今年で4回目を迎えたこの時代祭。
これを観る為に、私は白石へ3度来ていますが、その一度も、名物を食らわずに帰っていました。
その名物とは、温麺なるモノです。
かつて、JR東日本のCMで吉永小百合さんが美味しそ~に食していたので印象深く、まつり会場で食べられるか?!と、毎度毎度探しているんですが...
見つかったのはお土産用だけ。
しかも、戦国BASARAのパッケージがされた商品のみ。
私には、正直全く興味が向かない商品なので、常々どうしたものか・・・と思っていたんですが、今回は、メインたる道明寺合戦まで時間の余裕があったので、思い切って城下へ、温麺が食せる店を探しに出ました。
しかし...
食べ終わった後、歴史探訪ミュージアムの1階で“温麺マップ”を見付けましたが、城下に出た時は何の情報源もなかったので、食べログで探して、白石駅の目の前に在った【なかじま】というお店に入って温麺を食しました。
注文したのは“とろろ月見温麺”。
この日から10月で、メニューも秋冬モノに入れ替わったとかで“牡蠣温麺”なるモノもありまりましたが、↑のを注文し終わった後で・・・何とも、何とも残念なことをしました。。。
この日は土曜日だったからか、小学生くらいの女の子2人が、お母さんの指導を受けながら、健気にお店の手伝いをしていました。
私が注文した品のも、その女の子をが給仕てくれましたが、大盛りを頼んだので、重かったのか、手元が若干覚束無く、溢して火傷でもしてしまったら一大事!と思って、すぐさま手を添えてお盆を受け取りましたが、その可愛らしさに心癒されました(笑)
・・・して、肝心のお味なのですが・・・
なるほど、胃の腑の病にあった親の食を助けるために考案されたという謂れがある温麺。
生姜の効いたスープがさっぱりしていて、ここ最近、あまり胃の調子がよくなかったので、快調に向かわせるよい効果をもたらすな・・・と感じました。
けど、女将代理に大盛りを勧められましたが、普通盛りでも十分・・・だったと思います(^^ゞ
念願の温麺を食してから、また白石城へ。
道明寺の開戦10分ほど前に戻れたので、いつも陣取っている裏御門近くの木陰から、その時を待ちました。
ただ、、、
城内には多くの人が居るんですが、城外、城下にはあまり人が(--ゞ
温麺も、昼時なので並ぶの覚悟で行ったんですが、すんなり入れて肩透かしを喰らった感が。
また、白石駅と白石城とのちょうど中間辺りに在る壽丸屋敷では、御茶席と琴の披露がされていましたが、人は疎ら、、、。
昨年は、ここで御屋敷の中の立派な設えとよき雰囲気に酔いしれながら、美味しいお菓子とお茶を一服頂戴しましたが、時間がよくなかったのか、正直、寂しかったです。
城下には、これほど魅力的なところがあるのに、、、
もう少し、もう少し城下にも人が広がる様にすればいいのに・・・勿体ない・・・と、往復の道すがらにちょい思いました。
ちなみに、10月の14日(金)から16日(日)まで、“白石城下きものまつり”が開催されるとか。
・・・どちらかというと、こっちに興味が強く向いた・・・というのは、ココだけの話で(爆)
さて、時は昼過ぎの13時。
控えていた裏御門より合戦場へ、赤備の大坂方真田勢が先着し、黒備の伊達家片倉勢は片倉鉄砲隊を先陣、弓隊を二番手に据えて、弐列縦隊で入りました。
合戦は、片倉鉄砲隊が火蓋を切り、真田方がこれに応戦。
両勢鉄砲隊による号砲の後、両勢が2度ほど白兵戦を繰り広げ、この合間に、殺陣や(白石)城天守より(消防隊による)忍衆の加勢、片倉弓隊(弓道部の高校生)の斉射が行われて、合戦は終結。
この後、この道明寺の合戦が再現されるきっかけとなった、真田左兵衛佐が娘・阿梅が片倉家に預けられるの以って、閉幕します。
天守から下へ、梁にしっかりと結ばれた綱から、忍衆が次々と現れます!
この光景は、いまもそうですが、初めて見た時は驚き、度肝を抜かれました。
そして、いい演出・・・と、感心しました(^^ゞ
時刻は13:50。
・・・予定だと、14:30頃まで合戦が展開されるはずだったんですが、あまりに早くこれが終了。
それこそ、何か抜けたのでは?!と、勘ぐってしまうほど、早くに終わりました。。。
うーむ、惜しい、実に惜しいです。
この後、サミットの第弐部まで空いた時間を奥州片倉組が急遽、(第弐部の)忍城甲冑隊や伊達武将隊が登場されるまで繋いでおられました。
この間、城内をウロウロとしていたら、裏御門近くで今回の目玉さんである森川さんが帰るところに遭遇。
・・・ですが、私はあまり関心が無かったので、記憶に収めただけでスルーしましたが、これを目敏く見付けたファンが次々と現れて、あっ!と言う間に黒山の人だかり。
牛歩の様に進みながらも、カメラやらサインやら握手やらを求められ、それに応じている森川さん・・・の光景の方が、私は面白かったです。
陽も少し傾き始めた頃、サミットの第弐部も終わり、今回の鬼小十郎まつりの全プログラムも終了。
この後、恒例の“記念撮影大会”に!
白石に参じられた全武将隊との集合写真に続き、各武将隊、そして、武将毎の個撮へと移っていきましたが、相変わらず、熱気と勢いは凄かったです。
それはもう、他の時代祭では、、、
先日、我が街と縁深い大多喜町のお城まつりに参じて来ましたが、カメラを、しかも、一眼レフなどの立派なのを持って撮影したりしている多くは、年配の男性。
それに比べて、白石は女性ばかり。
その、伊達家の方々の今も衰えない人気の高さを実感して、白石城を後にしました。
時刻は16時頃。
このまますんなりと帰ってしまうのも勿体ないので、今まで一度も行ったことのない、片倉家の菩提寺へ向かいました。
菩提寺までの途中には、今回はあまり時間が無かったので門前を通過しただけですが、白石城の“時の太鼓”が残されている時宗の白石山常林寺や、真田左兵衛佐が家臣・三井奉膳が開いた法源山清林寺(浄土真宗本願寺派)も在ります。
そして、白石城から歩いて10分ほど。
奥州白石城主片倉家(伊達陸奥守家一家)の菩提寺である常英山傑山寺(臨済宗妙心寺派/こんな感じ)に着きます。
寺名は、白石片倉家初代の小十郎景綱公の戒名が由来で、本堂の裏手の山にその墓がありますが、敵に暴かれないように・・・と墓石は設けず、代わりに一本の杉を植えたそうです。
その一本杉は、いまも、鬱蒼と茂る木立の中でも一際立派に、天に向かって真っ直ぐ伸びていました。
そして、次代以降の片倉家当主は、ここから少し離れた墓域に眠っています。
しかし、その墓石は一風変わっていて、お地蔵様でした。
残念ながら、土台の石の表面は劣化していたよく読み取れませんでしたが、それにしても、その成りは初めて見るもので、その経緯に興味がそそられました。
ここ傑山寺には、この他にも蝦夷松前から来て遇され、伊達家に仕えることとなった松前安廣(福山城主松前伊豆守慶廣が子)とその後裔も眠っています。
こちらの墓石は、一般的な墓石によるものですが、私の身の丈以上の、大きなものでした。
まつりが終わってからだったので、少々駆け足でしたが、ここ傑山寺は戊辰戦争の折には武士の詰所だったとか。
本堂も、近年建て替えられたばかりのようですし・・・今度、機会があればゆっくりと来てみたいです。
これを観る為に、私は白石へ3度来ていますが、その一度も、名物を食らわずに帰っていました。
その名物とは、温麺なるモノです。
かつて、JR東日本のCMで吉永小百合さんが美味しそ~に食していたので印象深く、まつり会場で食べられるか?!と、毎度毎度探しているんですが...
見つかったのはお土産用だけ。
しかも、戦国BASARAのパッケージがされた商品のみ。
私には、正直全く興味が向かない商品なので、常々どうしたものか・・・と思っていたんですが、今回は、メインたる道明寺合戦まで時間の余裕があったので、思い切って城下へ、温麺が食せる店を探しに出ました。
しかし...
食べ終わった後、歴史探訪ミュージアムの1階で“温麺マップ”を見付けましたが、城下に出た時は何の情報源もなかったので、食べログで探して、白石駅の目の前に在った【なかじま】というお店に入って温麺を食しました。
注文したのは“とろろ月見温麺”。
この日から10月で、メニューも秋冬モノに入れ替わったとかで“牡蠣温麺”なるモノもありまりましたが、↑のを注文し終わった後で・・・何とも、何とも残念なことをしました。。。
この日は土曜日だったからか、小学生くらいの女の子2人が、お母さんの指導を受けながら、健気にお店の手伝いをしていました。
私が注文した品のも、その女の子をが給仕てくれましたが、大盛りを頼んだので、重かったのか、手元が若干覚束無く、溢して火傷でもしてしまったら一大事!と思って、すぐさま手を添えてお盆を受け取りましたが、その可愛らしさに心癒されました(笑)
・・・して、肝心のお味なのですが・・・
なるほど、胃の腑の病にあった親の食を助けるために考案されたという謂れがある温麺。
生姜の効いたスープがさっぱりしていて、ここ最近、あまり胃の調子がよくなかったので、快調に向かわせるよい効果をもたらすな・・・と感じました。
けど、女将代理に大盛りを勧められましたが、普通盛りでも十分・・・だったと思います(^^ゞ
念願の温麺を食してから、また白石城へ。
道明寺の開戦10分ほど前に戻れたので、いつも陣取っている裏御門近くの木陰から、その時を待ちました。
ただ、、、
城内には多くの人が居るんですが、城外、城下にはあまり人が(--ゞ
温麺も、昼時なので並ぶの覚悟で行ったんですが、すんなり入れて肩透かしを喰らった感が。
また、白石駅と白石城とのちょうど中間辺りに在る壽丸屋敷では、御茶席と琴の披露がされていましたが、人は疎ら、、、。
昨年は、ここで御屋敷の中の立派な設えとよき雰囲気に酔いしれながら、美味しいお菓子とお茶を一服頂戴しましたが、時間がよくなかったのか、正直、寂しかったです。
城下には、これほど魅力的なところがあるのに、、、
もう少し、もう少し城下にも人が広がる様にすればいいのに・・・勿体ない・・・と、往復の道すがらにちょい思いました。
ちなみに、10月の14日(金)から16日(日)まで、“白石城下きものまつり”が開催されるとか。
・・・どちらかというと、こっちに興味が強く向いた・・・というのは、ココだけの話で(爆)
さて、時は昼過ぎの13時。
控えていた裏御門より合戦場へ、赤備の大坂方真田勢が先着し、黒備の伊達家片倉勢は片倉鉄砲隊を先陣、弓隊を二番手に据えて、弐列縦隊で入りました。
合戦は、片倉鉄砲隊が火蓋を切り、真田方がこれに応戦。
両勢鉄砲隊による号砲の後、両勢が2度ほど白兵戦を繰り広げ、この合間に、殺陣や(白石)城天守より(消防隊による)忍衆の加勢、片倉弓隊(弓道部の高校生)の斉射が行われて、合戦は終結。
この後、この道明寺の合戦が再現されるきっかけとなった、真田左兵衛佐が娘・阿梅が片倉家に預けられるの以って、閉幕します。
天守から下へ、梁にしっかりと結ばれた綱から、忍衆が次々と現れます!
この光景は、いまもそうですが、初めて見た時は驚き、度肝を抜かれました。
そして、いい演出・・・と、感心しました(^^ゞ
時刻は13:50。
・・・予定だと、14:30頃まで合戦が展開されるはずだったんですが、あまりに早くこれが終了。
それこそ、何か抜けたのでは?!と、勘ぐってしまうほど、早くに終わりました。。。
うーむ、惜しい、実に惜しいです。
この後、サミットの第弐部まで空いた時間を奥州片倉組が急遽、(第弐部の)忍城甲冑隊や伊達武将隊が登場されるまで繋いでおられました。
この間、城内をウロウロとしていたら、裏御門近くで今回の目玉さんである森川さんが帰るところに遭遇。
・・・ですが、私はあまり関心が無かったので、記憶に収めただけでスルーしましたが、これを目敏く見付けたファンが次々と現れて、あっ!と言う間に黒山の人だかり。
牛歩の様に進みながらも、カメラやらサインやら握手やらを求められ、それに応じている森川さん・・・の光景の方が、私は面白かったです。
陽も少し傾き始めた頃、サミットの第弐部も終わり、今回の鬼小十郎まつりの全プログラムも終了。
この後、恒例の“記念撮影大会”に!
白石に参じられた全武将隊との集合写真に続き、各武将隊、そして、武将毎の個撮へと移っていきましたが、相変わらず、熱気と勢いは凄かったです。
それはもう、他の時代祭では、、、
先日、我が街と縁深い大多喜町のお城まつりに参じて来ましたが、カメラを、しかも、一眼レフなどの立派なのを持って撮影したりしている多くは、年配の男性。
それに比べて、白石は女性ばかり。
その、伊達家の方々の今も衰えない人気の高さを実感して、白石城を後にしました。
時刻は16時頃。
このまますんなりと帰ってしまうのも勿体ないので、今まで一度も行ったことのない、片倉家の菩提寺へ向かいました。
菩提寺までの途中には、今回はあまり時間が無かったので門前を通過しただけですが、白石城の“時の太鼓”が残されている時宗の白石山常林寺や、真田左兵衛佐が家臣・三井奉膳が開いた法源山清林寺(浄土真宗本願寺派)も在ります。
そして、白石城から歩いて10分ほど。
奥州白石城主片倉家(伊達陸奥守家一家)の菩提寺である常英山傑山寺(臨済宗妙心寺派/こんな感じ)に着きます。
寺名は、白石片倉家初代の小十郎景綱公の戒名が由来で、本堂の裏手の山にその墓がありますが、敵に暴かれないように・・・と墓石は設けず、代わりに一本の杉を植えたそうです。
その一本杉は、いまも、鬱蒼と茂る木立の中でも一際立派に、天に向かって真っ直ぐ伸びていました。
そして、次代以降の片倉家当主は、ここから少し離れた墓域に眠っています。
しかし、その墓石は一風変わっていて、お地蔵様でした。
残念ながら、土台の石の表面は劣化していたよく読み取れませんでしたが、それにしても、その成りは初めて見るもので、その経緯に興味がそそられました。
ここ傑山寺には、この他にも蝦夷松前から来て遇され、伊達家に仕えることとなった松前安廣(福山城主松前伊豆守慶廣が子)とその後裔も眠っています。
こちらの墓石は、一般的な墓石によるものですが、私の身の丈以上の、大きなものでした。
まつりが終わってからだったので、少々駆け足でしたが、ここ傑山寺は戊辰戦争の折には武士の詰所だったとか。
本堂も、近年建て替えられたばかりのようですし・・・今度、機会があればゆっくりと来てみたいです。
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