郷土の歴史と古城巡り

夏草や兵どもが夢の跡

播磨 白旗城(1)

2020-01-09 09:55:38 | 城跡巡り
【閲覧数】5,524件(2011.11.16~2019.10.31)


播磨 白旗城跡(1)  赤穂郡上郡町赤松・細野・大富・野桑



▲麓から山城を見上げる           



▲南からの鳥瞰 by google


白旗城のこと


   白旗(しらはた)城は南北朝動乱期(14世紀~16世紀)時代の山城です。場所は赤穂郡上郡町赤松・細野・大富・野桑の集落にまたがる白旗山の山頂にあります。白旗山は上郡町北部の千種川に張り出した急峻な峰の中にあり、赤松側から望むと、城がどの峰にどのようにあるのか一望しただけではわかりません。




  登ってみると山城の陣容に驚かされます。白旗山(440m・比高380m)山頂付近の狭量の尾根筋や南谷筋に櫛橋丸(くしはしまる)、郭跡(本丸・二の丸・三の丸)・馬場丸・侍屋敷等の防御施設が全長550mにわたって造られているのです。


▼東から白旗城跡・赤松の旧跡を望む




城主 赤松則村(円心)  1277~1350のこと




▲ 円心坐像(兵庫県指定文化財) 南北朝時代(14世紀)の作  法林寺境内 円心館内


  伝承では、赤松村に地頭代官としてやってきたのが、佐用荘(さよのしょう)の地頭山田(宇野)則景の四男の山田家範で、彼はこの地で赤松を名乗ったといいます。当時、有力な豪族は地名から名前をとるのを常とし、荘園などの所領地名を名にすることもありました。その赤松家の4代目にあたる傑出した人物が赤松則村(円心)なのです。※円心は法名

 円心は室町時代には播磨・備前・美作の守護大名になります。建武3年(1336)足利尊氏に組みして、白旗城を築城し、新田義貞との五十余日に及ぶ城攻めに耐え、足利の勝利に導いた話は有名です。(出典は「太平記」)

 そのあと、二代目の則祐が城山城(きのやまじょう・たつの市新宮町)を築城しています。

  嘉吉元年(1441年) 6月に 円心より四代目の赤松満祐 が将軍足利義教(よしのり)を※暗殺し、幕府軍の追討にあい、城山城で自刃し、赤松一族は一時衰退しました。※嘉吉(かきつ)の乱


 その後、満祐 の弟の係類である政則が置塩城(おじおじょう・姫路市夢前町)を本城として赤松氏 を再興すると、白旗城 はその支城として戦国時代を迎えることになったといいます。

 白旗城跡、置塩城跡と感状山城(相生市矢野町)跡の3城は赤松氏城跡として「国の史跡」に指定されています。



◇参考 「赤松氏のふるさとをゆく 上郡町教育委員会」より



コメント

播磨屋   2011.11.16

    赤松系の山城が次々とアップされますね。白旗城は、南北朝時代のものに戦国時代が重ねられていて主郭からの眺望と相待って素晴らしい城跡ですね。
 しかも山麓には赤松氏ゆかりの史跡が散財し城跡までの山登りもなかなかの醍醐味がありました。
 ただ、独行だったこともあり、戦国時代に改修されたという石垣を持った曲輪群を
藪のすごさに負けて探索を断念したことが心残りな城跡です。いつか、再訪しようと思いながら実現にいたらず研究会で見学会が企画されると是非参加したいです。

返信 
タケネット 2011.11.16

 白旗城(その2)で触れる予定ですが、なにせ登るのに1時間はかかり、規模が大きいので、本丸や二の丸の南の郭群が気になったが確認できていません。この城は幾たびか戦いの場となっていて、戦いの向きが東西にあったような気がします。
是非一緒に行きましょう。毎年11月23日の祭日は、上郡町では白旗城祭りが行われ、山城歩きもあるようです。確かめてみます。

返信 
播磨屋  2011.11.17
 
 情報、ありがとうございます。 
11月23日(水曜日・祝日)、午前9時から白旗山を舞台にしたイベントがありますね。
山麓でのイベントはともかくとして白旗城跡登山会には参加しようと思っています。
 取り急ぎ、ガイドの方など白旗城跡登山会の内容を電話確認してみます。
     
 
返信
播磨屋  2011.11.19

 白旗城登山は十時スタートだそうです。市役所の担当者さんは、九時半ごろ、まつり会場に来ていただければけっこうです、とおっしゃってました。
往復三時間くらいの行程とのこと。下山後いバザーで食べ物もありますよとも、そえられました。
    


城郭一覧アドレ

地名由来「才金(金子・才元)」 

2020-01-09 09:35:53 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「才金(金子・才元)」  上月町(現佐用町)

【閲覧数】2,210件(2010.10.27~2010.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■金子(かなご)
西本郷の北、田和村の西に位置し、桜山川沿いに金子・舟戸(船室)の2集落がある。北の桜山村に通じる道がある。
元文4年(1739)の平福領一揆時には家数28であったが、全体が窮乏状態で、住民が異形姿で平福町は押し寄せた。一揆収束後当村の3名が処罰され、村に※鳥目一貫文の過料が科せられた。天保7年(1836)同8年の飢饉および桜山銅山の鉱害被害により窮乏が甚しく、年貢納入のために家財をことごとくと取り立てられ、多くの百姓が離散し、村中すべて荒れ果てていたという。代官竹垣三衛門は広山村(三日月町)、末包(すえかね)村・淀村・仁方(にかた)村(佐用町)の庄屋と下櫛田村の誼作、赤穂郡大酒村の庄右衛門らに復興趣法を命じ、引立助成を行っている。

   明和9年(1772)の堂社書上帳に十二社権現がみえ、本村産社とある。舟戸集落は西本郷村の氏子であった。十二社権現は明治28年に幕山八幡宮に合祀された。明治8年(1875)才元村と合併し才金村となる。

※鳥目:銭の異称。 江戸時代までの銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたところからいう。





■才元(さいのもと)
幕山川支流の大地川と熊井川流域。才元・寺の奥・才金・熊井・大地に集落がある。地名は、才(塞)の神に由来するか。大地川上流に四才谷池・大地池、熊井川上流に熊井池がある。

   天保7年(1836)長雨による稲の不作、翌年春麦の収穫を待ちかねて瓜の根などを多く食した人々が全身腫れて病死したという。安政元年大地震。同3年台風。明治2年凶作で木の実、竹の実を集めて食した。明治8年(1875)金子村と合併し才金村となる。






■才金(さいかね)
幕山川支流桜山川流域に位置する。明治8年、才元村と金子村が合併して成立。はじめ幕山村、昭和30年からは上月町の大字となる。

  明治30年前後から農家の副業として、畜産・養蚕を導入、冬季には男子は製炭業関係の山林労務に従事、婦女子はわら芯切りに精励、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。



 元文4年(1739)の平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判している。金子村との境の標高310mの山上に中世末期の山城跡があり、主郭を中心に数段の削平地と堀切跡3か所が残るが詳細は不明。天満神社があり、本殿の元禄14年(1701)造営棟札、宝暦2年(1752)銘の灯篭2基と同年の鳥居の額が残る。
明治20年樺坂分教場を廃し、江川村立小学校組合を組織して今に至る。同22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。
明治30年前後から農家の副業として畜産・養蚕を導入、冬季は製炭関係の労務に従事し、婦女子はわら芯きりで稼ぎ、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。

※樺桜:カバノキ類に木肌が似ている桜の木、ウワミズザクラ、カニワザクラともいう。



◇今回の発見

・飢饉時に瓜の根、竹の実などを食した記録があるという。瓜とは何か。(からす瓜のこと?) 竹や笹の実は、味が悪いが救荒食だったという。

・金子の鉱害被害や飢饉時に窮乏し、年貢納入のため家財道具まで取立てられ耕作放棄、百姓離散に追いやられた。そして村中が荒れ果てたという。藩の収入の柱が農民の年貢であり、藩の財政の安定は、農民の生活安定が前提なのだが、こんな歴史が近くにもあったとは。




地名由来「金屋・中山」

2020-01-07 08:47:40 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「金屋・中山」   上月町(現佐用町)

(2010.10.21~2019.10.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地)




■金屋(かなや)
 大日山(おおびやま)川支流幕山川下流域両側の平野部に立地する。上土居・中土居・下土居の3集落からなる。北の蔵垣内(くらがいち)村へ出て中世の美作道に通じ、南の上月村へ出て近世の美作道に通じていた。地名の由来は、古代の砂鉄製鉄にちなむと推定される。

 昭和58年ほ場整備事業実施のため、発掘調査をしたところ、たたら跡が3か所発見され、ほかに山麓にも鉄滓が多量にある箇所が2、3か所ある。広岡氏の居城跡があり、広岡郷の中心地が金屋であった。字釜谷には鉄滓が多量に散布している。湯谷に比丘尼(びくに)城と伝える中世山城があるが詳細は不明。上土居西方山麓の中世の寺院跡地に光明寺と称される小堂がある。金屋村文書に「寺の下・とう・とうのもと・とうのまえ・とうのむかい」などの地名がみえる。北部の独立峰上に吾勝(あかつ)神社がある。字古土居(ふるどい)から鎌倉・室町期の中型五輪塔が5基発見された。

 明治22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。明治30年前後から養蚕・畜産を副業とし、婦女子は冬季の副業としてわら芯切りに奨励し、男子は冬季製炭に従事する者が多く、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。





■中山(なかやま)
金屋村の北東に位置し、幕山川支流の中山川が南西流する。古代中世の美作道が通り、塞(さい)の峠を越えて蔵垣内村に通じている。地名の由来は、南北に山があり、東西には峠があって、山の中の村であることによると思われる。
村の南方に標高299mの高雄山があり、山麓の福円寺は百済国の※日羅(にちら)に帰依した僧による建立と伝え、日羅の墓がある。赤松氏が代々帰依した寺で、赤松円心には100町歩の田地を寺領としたという。天正5年(1577年)織田信長に攻められた福原城主則尚が山内で自刃、胴塚がある。
※日羅:6世紀朝鮮半島にあった百済の王に仕えた日本人

 寺院は真言宗福円寺。住僧大寛が文政12年(1829)より明治29年(1896)の間の見聞を記した大寛一代記(福円寺蔵)は貴重な地域資料である。浄土宗浄福寺が、大永4年(1524)正西の開基と伝え、昭和20年代廃絶。
 明治6年成化小学校創立。同22年幕山村の大字となり、昭和30年からは上月町の大字となる。明治30年前後から農家の副業として、畜産・養蚕を取り入れ、冬季男子は製炭業関係の山林労務、婦女子はわら芯切りに従事。明治39年から道路を改修、大正12年電灯架設、昭和50年中国自動車道が東西に開通。





◇今回の発見
・金屋には古代蹈鞴跡が発見され、小字には製鉄に関わる地名が残る。中国自動車道建設の副産物です。地下には多くの歴史が隠されています。
・福円寺蔵の大寛一代記は貴重な地域資料とあるが、見てみたいものです。

播磨 三森城跡

2020-01-06 10:07:56 | 城跡巡り
【閲覧数】1,283件(2016.10.13~2019.10.31)



▲三森城全景


▲三森城位置図 (昭和23年航空写真 国土交通省)




播磨の城跡「三森城」    宍粟郡安富町三森(現姫路市安富町)

交通の要衝に位置する中世初期の山城


 三森城跡は宍粟郡の南東部(姫路市安富町)にあって東へは加西北条方面の古道、南へは安志川(林田川)沿いに姫路・竜野に至る街道があり、古くからの交通の要衝地点にあった。三森字城山の標高250m・比高130mの山頂部に小さな曲輪跡と数段の削平跡が見られるが、自然地形に近い。戦国末期に見られる竪堀や堀切の跡がないため、中世初期の小規模な山城であるといえる。西側の安志川(林田川)に接した安志姫神社の宮山稜線部からの眺望はよく、安志坂上部や安志川流域が一望でき、城山と連携した見張り台によって、南麓の街道筋を押さえ、かつ安志庄内の動きを監視していたものと見られる。さらに三森城は狼煙(のろし)により長水城と連絡していたのではないか言われている。頂上から尾根筋に少しばかり下ると狭い鞍部になった所に至る。そこに狼煙台があったという。今はその場所は送電線の鉄塔工事のため改変されている。三森から三坂(下河)そして三谷越しの切り通し北尾根に狼煙台が想定されているが、本当に狼煙台があったのかどうか、有事の際に狼煙が有効に使われたのか、その確証はない。


▲頂上曲輪跡                 




▲鉄塔のある鞍部 狼煙台があったという

▲鉄塔付近からの西の展望



城主は三森近江守(伝承)

 三森城の城主については、「赤松家播備作城記」には記載がなく、ただ一つ宝暦5年(1755)の「播磨古跡考」佐用の岡田光僴)に「三森古城 安志庄三森村に有り。三森近江守と云し人住之と云」とあるのが初見である。しかし三森近江守の名は赤松家臣団に見当たらない。この「播磨古跡考」が書かれたのは長水城が落城して175年後のことである。三森氏の存在を裏付ける手掛かりはない。


大手道に長い石垣を残す居館跡


 三森城跡について、特筆すべきは城山の西南の高台で大手道あたる場所(字坂口)に武士の居館跡の石垣が残っていることである。竹藪の中には野面積の石垣に区分けされた幅5m~10m、長さ20m~40mの屋敷跡が五段に及ぶ。
 中世の時代は、山城の中腹や山麓に「根小屋」と呼ばれた居館があり、いざ合戦ともなれば相手の軍勢によって少数であれば野戦を選び、多数の場合は山城に立て籠もり応戦していたようである。



▲大手道(登城口)




▲山麓の竹林に東西にかけて段階状に曲輪跡が残る    




赤松家の弱体化と宇野氏の離反

 天文7年(1538)に出雲の尼子氏が播磨に侵攻し、備前・美作・播磨の守護赤松晴政(置塩城主)はその侵攻を食い止めることもできず敗走し、播磨は大混乱に陥った。尼子氏が本国で毛利氏との闘いに敗れ播磨を撤退すると、今度は赤松重臣の浦上氏が台頭し、赤松を牛耳る動きに出た。こうして16世紀半ば以降赤松家の勢力は一武将ほどに低下していった。

 天正5年(1575)織田信長の命により羽柴秀吉の中国制圧で、置塩城(夢前町置塩)の赤松惣領家最後の当主赤松則房は、秀吉の軍門に下り、播磨攻めに加わった。天正8年4月秀吉の宇野攻めの前哨戦として広瀬(山崎町)に攻め入っている。戦国期末期宇野氏は「織田か毛利か」の決断をする以前に、主家赤松氏から離反し敵対状態であったため、夢前・林田につながる街道筋は常時緊迫した状況であったと考えられる。

 そこで置塩から安志には三坂ルートがあることに注目している。三坂は宍粟郡と飾西郡の郡境に近く、その峠への道に「木戸口」という小字地名が残されている。それはおそらく夢前町護持につながる街道の見張りの門があったのだろう。ゆるい峠を越え下って行くと奥護持の西谷口に至る。そこには赤松置塩城防衛の護持構居跡がある。則房が宇野征伐にこの護持峠越えの最短ルートを利用したことは十分考えられる。




▲置塩・三坂推定ルート



三森の居館跡は中世遺構として貴重なもの


 三森城は宇野氏と主君赤松氏の臣下の関係が良好であるときは不用なものであったが、戦国後期ににわかに宇野氏は配下の者をして三森と三坂を守らしていたと推測される。

 宍粟郡を支配していた宇野氏の本城長水城や篠ノ丸城の山麓には城主の居館跡や菩提寺、政治を行う政庁があったと思われるが、近世の町場化と400年以上の長い年月にほとんどが跡形もなく消失してしまった。その中にあって三森に残された居館跡は宇野氏ゆかりの中世遺構として貴重なものと理解している。



参考:「安富町史」他

※山崎郷土会報 NO.127 28.8.28より転載 (写真追加・カラー化)



◆城郭一覧アドレス

地名由来「福中(田和・来見)」

2020-01-06 09:37:37 | 地名由来(宍粟市・佐用郡・姫路市安富町)
地名由来「福中(田和・来見)」  上月町(現佐用町)

【閲覧数】1,539件(2010.10.25~2019.120.31)

地名の由来(宍粟ゆかりの地及び周辺の地) 




■田和(たわ)
 佐用川支流幕山川中流の北、大撫山の西、山間の谷間に立地する。狭い谷川と道の両側の山裾には石垣の棚田が重なる。地名は田和が峠であることから、峠の下の集落ということによるか。
 元文4年(1739)の旗本松井氏平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判し、参加している。
弘化5年(1848)の福円寺人別帳によれば、当村大乗院は無住につき中山村の福円寺が兼帯すると寺社奉行に届け出ている。植木谷村との境の通称たわんどうの上に「いきにんぎょ」と呼ばれる塚が築かれている。時代は不祥だが、大乗院の僧が生きながら穴に入り入寂したと伝えられている。
 明治8年(1875)来見村と合併し福中村となる。



■来見(くるみ)
 佐用川支流幕山川中流の北、大撫山の西。田和村の東、中山村の北に位置し、大撫山の西側の谷窪に集落がある。地名の由来は、来て見ないとわからない山地の集落であることに由来するという。上・下2か所に集落がある。

 寛永17年(1740)平尾村を分村している。享保16年(1731)当村半右衛門、豊福村(旧佐用町)伝右衛門ら5人が領主旗本松井氏への賄銀に難渋して江戸幕府に出訴し、罰せられている。元文4年(1739)の旗本松井氏平福領一揆の際、当村も天狗回状に連判し、先年貸付けられていた闕所銀の利銀返済免除などを要求したが、当村十郎右衛門は田畑・家屋敷を取り上げられている。平福村の光明寺末の正覚庵(現廃寺)は文化14年(1817)に武州入間(いるま)村(埼玉県入間市)出身の庵主伝心が庵を再建し、伝心は天保2年(1831)に死去し当地に葬られた。
 明治8年(1875)田和村と合併し福中村となる。



■福中(ふくなか)、
 西播山地北西部に位置する。明治8年、田和村と来見村が合併して成立。明治22年幕山村の大字となり、昭和30年上月町の大字になる。

 明治30年前後から、農家の副業として畜産・養蚕を導入、冬季の副業に製炭業関連の山林労務に従事するようになり、婦女子はわら芯きりに精励し、昭和25年前後まで続いた。大正12年電灯架設。





◇今回の発見
・前回は蔵垣内村と平尾村が明治8年に合併し、福吉村となり、今回は同年に田和・来見の両村が合併し、福中村ができた。いずれも頭に「福」を付けた。
・来見は慶長国絵図には、「くるミ」とある。来見村の地名の由来は、来て見ないとわからない場所であることからとしているが、ほんとにそうであるなら、なんとも投げやりな地名のついた村名であるが、逆にどんな所なのか行ってみたくはなる。