郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨・但馬 田路氏の城をめぐる

2020-01-05 17:07:59 | 城跡巡り
播磨・但馬 田路氏の城をめぐる


【閲覧数】2,219件2017.3.5~2019.10.31)





 田路(とうじ)氏という地元以外では難読の苗字は但馬国朝来郡田路谷(朝来市)が発祥の地とされる。田路谷は円山川支流の田路川流域にあり、古くは田道荘(たじのしょう)(荘園)があった地で“たじ”と呼ばれていた。

 田路氏は関東の千葉氏出自の御家人で、朝来郡田路谷から宍粟郡三方谷へ進出した国人と言われている。但馬朝来郡と播磨宍粟郡の境目の領主で、宍粟郡北部の三方東庄(一宮町)に本城をおき、福知の高取山城と草木の草置城を支城として、但馬朝来郡田路谷につづく千町(宍粟郡一宮町)越えのルートを押さえていたと考えられている。

 田路家文書には仕えた主君・武将からの感状(軍忠状)が残されている。列記すると赤松惣領家赤松政則(置塩城主)、赤松政秀(龍野城主)、尼子晴久(出雲・月山富田城主)、山名氏家臣太田垣朝延(竹田城主)、羽柴秀吉の名のある武将からの軍功の文書である。田路氏は赤松惣領家に属していたが、戦国時代には対立する主君でさえ状況に応じて柔軟な対応のできる一族集団であったと思われる。田路氏は天正8年(1580)羽柴秀吉軍の宇野攻めに秀吉方に組みし、赤松則房の指揮下のもと長水城攻めに加わっている。一方、朝来の田路城にいた田路一族は天正年間に秀吉軍にことごとく一掃されたようである。


田路氏の城跡

三方山城跡(一宮町三方町)




 御形神社の西方に見える山の南尾根先端部(標高382・5メートル)にある。主郭(約26×9メートル)と出郭、主郭背後に大堀切をもつ小規模な山城跡である。田路氏が本拠とした城で、東の山裾に屋敷跡があったと考えられる。



高取城跡(一宮町福知)




 福知渓谷の入り口の字高取の北にそびえる高取山(標高608メートル)の頂上部にある。頂上部は狭く、わずかな土塁と削平地が認められるが遺構は明確ではない。南と東の尾根上に堀切がある。登り口の南山裾には構居跡?とおぼしき石垣群がある。



草置城跡(一宮町草木)




 城跡近くまで百千家満(おちやま)から山道(車道)が敷かれ、高峰の北尾根上の峠部分に模擬櫓(もぎやぐら)が建てられている。櫓の背後の山の頂上(標高601・6メートル)が城跡が残る。主郭(約8×16m)とそれを取り巻く曲輪跡、東尾根筋に堀切跡がある。登り口の高台に宝篋印塔(ほうきょういんとう)が残る。



田路城跡(朝来市田路)




 田路城跡は、田路川上流の田路谷を見下ろす小高い山腹にあり、城の背後の先に千町越えの峠の稜線が見える。山裾周辺には田路氏の菩提寺である祥雲寺(しょううんじ)跡、守護神の毘沙門堂(びしゃもんどう)がある。現在の祥雲寺は城主の邸跡に再建されたという。十数キロの深い田路谷には多数の宝篋印塔・五輪塔が残されており、この谷で激しい戦闘があったことを物語っている。


戦国武将の足跡が城跡と苗字で今に繋がる

 かつては朝来郡奥田路と宍粟郡千町とは婚姻の繋がりがある隣村で山越えでの村人の行き来があったという。田路姓の分布については、宍粟市と朝来市以外では、夢前町新庄に数多く見られ、神崎郡市川町美佐にあることがわかった。苗字発祥の地田路谷に今は田路という姓はなく、トウジとも読める藤次(ふじつぐ)という姓が多くあり、そこに秘められた関係があったのかも知れない。

 確かなことは、但馬と播磨に生きた戦国武将田路氏の足跡が郡境周辺の城跡に残され、一族の苗字が面々と引き継がれ今に繋がっていることである。




参考:「兵庫県史資料編第三巻」、「朝来町史」、「播磨国宍粟郡広瀬宇野氏の史料と研究」、「角川地名大辞典」
※ 山崎郷土会報 No.128 平成29.2.25発行より転載



◆城郭一覧アドレス


最新の画像もっと見る

コメントを投稿