、[←釈迦堂切通]という案内道標を見付けたので、ちょっと導かれてみました。
案内道標から暫く歩くと、確かに、切通の口がありましたが、そこには...
こんな看板と、形ばかりの柵がありました。
けど、ええ、行ってみました。
この看板(切通口)の側には、有志の方々が立てた由来の石碑があり、それによると、この近くには北条泰時(3代目執権)が、父の徳宗義時の菩提を弔う為に釈迦堂を建立したそうです。
ただし、今、それがどの辺に在ったかは不明ですが、ご本尊の御釈迦様(清涼寺式釈迦如来像)は、目黒行人坂の大円寺で祀られているそうです。
大円寺といえば、目黒雅叙園とホリプロの前に在るお寺さんですが、明和9年(安永元年)に江戸市中を焼け野原にして、多くに被災者(1ヶ月前に老中となったばかりの田沼意次の神田橋の上屋敷も焼失)を出した「目黒行人坂の大火」の火元として、80年近く経った幕末まで再建が許されませんでした。
そこに、なぜ在るのか,その軌跡が実に気になるところです...
さて、切通しは看板と柵から先は未舗装の道で、両側の崖に陽射しを遮られて、幾分ぬかるんでいましたが、天辺に行くにしたがって、地面も岩盤なのか、固く、ぬかるみも無くなってました。
道幅は、住宅街の道程度で、それほど狭くはありません。
柵から、鬱蒼とした木々に囲まれた、幾分緩やかな坂道を暫く登ると、切通しの天辺に着きます。
地図サイトで測ったら、130mほどしかありませんでしたが、感覚的には、それよりも距離があるように思えます。
切通しの天辺は、道の行く手を阻んでいた岩盤を、いかにも刳り貫いた洞門になっていました。
これが、いつの時代に通されたものかは解りませんが、もし、鎌倉期からのであるとすれば・・・と考えると、ちょい、興奮してきます(笑)
切通しの天辺の先にも、勿論道は続いていて、その先は、登ってきた道よりも傾斜のきつい坂道になっていました。
時間と地図もしくはケータイのえねるぎーがまだ有れば、坂を下って行って見たかったんですが・・・今回は、断念しました。
なんとなく、天辺まで行けて満足しましたし(笑)
天辺から見る限りでは、この先、まだまだ切通しが続く・・・と思えたのですが、のちほど、地図を広げて調べてみると、仕切りは、登ってきた口よりも短いところにあったようです。
また、切通しが鎌倉市浄明寺(1丁目)と大町(3丁目)の境になっていて、あのまま下っていくと、名越,松葉ヶ谷に出られたようです。
また、地図を広げて判ったんですが、この天辺の近く,衣張山には伝北条時政邸があるそうですが、近年の発掘調査の結果、違うのでは?!と、言われているようです。
最も古い遺構でも、13世紀後半までしか遡る事が出来ないらしいですが、ひょっとしたら、ここが、所在の判っていない釈迦堂だった・・・というのは、未だ邪推の域・・・ですね(^^ゞ
さて、切通しの天辺で折り返して、今度こそ、鎌倉駅を目指して行きました。
時刻は17時頃。
初夏とはいえ、陽が西に傾き始めて、切通しも、木々に覆われている所為で余計に薄暗くなってきましたが、登ってくる人は結構いました。
中には、人力車のガイドコースになっているのか,車引きに誘われて来る人たちもいました。
住宅街まで下り、鎌倉駅目指して路地を進むと、道端には、この時盛りの紫陽花が咲き誇っていました。
ここで、明月院の無念が晴らせた気がしました(笑)
釈迦堂の切通口を経って20分ほどか,あと少しで鎌倉駅というところで、[←東勝寺跡]の案内道標を見つけてしまいました。
けど・・・北条一門と郎党,八百数拾余が最期を遂げた場所には、ちょっと行き難く、そのまま通り過ぎて行くと、今度は、門扉に三つ鱗を付しているお寺さんを見つけてしまいました。
葛西ヶ谷の金龍山宝戒寺(釈満院円頓宝戒寺)です。
門前の寺縁によると、ここには北条執権邸があり、鎌倉幕府と運命を共にした北条一門等の菩提を供養するために、足利尊氏公が(後醍醐天皇の発願によって)建立されたそうです。
北条家と鎌倉幕府滅亡後の、主に鎌倉と東国の安定を視野に入れた建立にも感じられますが、やはり、滅亡した北条家と、建立の立役者が北条家の縁者である足利尊氏公であることに、少し、ものの哀れを感じました。
心のリフレッシュと、運動不足の解消も結果的に兼ねた今回の鎌倉巡り。
偶然にも、鎌倉府の始まり[長寿寺]と終わり[報国寺]を巡ったのは、不思議な縁を(少し)感じました。
帰り、鎌倉駅から横須賀線に乗ろうホームに行くと、ものすごい人人人...。
どうやら、どこかでトラブルがあったようで、ダイヤが乱れていました。
歩き回ってクタクタで、座ってゆっくり寝ていこうと思っていたのに、これでは無理だ・・・と判断し、ちょうど来た下りの電車に乗って逗子に行き、そこから始発の電車に乗って行きました。
ダイヤ乱れの所為で、総武快速線への直通が無く、東京で乗換えを強いられたのは無念ですが、そこまではぐっすりと寝て行けたのがよかったです。
あのまま、鎌倉駅から乗っていたら、絶対に座れなかったです。
鎌倉の4歩目【宅間ヶ谷】<<<<<◇>>>>>鎌倉の1歩目【北鎌倉】
所々を寄り道をしながら、一番行きたかった報国寺と竹林でリフレッシュをしてから、陽も傾き始めたので、岐路に着くべく鎌倉駅目指して行きました。
金沢街道を歩いて行けば、無難に着くと思うのですが、それではつまらないので、平行して通る住宅街の路地を歩いて行きました。
すると、[←釈迦堂切通]という案内道標を見付けたので、ちょっと導かれてみました。
案内道標から暫く歩くと、確かに、切通の口がありましたが、そこには...
こんな看板と、形ばかりの柵がありました。
けど、ええ、行ってみました。
この看板(切通口)の側には、有志の方々が立てた由来の石碑があり、それによると、この近くには北条泰時(3代目執権)が、父の徳宗義時の菩提を弔う為に釈迦堂を建立したそうです。
ただし、今、それがどの辺に在ったかは不明ですが、ご本尊の御釈迦様(清涼寺式釈迦如来像)は、目黒行人坂の大円寺で祀られているそうです。
大円寺といえば、目黒雅叙園とホリプロの前に在るお寺さんですが、明和9年(安永元年)に江戸市中を焼け野原にして、多くに被災者(1ヶ月前に老中となったばかりの田沼意次の神田橋の上屋敷も焼失)を出した「目黒行人坂の大火」の火元として、80年近く経った幕末まで再建が許されませんでした。
そこに、なぜ在るのか,その軌跡が実に気になるところです...
さて、切通しは看板と柵から先は未舗装の道で、両側の崖に陽射しを遮られて、幾分ぬかるんでいましたが、天辺に行くにしたがって、地面も岩盤なのか、固く、ぬかるみも無くなってました。
道幅は、住宅街の道程度で、それほど狭くはありません。
柵から、鬱蒼とした木々に囲まれた、幾分緩やかな坂道を暫く登ると、切通しの天辺に着きます。
地図サイトで測ったら、130mほどしかありませんでしたが、感覚的には、それよりも距離があるように思えます。
切通しの天辺は、道の行く手を阻んでいた岩盤を、いかにも刳り貫いた洞門になっていました。
これが、いつの時代に通されたものかは解りませんが、もし、鎌倉期からのであるとすれば・・・と考えると、ちょい、興奮してきます(笑)
切通しの天辺の先にも、勿論道は続いていて、その先は、登ってきた道よりも傾斜のきつい坂道になっていました。
時間と地図もしくはケータイのえねるぎーがまだ有れば、坂を下って行って見たかったんですが・・・今回は、断念しました。
なんとなく、天辺まで行けて満足しましたし(笑)
天辺から見る限りでは、この先、まだまだ切通しが続く・・・と思えたのですが、のちほど、地図を広げて調べてみると、仕切りは、登ってきた口よりも短いところにあったようです。
また、切通しが鎌倉市浄明寺(1丁目)と大町(3丁目)の境になっていて、あのまま下っていくと、名越,松葉ヶ谷に出られたようです。
また、地図を広げて判ったんですが、この天辺の近く,衣張山には伝北条時政邸があるそうですが、近年の発掘調査の結果、違うのでは?!と、言われているようです。
最も古い遺構でも、13世紀後半までしか遡る事が出来ないらしいですが、ひょっとしたら、ここが、所在の判っていない釈迦堂だった・・・というのは、未だ邪推の域・・・ですね(^^ゞ
さて、切通しの天辺で折り返して、今度こそ、鎌倉駅を目指して行きました。
時刻は17時頃。
初夏とはいえ、陽が西に傾き始めて、切通しも、木々に覆われている所為で余計に薄暗くなってきましたが、登ってくる人は結構いました。
中には、人力車のガイドコースになっているのか,車引きに誘われて来る人たちもいました。
住宅街まで下り、鎌倉駅目指して路地を進むと、道端には、この時盛りの紫陽花が咲き誇っていました。
ここで、明月院の無念が晴らせた気がしました(笑)
釈迦堂の切通口を経って20分ほどか,あと少しで鎌倉駅というところで、[←東勝寺跡]の案内道標を見つけてしまいました。
けど・・・北条一門と郎党,八百数拾余が最期を遂げた場所には、ちょっと行き難く、そのまま通り過ぎて行くと、今度は、門扉に三つ鱗を付しているお寺さんを見つけてしまいました。
葛西ヶ谷の金龍山宝戒寺(釈満院円頓宝戒寺)です。
門前の寺縁によると、ここには北条執権邸があり、鎌倉幕府と運命を共にした北条一門等の菩提を供養するために、足利尊氏公が(後醍醐天皇の発願によって)建立されたそうです。
北条家と鎌倉幕府滅亡後の、主に鎌倉と東国の安定を視野に入れた建立にも感じられますが、やはり、滅亡した北条家と、建立の立役者が北条家の縁者である足利尊氏公であることに、少し、ものの哀れを感じました。
心のリフレッシュと、運動不足の解消も結果的に兼ねた今回の鎌倉巡り。
偶然にも、鎌倉府の始まり[長寿寺]と終わり[報国寺]を巡ったのは、不思議な縁を(少し)感じました。
帰り、鎌倉駅から横須賀線に乗ろうホームに行くと、ものすごい人人人...。
どうやら、どこかでトラブルがあったようで、ダイヤが乱れていました。
歩き回ってクタクタで、座ってゆっくり寝ていこうと思っていたのに、これでは無理だ・・・と判断し、ちょうど来た下りの電車に乗って逗子に行き、そこから始発の電車に乗って行きました。
ダイヤ乱れの所為で、総武快速線への直通が無く、東京で乗換えを強いられたのは無念ですが、そこまではぐっすりと寝て行けたのがよかったです。
あのまま、鎌倉駅から乗っていたら、絶対に座れなかったです。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます