郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

波賀城と城主中村氏のこと 

2020-01-05 18:48:29 | 城跡巡り
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波賀城と城主中村氏のこと   

因幡街道の要衝に建つ波賀城

 中村氏の城は播磨の北部の波賀町上野にあり、単独峰の城山(標高358m、比高220m)の頂上にある。西側の引原川に面したところに小山(古城)があり砦として機能したようである。城の位置は、北は因幡国(鳥取県)との国境に近く、東は三方から但馬に通じ、西は千種町から美作国(岡山県)に通じる交通の要衝に位置する。

 城跡は、主郭を中心にそれを取り巻く帯曲輪、南に数段の曲輪、石垣等が配置されている。平成4年の発掘調査によると石垣・石積や備前焼・天目茶碗の破片等の遺物が出土し、石積の技法が中世から近世の特徴を合わせ持つ貴重なもので石垣の通路から土壁の跡が発見されていることから羽柴秀吉が播磨を制圧したときに拡張整備し北の守りの拠点としたものではないかと指摘されている。







 私見では宇野氏の長水城落城後の翌年天正9年(1581)に始まる鳥取城攻めのための布石として山陽道から因幡への最短コース上にある波賀城と若桜鬼ケ城(鳥取市若桜町)を結ぶ兵站(へいたん)基地として利用した可能性が高いと思っている。


中村氏の出自と中世・戦国期の主な動き 
 
 中村氏は武蔵国秩父(埼玉県秩父市)中村郷が姓名の地である。鎌倉幕府御家人で武家集団である武蔵七党の一つ秩父丹党に属し、鎌倉末期の正応3年(1290)秩父より播磨国三方西荘(波賀町)に地頭として移り住んでいる『関東下知状』。「中村・皆木・大河原は兄弟三人の流れ也。皆木は中村を号し、大河原は中村を号せず。」とある『蔭涼軒日録』。

 その後御醍醐天皇による建武の新政(1333)では、播磨は新田義貞の所領となり、三方西荘は大徳寺に寄進された。しかし天皇による新政は続かず、足利尊氏が天皇にそむき、南北朝の時代に入った。このとき、中村氏は尊氏の有力与党である赤松則村(円心)に従っている。
 赤松惣領家の四代目の満祐が起こした嘉吉の乱(1441)により、播磨は山名氏の所領となった。
 赤松氏は応仁・文明の乱を期に播磨を奪回した。天文11年(1541)尼子晴久の播磨侵入に際しては、赤松当主晴政は敢え無く逃亡し、播磨の大半は尼子氏に従った。この時中村三郎左衛門は尼子に与していたことが、尼子家臣から領地を与える旨の書状を所持していることからわかる。

 天正8年(1580)羽柴秀吉の播磨侵攻による宇野攻めに中村氏は秀吉軍に与している。
 天正11年(1583)秀吉の九州攻略には中村吉宗が参加している。慶長年間(1596~1615)には姫路城主池田輝政に郷士格として仕えている。
慶安5年(1652)までの間に、二百石、百石の地侍となっている。延宝6年(1678)宍粟藩の池田恒行が死去し宍粟藩が絶えたときの引継ぎ書類の中の『宍粟江戸両所罷在人数帳』に「五十石 有賀村地侍 中村九郎左衛門」と見えるが、それ以後の動きは不明である。




▲中村九郎左衛門の墓(興国寺) 



中村姓の系譜

 東播磨の金鏙城(かなつるべじょう)(加東郡河合村・現小野市)の城主の中村氏は、間島氏に従って赤松再興に尽くした中村一族と考えられる。
 もう一つの系譜は承久の乱(1221)後、美作国弓削庄(岡山県久米郡)に移った一族に中村則久、大河原真久がいた。この二人は守護赤松政則・義村のとき美作国守護代の実権を得たが、赤松義村と宿老浦上村宗との内部抗争に中村則久が浦上に味方し、大河原氏が赤松に味方したため同族相まみえている。永正17日年(1520)則久は美作・岩屋城(岡山県旧久米町)に立て籠り、赤松軍の大将小寺則職を壊滅させ赤松を弱体化させている。

 武蔵七党の武将達が西遷後に安賀八幡神社・広峯神社(姫路市)・秩父神社(秩父市)への太刀の奉納や諏訪神社(波賀町小野)の建立によって貴重な文化財が残され、波賀町に土着し戦国の世をからくも生き延びた中村当主は地域史にその名を刻んでいる。
  武蔵七党と武将たちが残したものから、彼らが遠き故郷秩父を思う心情が伝わる。





▲広峰神社の奉納の太刀 (国宝)  銘文により、嘉暦4年(1329)大河原時基が備中長船の刀匠に太刀を打たせ、広峰神社に奉納したことがわかる。この刀に使った鉄は宍粟鉄(千草鉄)といわれている。 




▼安賀八幡神社                       ▼広峯神社

 




秩父神社                            諏訪神社

 



参考文献:『波賀町史』、『西播磨の中世 鳥羽弘毅』、『第五集 波賀城 藤原孝三』、『中村時之助文書と史料 中村為市』、『web 落穂ひろい ふーむ』


※山崎郷土会報NO.130 平成30.3.25発行より転載。 写真カラー化及び追加



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播磨・但馬 田路氏の城をめぐる

2020-01-05 17:07:59 | 城跡巡り
播磨・但馬 田路氏の城をめぐる


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 田路(とうじ)氏という地元以外では難読の苗字は但馬国朝来郡田路谷(朝来市)が発祥の地とされる。田路谷は円山川支流の田路川流域にあり、古くは田道荘(たじのしょう)(荘園)があった地で“たじ”と呼ばれていた。

 田路氏は関東の千葉氏出自の御家人で、朝来郡田路谷から宍粟郡三方谷へ進出した国人と言われている。但馬朝来郡と播磨宍粟郡の境目の領主で、宍粟郡北部の三方東庄(一宮町)に本城をおき、福知の高取山城と草木の草置城を支城として、但馬朝来郡田路谷につづく千町(宍粟郡一宮町)越えのルートを押さえていたと考えられている。

 田路家文書には仕えた主君・武将からの感状(軍忠状)が残されている。列記すると赤松惣領家赤松政則(置塩城主)、赤松政秀(龍野城主)、尼子晴久(出雲・月山富田城主)、山名氏家臣太田垣朝延(竹田城主)、羽柴秀吉の名のある武将からの軍功の文書である。田路氏は赤松惣領家に属していたが、戦国時代には対立する主君でさえ状況に応じて柔軟な対応のできる一族集団であったと思われる。田路氏は天正8年(1580)羽柴秀吉軍の宇野攻めに秀吉方に組みし、赤松則房の指揮下のもと長水城攻めに加わっている。一方、朝来の田路城にいた田路一族は天正年間に秀吉軍にことごとく一掃されたようである。


田路氏の城跡

三方山城跡(一宮町三方町)




 御形神社の西方に見える山の南尾根先端部(標高382・5メートル)にある。主郭(約26×9メートル)と出郭、主郭背後に大堀切をもつ小規模な山城跡である。田路氏が本拠とした城で、東の山裾に屋敷跡があったと考えられる。



高取城跡(一宮町福知)




 福知渓谷の入り口の字高取の北にそびえる高取山(標高608メートル)の頂上部にある。頂上部は狭く、わずかな土塁と削平地が認められるが遺構は明確ではない。南と東の尾根上に堀切がある。登り口の南山裾には構居跡?とおぼしき石垣群がある。



草置城跡(一宮町草木)




 城跡近くまで百千家満(おちやま)から山道(車道)が敷かれ、高峰の北尾根上の峠部分に模擬櫓(もぎやぐら)が建てられている。櫓の背後の山の頂上(標高601・6メートル)が城跡が残る。主郭(約8×16m)とそれを取り巻く曲輪跡、東尾根筋に堀切跡がある。登り口の高台に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残る。



田路城跡(朝来市田路)




 田路城跡は、田路川上流の田路谷を見下ろす小高い山腹にあり、城の背後の先に千町越えの峠の稜線が見える。山裾周辺には田路氏の菩提寺である祥雲寺(しょううんじ)跡、守護神の毘沙門堂(びしゃもんどう)がある。現在の祥雲寺は城主の邸跡に再建されたという。十数キロの深い田路谷には多数の宝篋印塔・五輪塔が残されており、この谷で激しい戦闘があったことを物語っている。


戦国武将の足跡が城跡と苗字で今に繋がる

 かつては朝来郡奥田路と宍粟郡千町とは婚姻の繋がりがある隣村で山越えでの村人の行き来があったという。田路姓の分布については、宍粟市と朝来市以外では、夢前町新庄に数多く見られ、神崎郡市川町美佐にあることがわかった。苗字発祥の地田路谷に今は田路という姓はなく、トウジとも読める藤次(ふじつぐ)という姓が多くあり、そこに秘められた関係があったのかも知れない。

 確かなことは、但馬と播磨に生きた戦国武将田路氏の足跡が郡境周辺の城跡に残され、一族の苗字が面々と引き継がれ今に繋がっていることである。




参考:「兵庫県史資料編第三巻」、「朝来町史」、「播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究」、「角川地名大辞典」
※ 山崎郷土会報 No.128 平成29.2.25発行より転載



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地名由来「西本郷・大垣内」 

2020-01-05 16:29:36 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「西本郷・大垣内」   上月町(現佐用町)

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地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)





■西本郷(にしほんごう)

 佐用川支流幕山川流域。平尾村の西に位置し、幕山川が東流する。地名の由来は、幕山の中心で一番早くから開けた所であることによる。背後の標高300mの山頂に、本郷城があり、天正5年(1577)上月城とともに落城したという。
 江戸末期までに本郷村と改称した。西を冠するのは同郡内の同名村と区別するためと思われる。
当村と皆田(かいた)村・中山村などで元禄年間(1688~1704)紙漉きが行われていた。
 古くは当村と大垣内村の2か村とあり、貞亨元年(1684)大垣内村を分村。氏神は幕山神社。社殿によれば治暦2年(1066)に山城石清水八幡宮より勧請したという。明治7年郷社となる。寺院は高野山真言宗の正覚寺があり、境内に元禄年間(1688~1704)に大庄屋であった社孫兵衛一家の墓石がある。孫兵衛は元禄14年(1701)赤穂藩主浅野家断絶の時、百姓に責められ切腹、家に火をかけて一家断絶したという。中世の山城の広岡城跡が北部の標高300mの山上にある。頂上および中腹部分を削平し、数段に加工した跡が残る。「赤松家播備作城記」には本郷掃部助直頼と記される。

 明治22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月城の大字となる。明治23年幕山尋常高等小学校となる。明治39年道路改修を開始し、18年かけて終了。
明治30年前後から副業に、畜産・養蚕を営み、冬季は製炭業関係の山林労務に従事、婦女子は冬季わら芯きりに従事、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。昭和50年中国自動車道が南部を縦貫、サービスエリアが設置された。






■大垣内(おおがいち)
佐用川支流幕山川中流域。西本郷の西に位置し、東西に切れている谷間を幕山川が東流、同川沿いを古代・中世の美作道が通る。地名の由来は、大きな谷間に広がった平地であることによると思われる。地内の宮地には広岡城があった。天正5年上月城とともに落城したという。

 享保2年(1717)には紙屋が6件あり、百姓持林8ヶ所。草山・下木山として才元村・皆田村の山へも入会していた。
貞亨元年(1684)西本郷村から分村して成立。氏神は幕山神社。地内椿に愛宕神社がある。寺院はない。明治6年周専小学校を置く。明治22年幕山村の大字と成り、昭和30年上月町の大字と成る。
 明治27年・28年にスギ・ヒノキの植林事業に着手し、佐用郡内公私有林の植林の先駆をなす。同30年ごろからの副業は畜産・表さん、冬季男子は製炭業に、婦女子はわら芯きりに従事して、昭和25年前後に及んだ。大正12年電灯架設。昭和50中国自動車道が南部を通過。





◇今回の発見
西本郷の正覚寺に残る大庄屋社孫兵衛一家の墓。百姓に責められて切腹とあるがその理由が気になる。


引原 ④ 存在した湖底の笛

2020-01-01 12:07:13 | 一枚の写真(宍粟の原風景)
引原 ④ 存在した湖底の笛

存在した湖底の笛



 湖底の笛は、歌で知られているが、実物の笛が存在していた。
昭和53年頃に引原小学校在校生に配られたという湖底の笛。それは、引原ダムの湖底の土で作られた幻の笛である。


※ダム建設のために移転を余儀なくされた人々の気持ちと、地元にある平家落人伝説を語り継ごうと、創作劇が作られ、その主題歌「湖底の笛」がレコードとして波賀町により制作された。

 


写真:「取材記録集 掘り起こそうわがふるさと No.15 H20.12」より