郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

地名由来「櫛田(上櫛田・下櫛田)」 

2020-01-14 13:51:22 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「櫛田(上櫛田・下櫛田)」  上月町(現佐用町)

(2010.11.4~2019.10.31)


地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■櫛田(くしだ)
千種川の支流滝谷川流域。地名は、川沿いの砂丘・小丘が長く連なった地形から名付けられたと思われる。滝谷川には郡で一番高い飛竜の滝(写真下)がある。北西の高倉山は往時高倉寺があり、羽柴秀吉が上月城攻略の本陣を置いた高倉城、宮山に櫛田城跡もある。原には福円寺があり、塔の石は大正末期に、長谷川災害復旧工事の際、壊して石垣にした。

 文明13年(1481)9月日の上月満吉知行目録写に「一、櫛田庄乃事」と見え、当庄は上月氏の知行地となっている。享保元年(1716)当村が幕府と安志藩との相給になるのに伴い、幕府領を下櫛田村、安志藩領を上櫛田村として分村したとう。ただし、すでに「元禄郷帳」では上櫛田村・下櫛田村とに分かれて記されている。

 明治9年下櫛田村と上櫛田村が合併して成立。明治22年久崎村の大字となり、同30年上月町の大字となる。

 明治30年前後から養蚕・畜産を副業としていたが、わら芯きりを始めた。稲わらの穂先はほうき、次の節間を6寸芯、次の芯を5寸芯といい、麻裏(あさうら)草履、下駄の表材料として売却、郡内で最初に始めたのが当地で、郡内では平福村・石井村以外の村々で、冬季の婦女子の副業として広まった。1日平均1貫目を生産、一戸平均60円程度を稼いだ。郡内に仲買人が数名、奈良県・岡山県・静岡県に出荷した。当地は養蚕農家が少なく、ほかからわらを買い、夏季も従事したという。





□上櫛田(かみくしだ) 
江戸期から明治9年までの村名で、須山・奥村・平谷の3集落がある。ただし、下櫛田村と当村の住家は混在していた。平谷に延宝5年(1677)までには舟着場ができ、蔵元・問屋が置かれ、年貢米等が高瀬船で赤穂へ運ばれた。延享4年(1747)の願書(井上文書)によれば、舟4艘を所持していたが、川水が干水がちで舟の傷みが多いため舟稼の廃業を願い出ている。

 寛保2年(1717)の凶作では、高のうち3割2分を免除された。その他不作時には、1、2割の減免はしばしばであった。
 千種川の支流滝谷川の源流の標高220mの地点から落下する高さ20mの飛龍の滝は江戸時代から播磨の名爆として知られていた。





□下櫛田(しもくしだ) 
原・滝谷・井の谷・石井の4集落。上櫛田村の北に石井・井の谷、南に原・滝谷の2か所に分かれて、井の谷の住民の半数は浄土真宗で上櫛田村に属した。また上櫛田村村に転住するものもあるなど、両村民の住家は混在する。
 石井集落の後方、千種川西岸の高倉山城跡がある。天正6年(1578)4月中旬、毛利方に攻められていた山中鹿介らの篭る上月城救援のために羽柴秀吉・荒木村重らが入城するが、6月26日に引払っている。






◇今回の発見
・櫛田村はわら芯きりを始めた郡内で最初の村。副職として箒や草履に使われる材料として生産していた。
・高瀬船の運営の難しさの一端がわかる。川の水量が少ないと船の傷みが激しいという。
・高倉山城は秀吉が入城した所(上月城の東方の山頂)。今に名を残す山中鹿介は織田側の都合により秀吉軍の援軍を得られないまま、上月城に籠城のすえ毛利軍により落城した。


▼飛龍の滝



地名由来「久崎・家内」

2020-01-14 13:45:04 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「久崎・家内」   (上月町(現佐用町)

(2010.11.2~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■久崎(くざき)
千種川と支流佐用川の合流点。地名は「風土記」に見える久都野の転訛とする説がある。地内には浅瀬山城があるほか、飯の山城跡もある。
 元禄年間(1688~1704)に家内村を分村したと思われる。氏神は大避(おおさけ)神社。この神社は飯の山の南面中腹にあり、9世紀に赤穂坂越(さこし)村の同名社より家内(けない)村の背山の麓に勧請し、のちに現在地に移したという。コヤスノキ社叢林は県指定天然記念物。明治20年千種川畔に金刀比羅宮を建立。高瀬船の舟着場が金刀比羅宮横にあり、年貢米は近郷の村々や作州英田郡方面から牛で運搬、ここから赤穂へ舟積みして送り、さらに海上を大阪・江戸の幕府倉庫へ廻送。上・下2か所に御蔵がある。藩から出張する役人詰所はお役所といわれた。また、浜街道筋でもあることから物資の集散地となっており、門屋・商人・旅籠屋などでにぎわった。

 天明元年(1781)から4年まで、夏季の日照が少なく低温で雨多く、米価が暴騰し、米1石130匁・麦1石105匁に達し、葛(くず)・蕨(わらび)の根を掘り、わら芯を刻んで団子にして食した。慶応2年(1866)大日山村・西新宿村などの餓死寸前の住民が当地の米屋・酒屋などに押し掛けた。一部は打毀(うちこわし)にあい、大黒屋(高見家)には斧の伐り込み跡が残る。
 
 明治6年秀潤小学校設置。同22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、昭和33年からは上月町の大字となる。
 明治23年出水で全戸浸水、全員宮山に非難。同25・32年、大正7年にも大水害。明治31年台風で25戸全壊、明治30年水稲にウンカ大発生、収穫半作という。明治30年頃から、わら芯切りが米麦作に次ぐ農家収入となり、畜産・養蚕がこれに次ぐ。物品販売の商店・飲食店・理髪店・旅館も出現、町としての条件が整いはじめる。大正8年播美自動車の乗合自動車が、上郡~平福間を運行、停車場が設けられた。同9年双観橋架橋、県費3万7,000円、鉄筋コンクリート、路面はアスファルトを塗る。同12年電灯架設。





■家内(けない)
久崎村の南東、千種川の東岸に位置する。千種川中流域に広がる平地。地名の由来は、川端の湿原で、毛無(無収穫地)が転じて家内と成ったと思われる。村名は、正保郷帳には見えず、元禄郷帳に「古ハ久崎村」の注記付きで村名が見えることより元禄年間(1688~1704)に久崎村から分村したと思われる。

明和元年(1764)・同5年・同8年・同9年・寛政8年(1796)・弘化4年(1847)は大洪水により、田畑浸水。昔は護岸がなく、出水のため田畑が流失・荒地・開墾・河成と、検見ごとに項目が入り交じり、免租になったものが多くあった。
 千種川の下流の大酒村との間で天保3年(1832)当村の要水落しを妨げない、舟道を妨げないなどの覚書を交わした。この慣行が現在も守られている。氏神は久崎村の大避(おおざけ)神社集落背後の山腹に行基開創と伝える清林(せいりん)寺があり、寺内に室町時代の宝篋印塔1基がある。

 明治20年千種川沿岸の道路を県道に編入。同22年久崎村の大字となり、昭和15年久崎町、同33年からは上月町の大字となる。明治30年頃から副業として、畜産・養蚕を導入、冬季はわら芯きりを営み、昭和25年前後まで続いた。明治41年播美馬車が久崎に創立、上郡~大原間の輸送を開始、便利になった。大正12年各戸に電灯架設。






◇ 今回の発見
・久崎は、水陸交通の要衝に位置し、元和元年(1615)に高瀬船が通じ、以後佐用郡内の諸村の年貢米や物資が運びこまれた。物資の集散地としておおいに賑わった村であった。同時に、千種川と佐用川の合流する場所であり、川の氾濫に悩まされた集落でもあった。
・明治41年播美馬車が久崎に創立、上郡~大原間の輸送を開始、大正8年播美自動車の乗合自動車が運行。今では、旧国鉄時代の智頭線の路線凍結(昭和55年)を乗り越え、平成6年より第三セクターの智頭急行(上郡~智頭)が地域発展の夢を乗せている。